不健全な誇りを捨てて
ローマの信徒への手紙 第3章27-31節
川崎 公平

主日礼拝
■先ほど歌いました讃美歌222番は、私の大好きな讃美歌のひとつです。特に今月は伝道月間と称して、いくつかの計画を立てています。ひとりでも多くの人に、キリストの福音に触れていただきたい。その伝道月間の最初に、ぜひ皆さんと一緒にこの讃美歌を歌いたいと思いました。楽譜の上に「伝道」と書いてあります。ぼんやり歌っていると、どこが伝道の歌なのかわかりにくいかもしれませんが、私はこの歌を歌うたびに、静かな、また深い確信を与えられます。
皆さんが讃美歌を歌う際に、ひとつ知識として知っておくとよいだろうと思いますことは、どの讃美歌にも左上と右上に小さな字が書いてあります。左上が歌詞、右上が曲についての情報です。何年に誰の作詞作曲で、元の英語やドイツ語の歌詞の最初の言葉はこうで……。ひとつわかりにくいのは、右上の、つまり曲についての情報として、たとえば讃美歌222番には「PILGRIMS」と大文字で書いてある。これは曲名です。特に英米系の教会で生まれた習慣であるようですが、讃美歌の曲にいちいち曲名を付けるのです。この「PILGRIMS」という讃美歌のメロディーに、ほかのどんな歌詞を乗せようが、曲名は「PILGRIMS」。なぜかその曲名を、大文字で書くのが習慣になっています。
なぜこの曲に「PILGRIMS 巡礼者」という名前が付けられたかというと、リフレインのところで繰り返しpilgrimsという言葉が出てくるからです。巡礼者、旅人。それはきっとわたしたちのことだな、と思うかもしれませんが、もちろんそういう意味も含むかもしれませんが、それがこの歌の中心的な主題ではありません。このリフレインのところで繰り返しこう歌うのです。
Angels of Jesus, Angels of light,
Singing to welcome the pilgrims of the night.
「Angels of Jesus イエスのみ使いたちよ、Angels of light 光のみ使いたちよ」と呼びかけます。そのみ使いたちというのは、高い天から天使たちの歌が聞こえてくるというニュアンスもあるのかもしれませんが、また同時に私ども教会が、イエスの使者として歌を歌うのです。だからこそ「伝道」の讃美歌です。そんな私どもが何を歌うかというと、「Singing to welcome the pilgrims of the night」と言います。「the pilgrims of the night」、夜の闇の中を旅する人たちのために、「Singing to welcome」、「こっちへいらっしゃい。光の中へいらっしゃい。イエスのもとへいらっしゃい」。そう歌うのです。私どもの讃美歌ではそのリフレインの部分を、「なぐさめのこえこそ 旅路ゆく人のちから」と訳しておりますが、もしかしたら「旅路」ではなく「闇路ゆく人のちから」と訳したほうがよかったかもしれません。
お気づきのように、「Angels of light」「the pilgrims of the night」と韻を踏んでいます。光のみ使いたちが、夜の旅人たちのためにウェルカムの歌を歌うのです。「こっちへいらっしゃい」。「つかれしものよ、きたれ」。「すべて重荷を負って苦労している者は、イエスのもとに来なさい」。それが、教会に委ねられた伝道の務めです。
もとより私ども自身、闇路の暗さを知らないわけではありません。既にこのローマの信徒への手紙を書いたパウロ自身が別の手紙で書いているように、「私は、その罪人の頭です」(テモテへの手紙Ⅰ第1章15節)。自分こそがいちばん深い闇の中にいたのだ。そんな自分が、闇から光へと招かれたのだ。救われたのだ。しかしそこで改めて問わなければならない。その闇とはいったい何でしょうか。「the pilgrims of the night」、闇の中を歩む者。すべての人間を、そのように表現しているのです。いったいいかなる意味での闇の中にいるのでしょうか。
■伝道者パウロの書きましたローマの信徒への手紙の、第3章27節以下を読みました。先月3回の礼拝を用いて21節から26節までを読んできたわけですが、本当は今朝も21節から読み始めるべきであったかもしれません。第3章21節は、この手紙における最も大きな転換点のひとつです。ある人は、この21節から「突然夜が明けたようだ」と書いています。真っ暗なこの世界の中に、突如として神の光が射した。それをここではこのように書いています。
しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
神の義が現された。神が神でいてくださることが鮮やかに現れた。それを現わしてくださったのは、主イエス・キリストの真実であると言います。そうであれば、今はもう夜ではない。神の光が射したのだ。そこに生じる具体的な成り行きが、27節にこう書いてあります。
では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
神の光が射したとき、何が起こるのでしょうか。「誇りは取り去られました」と言います。「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」。なんだかまた難しい話が始まった、とお思いでしょうか。そんなことはないと思います。むしろ私は、この世の闇路を行く人たちが、いちばん聞かなければならない喜びの知らせが、実に具体的に、また実に露骨に伝えられていると思います。
ここに「行いの法則」「信仰の法則」という言葉が出てきます。この「法則」という言葉がまずとっつきにくい、という印象があるかもしれませんが、よく考えると、とてもわかりやすい、そしてよい翻訳だと思います。法則と言えば、たとえば万有引力の法則というのがあります。私がこの水の入ったコップを逆さにしたら、必ず水がこぼれます。コップから手を離したら、必ず床に落ちます。必ず、そうなる。それが「法則」です。
■ここでは、私どもを支配する第一の法則を、「行いの法則」と呼んでいます。これが何を意味するのか、わかりにくいという感想があるかもしれませんが、28節を続けて読むと、なんとなくその意味がわかってくると思います。
なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
「行いの法則」というのは、「行いによって義とされる」という根本的な考え方のことです。自分にはこれができるから、こういうことを成し遂げたから、だから自分はこんなに立派な人間だ、こんなに価値ある人間だ。そこにはまず優越感が生まれます。優越感というのは、もう少しはっきり言えば、人を馬鹿にする思いです。「あの人は、どうしてこんな簡単なこともできないんだろう」。それが27節で言われる「誇り」です。「取り去られ」なければならない誇りです。それはまたしかし、コインの表と裏のように、抜きがたい劣等感と結びついています。あるカトリックの司祭がこの箇所を説き明かしながら、特に「行いの法則」という言葉を取り上げて、こういうことを書いています。
この法則に従って生きる人は、絶えず人と競争し、自分の義を自分の行いによって証明し続けなければならない。行いによって自分の価値を証明できなくなれば、自分で自分に自信を持てなくなってしまうからだ。行いによって自分を高い所に置くこと、誰かを自分の下に置くことによってしか自分に自信を持つことができないようにする「行いの法則」は、人類にかけられた一つの呪いと言ってもいいだろう。そこから、争いや妬み、悪意、陰謀、侮蔑、誹謗中傷など、人間を苦しめるさまざまな悪が生まれてくる。
この言葉を読みながら、既に私の心にはあの讃美歌が響き始めておりました。「イエスのみ使いたちよ、光のみ使いたちよ、闇路ゆく人たちを招く歌を歌おう」。このカトリックの司祭は、「『行いの法則』は、人類にかけられた一つの呪い」だと言い切っています。本当にそうだと思うのです。コップから手を離したら、必ず落ちる。この法則に逆らうことは絶対にできない。水がこぼれるのは、別にいいも悪いもない、そういう法則で神さまが宇宙をお造りになったのです。けれどもこの「行いの法則」は、神がお造りになった法則ではありません。人間が自分で自分にかけた呪いでしかありません。しかもその呪われた闇の中から、誰も自分の力で這い上がることはできないのです。
■しかし今や、神の義の光が射しました。それまでの呪いの法則をひっくり返す、新しい法則が現れました。そこに生じる具体的な成り行きを、27節では「誇りは取り去られた」。「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によって」、誇りは取り去られたのだと言います。先ほど紹介したカトリックの司祭は、続けてこう書いています。
パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と考える「信仰の法則」によって、人間の苦しみの源とも言うべき「行いの法則」を断固として拒否する。この法則は、人間の誇りを切り倒すためにパウロが振りかざした斧と言っていいだろう。
「人間の誇りを切り倒すために、斧を振りかざす」などと言いますと、いかにも傲慢な印象を与えるかもしれません。しかしパウロには、そんな意図は微塵もありませんでした。この手紙を書いたパウロ自身が、誇りを切り倒される経験をさせられました。このローマの信徒への手紙と並んで、伝道者パウロの最晩年の手紙と見られるフィリピの信徒への手紙の第3章において、自分がいかにして「行いの法則」から解かれたか、たいへん印象深い自己紹介をしています。
とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした(フィリピの信徒への手紙第3章4-6節)。
……というパウロの誇り、「行いの法則」にがんじがらめになっていた自分の誇りが、しかし「信仰の法則」によって取り去られた、切り倒されたと言います。
しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています(同7-8節)。
私の知るどんな優越感も、どんな劣等感も、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに」、今ではすべては屑になったと言います。それで続けてこう言うのです。
私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります(同9節)。
■ここに「義」という言葉が出てきます。「律法による自分の義ではなく」、つまり行いの法則によって、「絶えず人と競争し、自分の義を自分の行いによって証明し続けなければならない」、そういう義ではなくて、「キリストの真実による義」です。「神から与えられる義」です。
この「義」というわかりにくい言葉については、先週の礼拝でも丁寧にお話ししたつもりですが、やっぱりいつまでたってもわかりにくい話であるかもしれません。先週の説明を繰り返すならば、「義」というのは神との正しい関係のことです。その正しい関係を作ってくださる神の正しさのことです。その〈関係〉ということが大事なのだ、という話を先週の礼拝でしたのですが、そのことについて、またもや例のカトリックの司祭は、この「義」ということを説明するために、主イエスのお語りになった〈放蕩息子の譬え〉を紹介しています(ルカによる福音書第15章11節以下)。父親の家にいたふたりの息子のうち弟のほうが、言ってみれば生前贈与を受けて、そのお金を持って父親の家から飛び出して行った。ところがたちまち生活が立ち行かなくなり、ふと我に返って、「父の家に帰ろう」。ところがこの息子がまだ父の家から遠く離れていたのに、父親はこの息子を見つけるや否や、走り寄って首を抱き、口づけまでして、この息子を家に迎えたというのです。この父親の愛のもとでは、「行いの法則」の影も形もありません。この弟息子は、いかなる行いも要求されませんでした。ただ愛されただけ。ただ抱きしめられただけ。それが、「信仰によって義とされる」ということです。
ところで、私がそのカトリックの司祭の文章を読んで特に心に刺さりましたことは、話はここで終わらない。この主イエスの譬え話には、もうひとりの兄息子が登場するのです。この兄息子というのは、言ってみれば、「行いの法則」にがんじがらめになっている人間の代表です。いなくなっていた弟が帰って来た。父親は、これを何もとがめ立てることなく、それどころか最高の服、最高の指輪、最高の食事、そして最高の音楽を奏でてもてなしているらしい。兄息子にとっては、これが面白くない。それで兄息子は、父親に文句を言います。そのカトリックの司祭は、この兄息子の不満を引用しながら、言うのです。この兄の言い分をよく読んでほしい。「行いの法則」にがんじがらめに支配されている人間の心が、これだ。
