混沌の先を見るまなざし
出エジプト記 第14章19-25節
左近 豊(美竹教会牧師,青山学院大学宗教主任・教授)

主日礼拝
今日は、こうして鎌倉雪ノ下教会の皆さんと共に礼拝をささげ、み言葉を噛みしめる時与えられ、感謝いたします。20年ぶりになるかもしれません。
ある新聞の論説で、森本あんり先生が米国内の「妥協なき対立」の思想的背景について論じたものが紹介されていました。「伝統的な価値や善悪の基準が崩壊するなか、アイデンティティーを巡る対立は、自らを「正しい」とする抜き差しならない敵対に行きつく。トランプ氏を支持する宗教勢力もあるが」「『神の正義』と『自分たちの正義』を取り違え、絶対化する動きが米国でも強まっている。自分たちの意見が正しいと信じ、納得できないものは受け入れないとき、『相手が何かを仕掛けている』という陰謀論が強まる」と。
聖書が本当に語っている事は何か、よりも自分の信念を正義感の後ろ盾となる言葉のみ抜き出して振りかざし、自分たちの正義を絶対化する動きはアメリカだけではなく、ロシアでもイスラエルでもヨーロッパでも、そして来週参議院選挙を迎える私たちの間にもあることに気づかされます。教会で聖書を紐解く私たちは、いまこそ聖書が本当は何を語っているのかに真摯に耳を傾けて、神の前に立って正気に返る時なのだと思わされます。
わたしには神の言葉に打たれた経験があります。それが今でも私の原点になっています。35年前のことになります。1990年の秋、59歳で急逝した旧約学者であった父が生前、ある教会で2年越しで語った講演のテープを聞きました。その教会の牧師が送ってくださったものでした。父を失った直後、それを聴いた私は、旧約聖書の語り掛けが心に刺さった。現代を深くえぐり、聖書独自の切り口で世相を鋭く俯瞰することに心震わせられました。そして旧約聖書が証ししている神が、新約聖書でイエス・キリストに啓示され(受肉され)、今の時代に聖霊によって熱情をもって臨んでこられることに魂揺さぶられる思いを禁じえませんでした。その旧約の語りの力に、抗いようもなく打たれました(『神の民の信仰 旧約編』教文館に収録)私は4世代にわたってクリスチャンの家に育った、いわゆる宗教4世です。聖書のことは、どこかわかった気になって冷めていたところがあったのかもしれません。けれども聖書を通してほとばしる神の言葉に、魂が揺さぶられて軋みから熱が生じるかのように、神の言葉が内に燃える炎のように感じたのは、実に、今日一緒にお聞きした出エジプトの出来事でした。
海に向かって手を差し伸べたモーセの肩越しに、私たちは代々の聖徒らと共に、主の御業を見ることへと招かれています。高く上げられたモーセの杖、そして差し伸べられた手の向こうに、闇夜を貫く光を、水と水が分けられるのを、そして乾いた所が海の中に通されるのを、私たちは遥かに望み見るものとされています。
出エジプトのクライマックスである「紅海(葦の海)の奇跡」と呼ばれるこの場面。今日の少し前から見てまいりますと、奴隷の縄目に繋がれ、飼い殺しの苦悶と苦役に、神の似姿である人間性を奪われ、創造の秩序がファラオによってゆがめられていたエジプトから導き出され引き出され、自由への一歩を踏み出した人々。ところがその行く手を阻んで目の前に立ちはだかる海が横たわっていた、と。
「海」、それは聖書の世界では人間にはどうすることもできない自然の圧倒的な力、混沌の象徴でした(『3・11以後の世界と聖書』77頁以下)。たしかに海は命の源ともされますし、海沿いの国や、海に囲まれた島国にとっては恵みをもたらし、大海原は外の世界に開かれた交易の窓口でもあります。けれども同時に荒れ狂う猛威をふるって、奔流の轟きと砕け散る波が大波となって、人を、社会を、文化を呑み込み、文明を深淵の底へと引きずり込み、根こそぎに滅ぼす脅威でもあることを詩編の詩人も知っており(詩42編など)、東日本大震災以来この13年間、私たちも痛いほど味わったことでもあります。
あるユダヤ人の聖書学者は、現代における「海」、そして「混沌」に思いを深めて、思索の極みにおいて、はっきりとアウシュヴィッツの出来事を見据えて語っていたのを思い出します。あの大虐殺を誰か一人の責任、あるいは加担した指導者たちを悪人に祭り上げて断罪しても本質は解決しない、もっと深く、根強く、長い期間にわたって、広くはびこる「最終的解決」を意識の底で気づかないうちにも求めさせるような、どす黒い闇に紛れる「海」が世界の淵を今もしぶとく食んでいることを(旧約)聖書の創世記や詩編を丁寧に紐解きながら、(旧約)聖書が何を現代に語りかけているかに耳を澄ますことへと促されるものでした(J. Levenson, Creation and Persistence of Evil。『3・11以後の世界と聖書』に要約)。
また、アメリカの公民権運動のリーダーであったMLキング牧師は、「海辺における悪の死」と題する説教で、今日の箇所に基づいて、現代アメリカ南部の「ファラオたち」の下での奴隷制、人種隔離政策、「非人間的な抑圧と不正な搾取」からの自由を、割かれた海を渡り、乾いた地を通って、エジプトから、ファラオの支配から導き出された人々になぞらえながら語っています(『説教者キング』152頁など参照)。
