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神さま、もしあなたがおられるなら

2021年1月3日

川﨑 公平 牧師
ヨハネの黙示録 1:1-8

主日礼拝

■今日からしばらく、おそらく1年くらい、私がここに立って説教するときには、新約聖書の最後の文書であるヨハネの黙示録を読み続けたいと思います。
 エーミル・ブルンナーという神学者が、今日私どもに与えられた箇所ではありませんが、やはりヨハネの黙示録について説教したものが日本語でも紹介されています。その説教の最初のところで、こういうことを言うのです。今私どもがしているように、ある年の最初の日曜日に語られた説教なのですが、「新しい年の初めにあたって、『これからどうなるのだろう』と自問するのは自然なことです。そして、このような問いを口にすることによって、かえって、われわれは将来のことを何ひとつ知ることができないのだ、ということが、よく分かってくるのです」。
 この言葉について、何の解説もいらないだろうと思います。新しい年を迎え、その最初の日曜日、幸いにしてここに集まることができた者も、そうでない者も、「いったいこの1年の間に、何が起こるんだろう。この国は。この世界は。この鎌倉雪ノ下教会は。私は、私の家族は、これから、いったいどうなるんだろう……」。そういう問いをあえて口にすることによって、かえって私どもが思い知らされることは、われわれは本来、これから何が起こるのか、何ひとつ知ることができないということでしかないのです。しかしこの2021年の初めには、いつにもまして、そのことを厳しく思い知らされなければならないかもしれません。そしてそれは、しかし、ひとつの恵みでもあるのかもしれません。
 このブルンナーという人の黙示録についての説教を、日本語でもいくつか読むことができます。そのなかで、私がとりわけ深い感銘を受けたのは、こういう文章です。神は、われわれに将来を見せてはくださらない。何年後にこういうことがあって、その次にこういうことが起こって、というように、あらかじめ決まっているプログラムのように未来のことを見せてくださるようなことは、決してなさらない。それをブルンナーという人は、「将来を過去にしてしまうようなことを、神はなさらない」という言い方をします。興味深いことです。なぜかと言うと、まさにそのような将来についての謎解きのような興味関心をもって黙示録を読もうとした人が、実際にたくさんいたし、今もいるからです。ヨハネの黙示録に基づいて、これからこういうことが起こると、将来についての予言をしてみせた人たちがたくさんいたけれども、それらの予言は何ひとつ当たらなかった。ブルンナーは厳しく警告します。それは最初から、黙示録の読み方が間違っていたのだ。もしもあなたが黙示録をそのように読みたくなったら、それは危険だと気づいた方がよい。
 またこういうことも言います(延々とブルンナー先生の引用を続けるわけにもいきませんが……)。そうは言ってもわれわれの将来について、実はひとつ、確実に予測できることがある。それは、われわれが死ぬということだ。そう言いながら、けれども神の言葉は、われわれにまったく別のことを語っている。イエス・キリストの出来事の中に、われわれのためにまったく別の、将来の展望が開かれている。そう言って、ヨハネの黙示録の最後の章、第22章の言葉を引用します。「見よ、わたしはアルファでありオメガである。初めであり終わりである」(第22章13節)。それこそこの黙示録を貫く主題であって、今日読みました第1章8節にもこう書いてありました。

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」。

新しい1年の間に、何が起こるか、私どもには何も知らされておりません。この1年、どんなに黙示録を一所懸命学んでも、明日どうなるか、来週何が起こるのか、再来週に何が起こるのか、何の予測もできないということは、考えてみれば当たり前のことであります。ただひとつ確実なことは、私どもが例外なく、いつか必ず死ぬということです。けれども聖書が私どもに教えてくれるもっと確かなことは、「わたしはアルファであり、オメガである」。アルファとオメガというのは、ギリシア語のアルファベットの最初と最後の文字のことです。私どもの主、イエス・キリストが、すべてのものの初めでいてくださり、最後の最後にすべてを握っていてくださるのも、私どもの主でいてくださるイエスである。
 そのお方について、「今おられ、かつておられ、やがて来られる」と言います。今、おられる。今、私どもの礼拝を受けていてくださるのです。そのお方が、すべてのものの初めであり、終わりでいてくださるということは、とりわけヨハネの黙示録が書かれた当時の教会にとっては、たいへんに切実な意味を持っただろうと思います。

■なぜ今、ヨハネの黙示録を読むのか。私がここで説教する聖書のテキストは、私がひとりで決めるのではなく、必ず長老会の協議を経て決めるようにしています。昨年の12月に、ちょうどテサロニケの信徒への手紙一、パウロの書いた最初の手紙であり、新約聖書中最古の文書を読み終わる。次に何を読もうか。そのことを長老会で語り合っていたときに、私が口にしたひとつのことは、「もうひとつ手紙を読みたい。しかも、なるべく手紙らしい手紙を読みたい」。手紙らしい手紙というのはつまり、手紙の書き手がいて、受取人がいて、その両者の関係というか姿がよく見えてくるような手紙を読みたい。今こそ鎌倉雪ノ下教会は、手紙を読むべきなのではないか。それが結果としてヨハネの黙示録になったというのは、今申しましたような考えを撤回したわけではないので、むしろヨハネの黙示録こそ、聖書の中でも典型的な、手紙らしい手紙、戦いの中で悩み、苦しんでいる教会を励まし、慰めるための言葉であると私は理解しています。
 考えてみれば面白いことで、テサロニケの信徒への手紙一、新約聖書の中でいちばん古い文書を読んだ後に、ヨハネの黙示録を読むのです。テサロニケの信徒への手紙一はだいたい紀元50年頃に書かれたと言われます。ヨハネの黙示録は、新約聖書の中で年代的にいちばん新しいわけではありませんが、内容的には聖書の結びに置かれるべきものだと思います。年代で言えば、だいたい紀元90年代に書かれたと言われます。
 90年と言えば、たとえばテサロニケの信徒への手紙一を書いたパウロも既に殉教しています。何よりも、テサロニケの信徒への手紙一とヨハネの黙示録の間に起こった大きな出来事は、紀元70年にエルサレムの神殿がローマ帝国の軍隊によって破壊されたということです。そこで改めて、キリスト教会にとって切実な問題になったことは、自らを神と称するローマ皇帝の存在です。特にヨハネの黙示録が書かれた当時のドミティアーヌスという皇帝は、キリスト教会に対して最も過酷な迫害をしたと言われます。この皇帝ドミティアーヌスが人びとの前に姿を現したときには、「わたしたちの主に栄光あれ」と叫ばなければならなかったと言うのです。それはたとえば、「天皇陛下万歳」とか、「ハイル・ヒトラー」とか、似たような言葉を皆さんもご存じだと思います。しかしそれは、キリスト教会にとっては到底受け入れることのできないことで、そのために多くの殉教者が生まれなければなりませんでした。
 黙示録を書いたヨハネ自身、パトモスという離れ小島に流されておりました。自分の教会の仲間たちから、無理やり引き離されていたのであります。けれどもそこで、神の言葉をお預かりすることができました。戦い、悩んでいる教会を励まし、慰める祝福の言葉を、神はヨハネに託してくださいました。それが、この黙示録と呼ばれる文書です。黙示録というと、何だかものものしい感じがしますが、教会に宛てて書かれた手紙以外の何物でもありません。3節にこう書いてあります。

この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

 「この預言の言葉を朗読する人」とか、「これを聞いて」とあるのは、すべて教会の礼拝の生活を前提としたものの言い方です。パウロの手紙も、もともとは礼拝の中で朗読されたので、それこそテサロニケの信徒への手紙一の終わり近くにも、「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」(第5章27節)と書いてありました。パウロの手紙にしてもヨハネの黙示録にしても、まずその巻物が教会に届けられ、それが礼拝で朗読され、場合によってはその言葉に基づいて、その土地の教会の指導者が説教をしたでしょう。
 そのような教会の礼拝で、繰り返し語られたに違いないのが、3節にある「幸いである」、「あなたは、幸いだ」という、祝福を告げる言葉です。ヨハネの黙示録を読みますと、この「幸いだ」という祝福の言葉が、あちこちにちりばめられるように記されていることに気付かれると思います。当時の教会が、どんなに真剣な思いで、この祝福の言葉を聞き取ったことだろうかと思います。
 黙示録を通して読みますと、全部で7回、この「幸いである」という祝福の言葉が出てきます。その7という数字にも意味があるのではないかと考える人もあります。7というのは、完全数です。そして黙示録の中に、7の半分の3.5という数字が、不完全を意味していると読める箇所もあります。けれどもわれわれに与えられている祝福は、不完全な、中途半端な祝福ではないのであって、完全な祝福を、ここでヨハネは告げている。その祝福というのがここでは、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」と言われるのです。
 ヨハネの黙示録の背後には、たいへんに厳しい教会の戦いがあったと申しました。しかし、戦うって、何をどう戦うのでしょうか。私どもの教会も、その意味では、今もひとつの戦いを強いられていると見ることができると思います。ヨハネの黙示録が書かれた90年代の教会も、50年代のテサロニケの教会も、時代状況は異なっても同じ戦いの中にあったに違いない。その戦いというのは……「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」。神の言葉を聞くための戦いです。どんなことがあっても、この祝福から離れない。そのための戦いであります。

