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共に歌おう、死に打ち勝つ歌を

2021年8月15日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第14章1-13節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録の第14章を読みました。この章を理解するためには、しかしどうしても、第13章、さらに第12章までさかのぼる必要があるだろうと思います。第12章においては、天における戦いに負けたサタンが、地上に投げ落とされるという不思議な幻が語られます。もうサタンは負けたのだ。完全に敗北して、天に居場所がなくなったのだ。そのことを感謝し、神をたたえる歌が記されてはいますけれども、このたいへん不思議な出来事が、実は非常に切実な、現実的な意味を持つことになります。天から地上に墜落したサタンが、転んでもただでは起きないので、地上における自分の協力者として「二匹の獣」を従えて、なおしぶとく活動を続けていると、第13章では語るのです。それは言ってみれば、「悪魔の最後の悪あがき」でしかない。結局敗北することが決まっている者の無様な姿でしかない。けれども、その二匹の獣に直接苦しめられる人間からすれば、こんなにたちの悪いことはないのです。

この二匹の獣のうち第一のものは、黙示録の最初の意図からすれば、まずローマ皇帝のことでしょう。あるいはもっと大きく、ローマ帝国と言った方がよいかもしれません。そして第二の獣というのは、その権力体制を支える人びとのことで、これは第一の獣を拝むように人びとをそそのかし、獣の像まで作り、そのために獣の像を拝まない者は、日常の買い物さえままならなくなったと言います。事実、ヨハネの周辺では、殉教者も生まれていたようです。そのような、たいへん恐ろしい世界の姿を描いている第13章というのは、ヨハネの黙示録がどうしても書かれなければならなかった歴史的な事情を、最も露骨に、直接的に伝えているところであり、その意味で黙示録のひとつの山がここにあると言わなければならないだろうと思います。

しかしこのような第一の獣とか第二の獣というものは、二千年前、黙示録が書かれた時にだけ現れたわけではありません。人類の歴史の中で、絶えず繰り返されたことです。本日8月15日という日付は、私ども日本人にとって、忘れることができない刻みの時です。先週は夏休みを頂きましたが、さらにその前の日曜日にこの第13章を説教しました。その時にもお話ししたことですが、76年前の今日まで続いた戦争の時代にも、第一の獣のみならず、その周りにたくさんの第二の獣が現れて、現人神たる天皇を拝むよう強要し、その獣の像、すなわち御真影に対して敬意を表さない者があれば、相当の社会的な制裁が加えられたのであります。

少しおかしな話をするようですが、先々週の第13章の説教については、いつもよりも多くの反響がありました。説教を聴きながら、心が非常に苦しくなったと、正直に伝えてくださった方もありました。そのように礼拝の説教を誠実に受け止めてくださることは、たいへんありがたいことだと思いました。しかしまた同時に、自分の説教について反省をさせられた点も、ないでもありません。黙示録を書いたヨハネの意図からすれば、第13章だけを取り出して説教するということは、「いや、そんなことはしないでくれ。よりにもよって、そんなところで区切らないでくれ」と言われてしまうかもしれないのです。

■今日は第14章の前半を読みました。ここできちんとわきまえておかなければならないことは、黙示録を書いたヨハネも、その黙示録を最初に読んだ教会の人たちも、第13章、第14章などという区切りはまったく知らなかったということです。こういう章とか節の区切りは、あとの時代の人たちが便宜的に定めたものでしかありません。ついでに、ちょっとした豆知識のような話になりますが、当時の書き言葉にはカンマもピリオドもなく、単語と単語の間のスペースもなく、段落の区切りさえほとんどありませんでした。昔は紙もインクも貴重だったということも、理由のひとつかもしれません。そんな豆知識がなくたって、よく考えればすぐに分かることは、ヨハネは第13章の幻と第14章の幻を、別々に見たわけではないということです。

第一の獣が現れ、第二の獣が現れ、しかもそれは、単なるかりそめの悪夢などではありませんでした。自分たちが直面している世界の現実を、今まで以上に厳しく見せつけられた。第13章15節には、「獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた」とか、さらに17節には、「獣の刻印がなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった」とまで書いてあります。遠い夢の国の話じゃない。自分たちの目の前で起こっていることだ。そういう現実を造っているのは、実は天から落とされたサタンのしわざなのだという幻を見ながら、ヨハネは胸が苦しくなるほどの思いを抱いたに違いない。けれども、そこから間髪入れずに、文字通りカンマもピリオドも入れずに、第14章1節以下が続くのです。