「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(ルカによる福音書第15章29-30節)。
私が伝道者になって初めて気づいたことがあります。私は本当に若いころから、この放蕩息子の話が大好きでした。「放蕩息子の譬え」という呼び名が定着している通り、私はこれを弟息子と父親の話だと思い込んでおりました。けれども本当は違います。この譬え話に先立って、〈いなくなった羊の譬え〉、〈なくなった銀貨の譬え〉を主イエスはお語りになりました。したがって〈放蕩息子の譬え〉ではなくて〈いなくなった息子の譬え〉、より正確には〈いなくなった息子たちの譬え〉と言わなければなりません。なぜならば、いなくなっていた弟息子が帰って来た。兄息子はいなくならなかったのだろうか。とんでもない、最後の最後で、兄息子のほうがより深刻な形で、父のもとから失われるという結果になりました。
私は伝道者になって以来、むしろこの兄の話のほうがずっと大事だと思うようになりました。弟の話と兄の話とどっちが大事か、というのはおかしな話ですが、私の伝道者としての素直な感覚からすれば、やっぱりどちらかと言えば兄の話のほうが大事かな、と思います。なぜかというと、おそらく大部分の日本人は、この話を読んだとき、兄息子の側に自分自身を重ねるだろうと思うからです。弟の姿は、どうも自分とは重ならない。そうだろうと思います。大多数の日本人は、放蕩の限りを尽くした弟息子よりも、まじめに生きてきた兄息子の方に圧倒的に近い。それこそが、いちばん罪深い人間の姿なのです。「行いの法則」にがんじがらめに縛られて、「絶えず人と競争し、自分の義を自分の行いによって証明し続けなければならない。行いによって自分の価値を証明できなくなれば、自分で自分に自信を持てなくなってしまう」。それが「闇路ゆく人」の姿です。
■しかし今や、キリストの真実によって、神の義が現されたのですから、そして今や、私どもがまたその光の使者とされたのですから、闇路ゆく人を招く光の歌を、私どもも歌わなければなりません。それが、私どもに委ねられた伝道の使命です。
あの〈いなくなった息子の譬え〉の中で、特に私の大好きなひとこまがあります。弟息子が帰って来て、父親はこれを喜んで迎え、祝宴を始めた。そんなときに兄息子が畑仕事から帰って来ると、家の外にまで「音楽や踊りの音が聞こえてきた」(ルカによる福音書第15章25節)というのです。兄息子の耳に聞こえてきた「音楽や踊りの音」は、どんなに大きな喜びに満ちていたことでしょうか。「いったい何だろう、この楽しそうな音楽は」。だがしかし、兄息子はその楽しそうな音楽の意味を知って、激しく腹を立てました。「何だ、この不謹慎な音楽は。〈行いの法則〉を完全に無視しているじゃないか。けしからん」。しかし本当は、腹を立てるべきではなかったのです。本当は、父と一緒に弟のことを喜ぶべきだったのです。そしてそのときに、自分が「行いの法則」にがんじがらめに縛られていることに気づいたならば、悔い改めて、兄息子も一緒にこの喜びの歌を歌うべきであったのです。
私どもの教会が歌う歌は、まさしくそのようなものであります。いなくなっていた息子を、娘を迎える、神の喜びの歌です。その歌には「行いの法則」の影も形もありません。ただ信仰によって義とされた私どもの歌う歌こそ、「闇路ゆく人のちから」です。「イエスのみ使いたちよ、光のみ使いたちよ、闇路ゆく人を招く歌を歌おう」。お祈りをいたします。
自分の愛する息子を迎えた父の喜びは、どんなに大きな喜びであったことでしょうか。このあなたの喜びに心打たれて、この教会に生かされている私どもであります。父なる御神、あなたの喜びを、もっと深く、もっと大きく学ばせてください。この喜びを知らないために、自分で自分に呪いをかけてしまっているこの世界であることを悲しく思います。今礼拝をしているつもりの私どもだって、例外ではありません。自分に対しても、家族に対しても隣人に対しても、ありとあらゆる機会を捕えて「行いの法則」の呪いをかけてしまっています。悔い改めさせてください。あなたの愛の中へと立ち帰らせてください。そして今私どももイエスの使者として、光の使者として、新しい歌を歌うことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン