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主のはかりごと

2023年1月1日

嶋貫 佐地子
マタイによる福音書 第2章1-23節

新年聖餐礼拝

キリストの誕生のとき、それを地上で喜び、お会いしに行ったのは、羊飼いたちと博士たちだけだったと言われております。でもこのあいだの土曜日と日曜日は、ほんとうにたくさんの人たちが、この礼拝堂に集まりました。それからその前に献金をお届けに数名の方も教会にいらっしゃいました。中には一年ぶりに、帰って来たといっていいくらいの方々もたくさんいらして、その一人ひとりにお会いして、お互いにおめでとうと言いあいながら、ああ、この一年、この方にもこの方にも、いろいろなことがあったと、思わされる時でした。

アブラハムが、神様からしていただいた約束は、あなたの子孫はこの星の数ほどになるということでしたが、ほんとうに救い主を信じる神の子たちは、満天の星のようになって、そしてこうしてクリスマスが、自分の救いとして、祝われていると、それが実現していると思わされました。

新しい年になり、その初めには、「今年はああしようこうしよう」と、「これはしておかないと」、というような、いろいろな心の計画を立てるものですが、マーティン・ルーサー・キング牧師が、こんなことを言っていました。

計画は大きくしよう
人の生涯は百年にも満たない。しかし君たちは、神を含むほど大きく、永遠を含むほどの大きな、人生の計画をたてよう。時間のくさり、空間の手かせに、縛られないほど大きく、幅広く立てるように勧めたい。そうして、君たちの命を。君たちの持つすべて、君たちのすべてを、その御旨は変わりたもうことのない宇宙の主に、ゆだねよ。

その御旨は変わることのない、宇宙をも支配される主に、君たちのすべてをゆだねよ。
それは自分の、ちょっと先のことや、それから死ぬ前のことや死んだあとのことだけではなくて、君は、神の計画の中にいよう。ということだと思います。永遠を含むほど、大きな、変わることのない神の計画の中にいよう。

キリストを拝みに行った博士たちも、その計画の中に入った人たちでした。彼らはただ、神のなさった星に動かされたのです。彼らは東の方で「その方の星」を見たのですと言いました。なぜ「その方の星」とわかったのか、それはわかりませんけれども、博士たちは、星の知識だけでなく、自然に関する神秘的なこともよく知っていたのです。だからその特別な星が現れた時、これは何か、特別なことを、天体をも動かされるお方が、なさったのだと、すぐに信じたのです。

ところが、彼らが旅をして、エルサレムに入って来ましたら、困ってしまいました。星が見えなくなったのです。ここまで導いてくれた星が見えなくなって、暗くなったのです。

このあいだ、クリスマスの日に、ここで教会学校のページェントが行われました。そのページェントの中で、ヘロデが、部下に、嬰児虐殺の命令を出すシーンがありました。そしてその命令を受けた部下を、ほんとうに小さな子がいたしまして、そのときこう言ったのです。
「皆殺しでごじゃいましか?」
その言い方がとても可愛らしかったので、みんな笑ったのですが、でもおそらく、心の奥では皆様つらい思いになられたのではないかと思いました。
「皆殺しでごじゃいますか?」

ヘロデが、キリストの誕生を恐れて、ベツレヘムとその近くにいる二歳以下の男の子を一人残らず殺させたという出来事です。ヘロデ役をしたお子さんも部下の役をしたお子さんも、そのご両親はそのセリフに、おつらい思いをされたかもしれません。でもこの出来事なしに、クリスマスはないのです。
聖書の左側のページにある、クリスマスの出来事の中で、ほんとうに、人の闇が濃くなる出来事です。ヘロデがキリストの誕生をどれほど恐れたか。二歳以下の子がどれほど脅威であったか。神のお心に、どれほど人が反対したか。人間の思いというのは、人というのは、そういう思いをもつのだということを、聖書は言うのです。そして、それは今も変わらないで。世界に起こっています。皆殺しでございますか。

まだ幼い子どもたちが、何もわからないまま殺される。そういう人間の事態に。
しかし、そのために、生まれてきた、
ひとりの子がいたと。
その、罪ある人間のために死ぬこと。そのために、死ぬために、来た子がいるのだということを。それが神の御子であると、聖書は告げているのです。

昔のことですけれども、教会の子どもたちというのは中高生になりますと、夏に大きなキャンプに参加したりします。中高生がいっしょに涼しいところに行って泊まるのです。特に、中高生くらいになりますと、そのキャンプの中で、普段は話せないようなことや、自分でも気付かないような、心の深いところにある思いを口に出せるような時でもあります。あるとき、そのキャンプの中でこういうことがありました。そのときはグループに分かれてわずかな人数で、夏の盛りの蝉の鳴き声が、外で聴こえるような、明るい部屋の中でのことでした。
ある高校生になったばかりの男の子が、今読みました聖書の箇所が、自分はとても気にかかると言い始めました。マタイによる福音書第2章、16節から。ヘロデが、キリストの誕生の知らせを聞いてしたこと。ひとりの王が不安を抱き、その背後にいる悪魔の挑戦のような、罪を犯したことです。