わたしたちの今を深みから蝕む「海」と「混沌」。潮の満ち引きのように、様々な秩序がほころび、足下の礎がいつしか揺らぐような不安定さにいつしか目まいにふらつき迫りくる不安にふと気づかされる時にこそ、モーセの肩越しに、差し伸べた手の向こうに逆巻く「海」を見るものとされるのです。出エジプトの物語は語り掛けるのです。私たちにも。
この物語は、背後から、一旦は奴隷を解き放つことに同意したにもかかわらず、ことの重大さに気づいて追手を差し向けたファラオの軍勢、この世の圧倒的な支配と権力の象徴が猛然と押し迫る狭間に八方ふさがりの危機迫りくる中で人々は絶体絶命のピンチに陥る様を描きます。後ろからは土煙をあげて追撃してくるファラオの軍、そして前方に横たわる大海原、にっちもさっちも行かない、行く手閉ざされ、もうダメだ、と全てを諦め、つぶやき、わが身の運命を呪う時、絶望の淵で私たちは聞くことになる、と。「恐れてはならない。(落ち着いて)しっかり立って、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは今、エジプト人を見ているが、もはやとこしえに見ることはない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」(13-14節)という神の言葉を。
そして今日の箇所。振り返って、迫りくる絶望の力エジプトと神の民の間に立ちこめる真黒な雲、闇夜を光が貫く。これはあの、天地創造の出来事、地が混沌とし、闇が深淵の表にあった中に、「光あれ」と光を創造された出来事を思い起こさせます。さらにこの後、夜通し強い東風(ルーアハ)をもって海を退かせたので、海は乾いた地に変わり、水は分かたれた。人々は海の中の乾いた所を進んで行く。これも「神の霊=風(ルーアハ)」が水の面を吹き、水を分けられ、「天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所があらわれよ」と言われ、乾いた所を地と呼ばれ、水の集まったところを海と呼ばれた、との創世記一章9節以下と響きあいます。出エジプト、抗いがたいファラオなる力からの自由の道行き、それは新しい天地創造に他ならない。混沌を切り裂く神の創造の力は、救いと新たなる存在へと呼び出す力と重なりあうものであり、混沌と海のもたらす死から命へと導くものであることが語られるのです。
ここで一つ是非触れておきたいことがあるのです。それは21節で夜通し、強い東風で海が「乾いた地」に変わり、水が分かれたという場面で登場する「乾いた地」という言葉です。これは、16節や22節で、イスラエルの民が海の中の「乾いた所יבשה」を進んで行ったという時とは違う言葉が使われているのです。21節に使われている「乾いた地חרבה」は、実は、天地創造を思い起こさせる言葉ではなく、むしろその対極にあるような、干上がった、荒涼とした場所を言い表す言葉なのです。たとえば、戦乱や裁き、破壊の後の荒れ果てた様を言い表すものなのです。激しい熱風吹き付けて海が干上がり、それまでのあり方が完全な終わりを告げた。「乾いた地」。それに対する天地創造の豊かな命を芽生えさせる「地」である「乾いた所」。2つの類義語、しかも対照的な意味を含んだ言葉を用いて徹底的な終わりを経た後の、新しい創造の御業の中を歩むものとされたことが語られるのです。
海が割かれる時、神の激しい熱情の風に海は干上がり、乾いた地に変貌し、混沌の力は神の力によって制御され、追い迫るこの世の支配者の軍勢は海に呑まれて跡形もなく、死を滅ぼし尽くす神の力に呑み込まれた、と。嵐を鎮め、この世の権力者を無力にし、絶望の淵でこそ出会う神。ここに証しされる混沌を切り裂いて命の道を通される神を、杖を上げるモーセの肩越しに見る者とされている。
その道は約束の地へと向かうのですが、そこに入る直前に、約束の地を向こう岸に見ながら堤を越えんばかりの激流逆巻くヨルダン川に行く手を阻まれるのです(ヨシュア記3章14節以下)。このとき、改めて川が割かれて、干上がった川床חרבהを人々は渡って約束の地へと入ることになる。新たな天地創造、そして出エジプトを思い起こしながら。聖書はなお語り継ぎます。差し伸べられた手の先に私たちは見るのです。
新約聖書でさらに、そのヨルダン川に自ら身を沈められ、象徴的な死をその身に負われたイエスキリストが、水から上がられるや、霊が、それは旧約でも新約でも「風」と同義ですが、水の上に降る、しかも今度は天を裂いて。キリストにおける古い秩序の終わりと新しい創造の御業が説き起こされるのです。キリストの死によって私たちの命に立ちはだかる「海」は、干上がり、キリストの復活の命によって結ばれた救いに至る道が通される。
新約聖書の最後にあるヨハネの黙示録では「また、わたしは、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去り、もはや海もない・・・その時、私は玉座から語りかける大きな声を聴いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである」と証しされています。「海」の前にたたずみ、「川」に行く道はばまれ、「混沌」に翻弄される私たちにも、神の風、聖霊は吹き、「海」を干上がらせて、伴い向こう岸へと渡らせられる神の語り掛けは響いているのです。今日も。わたしたちは、杖を高く上げ、差し伸べられた手の先に、海を割き、干上がらせ、死を滅ぼし、救いの道を通された、十字架と復活のキリストを、さやかに見るものとされているのです。