■その神の祝福、完全な祝福を告げる言葉のことが、ここでは「黙示」と呼ばれています。皆さんの中に、どうもヨハネの黙示録だけはとっつきにくいという印象を持っておられる方があるかもしれません。それはこの「黙示」という言葉の形式にも原因があるかもしれません。だいたい、「黙示」っていったい何だ。この「黙示」という日本語の翻訳がどういう経緯で生まれてきたのか、私はまだ勉強不足でよく分かりませんが、「黙って示す」という漢字の意味にはあまり捕らわれない方がよいかもしれません。もともとの意味は、「隠れているものをあらわにする」という言葉です。「啓示」と訳してもよいと思います。啓き、示す。神が啓いてくださらなければ、閉じられたまま。神以外の誰もこれを開くことができない、隠されたものがあるということです。しかし、何が隠されているのだろうか。
 このようなことを考えておりましたときに、私の心の内にふと響いてきたのは、先ほど合わせて読みました、イザヤ書第63章15節以下でした。この年の初めに、どうしてもこのイザヤの言葉を皆さんと一緒に読みたい、これを私どもの祈りとしたいと思わされました。15節。

どうか、天から見下ろし
輝かしく聖なる宮から御覧ください。
どこにあるのですか
あなたの熱情と力強い御業は。
あなたのたぎる思いと憐れみは
抑えられていて、わたしに示されません。

このような嘆きは、今も続いていると思います。「黙示」という言葉から、つまり、「黙る」ということから、神の沈黙ということを連想することも間違ってはいないかもしれません。まさしく黙示録が書かれた当時の教会も、このイザヤ書第63章の心をよく理解しただろうと思います。神さま、本当にいるんですか。われわれには分かりません。「あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて」、隠されていて、「わたしに示されません」。神さま、いるんですか? もしも本当にあなたがおられるなら、お願いですから、教えてください。黙っていないでください。19節も読みます。

あなたの統治を受けられなくなってから
あなたの御名で呼ばれない者となってから
わたしたちは久しい時を過ごしています。
どうか、天を裂いて降ってください。
御前に山々が揺れ動くように。

けれども、この黙示録においては、もはや神は黙ってはおられません。「どうか、天を裂いて降ってください」とイザヤは言いましたが、まさしく天が裂けて、神の沈黙が破られた。それが「黙示」あるいは「啓示」ということの意味です。
 「新しい年の初めにあたって、『これからどうなるのだろう』と自問するのは自然なことです」。けれどもここに至って気づかされると思います。私どもが本当に知りたいことは、未来を予知することなんかじゃあ、ないのです。感染者が何人になるか、誰が何人死ぬか、もちろんそれも大事です。けれども私どもが、本当はいちばん知りたいと願っていることは、「神よ、本当にあなたは生きておられるのですか」。どうか神よ、あなたが天を裂いて、そのことをあなたご自身が啓き示してください。

■ヨハネは、確かな神のみ声を聴き取ることができました。まさしく天を裂いて、神がヨハネに啓き示してくださいました。もう一度8節を読みます。

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」。

「かつておられ」と言います。どんなに過去にさかのぼっても、私どもの主、御子イエスは私どもの救い主でいてださったし、そのお方が「今おられる」。今、私どものまことに貧しい礼拝を喜んで受けていてくださる。そしてそのお方が「やがて来られる」と言います。「今おられ、かつておられ、やがて来られる」と言うと、過去・現在・未来という枠組みを想定したくなりますが、きちんとギリシア語の原文を読むと、実はそうは読めないのです。「やがて来られる」の「やがて」が余計なのであって、「今おられ、かつておられ、今来られる方」というのが原文の表現です。「今、来られる方」。あくまで現在形です。まだ到着していない、という意味も含んでいるのかもしれませんが、「今、来ておられる」のです。既にその足音は聞こえるのです。その現実こそ、まさに神がヨハネのために啓き示してくださったことなのではないかと思います。
 第3章20節に、一度聞いたら誰もが忘れられない言葉があります。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」。今おられ、永遠の昔からおられた方が、「今来られる」。そのお方の近さが、このように描かれております。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」。私だよ。私はここにいるよ。そう言われる主イエスの存在こそが、今ここに生きる私どもの教会にとって、何にも代えがたい、確かな慰めなのであります。祈ります。

明日のことも、いや、今日これから何が起こるかも分からない私どもであります。けれども、あなたは生きておられます。今ここにおられるあなたの御子キリストは、また私どもに対する愛のゆえに、永遠の昔から主であられました。その確かなご支配のうちに、その祝福のうちに、安んじて立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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