その高校生の男の子は、それが気になるというよりも、問いをもって、ずっと、つまずいていたと言っていいと思います。その子は、自分のことをそのときに言い始めましたが、自分がまだ幼い時に、生まれたばかりの自分の弟が死んでしまったことを、話してくれました。その自分の傷と、この聖書の箇所が重なったのだと思います。
その子は小さな時から教会に通っておりましたから、神様のことを信じていて、イエスさまも救い主だと信じている。けれども、自分が洗礼を受けようという、そういう段になるときに、そういうことをキャンプで思わされる時に、どうも、この聖書の箇所がひっかかってならないと、そのような話であったと思います。どうひっかかるのかというと。
それは、どうして神様は、この悲惨なことを、おゆるしになったのか。どうして、何の罪もない赤ちゃんが殺されなければならなかったのか。イエスさまだけが、たすかればよかったのか。どうしてそれが聖書の実現なのか。そういうことも含んで、彼が最終的に言ったのは、この事でした。

どうして死ぬのが、自分ではなくて弟だったのか。どうして自分は生き残ったのか。
そのとき彼の目は赤くなっていました。

彼が幼いときに受けた傷は、ずっと彼の中にあったのだと思います。自分だけ、どうして生き残ったのか。

私は、この箇所はずっと、人間の悲惨な罪の箇所というふうに、それまで読んでいましたが、そのときに思いました。この箇所は、残された者の、嘆きの箇所でもあるのだと。そこに旧約聖書のエレミヤ書第31章(エレ31:15)の言葉が引用されます。18節です。

「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子どもたちがもういないから。」

お母さんたちを代表して、ラケルという一人の母親が泣いている。慰めをも拒否するほどに。そして、17節にはこうあります。

「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。」

実現した。どうして聖書の実現なのだろう。神様は、このことを知っておられたのだろうか。

マタイによる福音書というのは、旧約聖書の預言の実現を他よりも多く伝えます。キリストが来られたのは、聖書に言われていた通りだった。その実現であったと言います。この箇所の周りにもそれが散りばめられています。2ページの第1章22節にも、キリストの救いを、「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と言い、今日のところの第2章15節にも、さらにはこのあとの23節にも、幼子であったキリストがエジプトに避難し、「ナザレの人」として戻ってきたことも、「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と言います。でもこの17節の、ここは違いました。
「実現するためであった」、ではなくて、「実現した。」
神の、御旨ではなかったのに、それが起こった。そうしたら、福音書は思い出したのです。預言者エレミヤの言葉にあった。あの言葉が、実現した。

ラケルというのは、創世記に出てくるヤコブの奥さんです。自分の子が死んだと思って、悲しんだであろう母です。それをまず、あとのエレミヤ書が思い出したのです。エレミヤの時はバビロン捕囚の時でしたから、わが子たちがバビロン捕囚で連れて行かれる。その子たちを見送る、母親たちの嘆きを見て、あのかつてのラケルが、墓の中から泣いていると、それが聴こえると、エレミヤは言いました。わが子たちが連れて行かれる。今も世界で起こっているそういうことを、戦地に連れて行かれてしまう息子たちのことを、どうして放っておくのかと、神様はまた責められます。つまずきは避けられない。けれどもそのつまずきを、神ご自身はお受けになりますし、むしろお与えになる。星が見えなくなるのです。そこで人の下手な説明などはお望みではない。でも、

ラケルは、ベツレヘムの近くに葬られたと、創世記で言われています(創世記35:19、48:7)。その母ラケルが葬られたベツレヘムに、キリストはお生まれになりました。神様はラケルの悲しみをお忘れになりませんでした。エレミヤ書でも、ラケルの泣き声を聴き、ラケルが泣いていると言われたのは神です。ラケルが泣いている。「ベツレヘム」と、創世記で、最初に聖書で言われた時から、人が犯したあやまちによって、悲しむ人たちを、神は忘れない。

このような、痛ましい目にあった子どもたちのことを私どもが忘れたとしても、神は忘れない。だから、神の御子が来たのです。

ラケルが葬られたところに、キリストはお生まれになりました。けれどもまた、逆にいうと、キリストがお生まれになるところに、母は葬られた。
時間に縛られない、永遠をも含む、
主のおはからいに、そのベツレヘムに、
私どもの、慰めがあるのです。

さきほどの高校生の男の子が、その自分の話をしましたとき、そこにいた牧師が、私もそのとき初めて知ったのですが、彼と同じ経験を持っていたことを話されました。つまり、自分も弟を亡くし、そして自分も同じ気持ちをもった、と言いました。なぜ、自分じゃなかったのか。絶望の淵に立ち、ひどく悩んだ。だけれども、その牧師はそのとき、こう言いました。
ぼくは、そこから、
イエスさまに救われたんだよ。

彼は、その牧師の言った言葉に、深くうなずきました。

博士たちは、エルサレムに来て、星が見えなくなりましたが。でもベツレヘムに向かうと、その星が再び現れて、「彼らに先立って進み、ついに幼子のいる上に止まった」(2:9)とありました。博士たちは「その星を見て喜びにあふれ」(2:10)て、
幼子に、お会いできました。

新しい年を迎えます。
幼子にお会いした私どもは、
神のご計画の中にいよう。
明日何があっても、その御旨は変わりたもうことのない、主のおはからいに、君たちのすべてを。
ゆだねよ。

 

父なる神様、
あなたの御旨のみがあなたによって実現する。御子のもとに、救いの約束は必ず実現することを共に信じさせてください。この一年も御手にすべてをゆだねます。
主の御名によって祈ります。アーメン