また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった(1~3節)。

二匹の獣にどこもかしこも踏みつけられて……けれどもそれは、実は敗北したサタンの悪あがきでしかなかったことが、ここで明らかになります。小羊イエスが、シオンの山に立っている。この小羊こそが、勝利者なのだ。そして、「小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」と言います。この14万4千人という数字については、しばらく前の礼拝で説明しました。言うまでもないことですが、天国には人数制限があるというような話ではありません。既に第7章にも同じ数字が出て来ましたが、そこではより丁寧に、神の民イスラエルの12部族、それぞれ1万2千人の合計ということを明らかにしています。12というのは聖書における完全数です。12の部族を、ひとつも欠けることなく、それぞれの部族1万2千人、最後のひとりまで完全に救い取ってくださる。ひとりも取りこぼすようなことはなさらない。その神の救いの完全さを言い表す、象徴的な数字です。ですから、もしも、その中からひとり迷い出たら、つまり14万4千人ではなくて14万3999人しかいないということになれば、神はその迷い出たひとりを必ず最後まで探し続けてくださる。必ず見つけてくださる。14万4千人というのは、そういう意味です。

■そのことに関連して、どうしても考えておかなければならないことがあります。今日読みました第14章8節以下には、神の怒りについて記されています。たとえば、9節からを読んでみます。

また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる」(9~10節)。

神が怒りの神であるということを喜んで受け入れる人は、正直に言って少ないと思います。できれば神さまは神さまらしく、優しくあってほしい。怒りとは無縁の神であってほしい。

しかし、神が怒るとするならば、なぜ怒るのでしょうか。ここでの神の怒りは、結局のところ、獣の支配に対する怒りです。神に選ばれた14万4千人の中にも、獣を礼拝するようにと誘われ、心動かされた人たちは、現実にはいくらでもいたに違いない。私どもも、信仰の英雄ではないのです。小羊キリストを礼拝するのではなく、獣の像を拝むほうにひとり流れ、ふたり流れ、14万4千人の数がどんどん目減りしていくという時に、「こら! やめろ!」とお怒りになる神と、「まあまあ、そんな大声出さなくても……獣の支配も、しょうがないですよね」とおっしゃる神と、どちらがいいでしょうか、というのはおかしな話で、本当は私どもに神を選択する権限なんかありません。神は、獣の支配に対して、容赦なく怒りをあらわにされます。「この14万4千人は、わたしのものだ。獣になんか渡さない。たったひとりでも、獣にさらわれるようなことがあれば、わたしは絶対に許さない」。

その意味で、この神の怒りというのは、神の愛とまったくひとつのものです。ですから旧約聖書においてしばしば神は「熱情の神」「妬む神」などと呼ばれるのです。この神の愛を知りながら、それでも自分は獣の像を拝むのだと言い張る人に対して、神の怒りが直接注がれたとしても、それは神らしくないなどと文句を言うことはできないと思います。

■この神の怒りというか、神の愛というか、神の熱情がなかったら、この鎌倉雪ノ下教会だってとっくの昔に、全員獣にさらわれていたに違いないのであります。けれども事実、今ここにも、神の教会が生きております。小羊キリストを礼拝する群れです。それをヨハネは、壮大な幻のうちに見せていただくことができました。見よ、ここに、小羊キリストと共に立つ14万4千人が生きているではないか。その意味では、ヨハネはここで、自分たちの生きる教会の姿を見せていただいたと、そう言うことができるだろうと思います。天から落とされたサタンの姿を見せられ、そのサタンの協力者である二匹の獣の、獰猛かつ狡猾な姿を見せつけられ、けれども最後に、教会の姿を見せていただいた。われわれは今もいつも、永遠に、小羊イエスと共にある。そのような教会の姿を見せていただいたのであります。

今私どもは、いかなる幻を見ているのでしょうか。いかなる幻に生かされているのでしょうか。もしも今私どもが、ヨハネと同じように、本物の教会の姿を幻のうちに見せていただけるならば、それ以上何もいらないのではないでしょうか。ヨハネは、「見よ、小羊がシオンの山に立っており」と言います。シオンの山というのはすなわち、真実の礼拝の場所であります。私どももまた、この礼拝堂において既に、いや礼拝堂に来ることさえ許されなくたって、今いるその場所で小羊イエスと共に、シオンの山に立つことができるのです。

その14万4千人の額には、「小羊の名と、小羊の父の名とが記されている」と言います。この人は、神のもの、キリストの所有である。ひとりも欠けることはありません。まさにそのために、御子イエスがまさしく小羊として、犠牲の血を流してくださったことを忘れることはできません。3節、4節で繰り返される「贖われた者」というのは、そういうことです。

小羊に贖われ、そのようにして神の愛を知った私どもは、新しい歌を歌います。3節によれば、その新しい歌は、「地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった」と言います。小羊に贖われ、その十字架の愛に触れることがなければ、決して歌うことができない。本当の意味で覚えることができない。そのような私どもの歌う賛美の歌が、ここで「新しい歌」と呼ばれていることも興味深いことだと思います。教会に与えられている歌は、本質的に新しいのです。私ども人間の作る歌は、どんなに新しい歌も、あっという間に古臭くなります。ですから逆に、次から次に新しい歌を追いかけるのではなくて、むしろ何百年も生き残っている古い歌の方が価値があるのだ、などと考え始めるかもしれません。けれどもここではそんな次元の話をしているわけではないので、ヨハネがここで教えられた新しい歌の新しさは、端的に言えば、死に打ち勝つ新しさです。獣の支配に負けない新しさです。地上からは生まれない。天から与えていただくほかない、そのような新しい歌を、ヨハネもまたここで覚えることができました。

■ところで、先ほど聖書朗読をお聞きになって、そしてここまで説教をお聞きになりながら、今日はこんなにすばらしい聖書の言葉を読んだのに、なぜ説教でその言葉に触れないのかと思っておられる方もあるかもしれません。13節であります。

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と」。“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」。

私はこう考えています。ヨハネは、天からの声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と」。その天からの祝福の声と、2節、3節に言及される「新しい歌」とは、決して無関係であるはずがありません。14万4千人が、声を合わせて死に打ち勝つ歌を歌っているのを、ヨハネは聴いたのです。「幸いなるかな、主に結ばれて死ぬ人は」。

その14万4千人の中には、既に地上の生涯を終えた人もいたに違いありません。ことにその中には、殉教者の姿も含まれていただろうと思いますし、ヨハネ自身、信仰の仲間の死を悼みながら、この黙示録を書いたのです。だから、その直前の12節にも、「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」と書かなければなりませんでした。けれども、教会はただ黙って耐えたわけではありません。耐えるための力もまた、神が与えてくださる。神が教会に、新しい歌を与えてくださいます。今私どものためにも、死に勝つ祝福が天から告げられるのです。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と」。それこそ、地上にいるどんな詩人もどんな音楽家も、このような歌を作ることはできません。無理やり作っても、それは嘘の歌にしかならないでしょう。天から告げられるのでなければ、私どもはこのような歌を歌うことはできないはずです。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と」。それに答えて神の霊も確約してくださいます。「然り」。その通りだ。わたしが保証する。「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」。死によっても、彼らの安らぎが揺らぐことはないと言います。

■その慰めの中心に立つのは、「主に結ばれて」という、この事実です。「主に結ばれて」という翻訳は新共同訳聖書独特のものですが、直訳すると「主の中で」ということです。私どもはもう、主の外になんかいない。主に結ばれて、主の中にしっかりととどまる。そこから迷い出るなんてことは、もう考えられません。そのことについて、たいへん印象深い表現をしているのは4節以下です。

彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。

童貞と言っても、女性は天国に入れない、天国に行けるのは独身男性に限りますという話ではないでしょう。だいたい、ヨハネの黙示録が、全体としてありとあらゆる比喩というかイメージの言葉を用いているのに、この箇所だけを文字通りに理解しようとするのはおかしなことです。これは明らかに、神ならざるものを神としない、具体的には獣の像を拝まない、その意味で神さまに対して浮気をしない、という意味です。教会は、小羊イエスと結婚させていただいた花嫁です。その意味では、新共同訳の「主に結ばれて」という翻訳も、尊重すべきかもしれません。神は熱情の神、もっと言えば妬む神ですから、私どもとの結びつきが断たれることは、神にとって耐えることができないのです。それほどの神の愛に結ばれているならば、私どももまた、「小羊の行くところへは、どこへでも従って行きます」と、そうお約束するほかありません。そこに、私どもの新しい歌が生まれるのです。お祈りをいたします。

「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と、今私どもも、心いっぱいに歌うことができます。死ぬべき自分自身であることを見つめながら、何よりも自分自身の罪を見つめながら、けれども今、小羊と共にシオンの山に立たせていただいているこの教会であることを、幻のうちに、しっかりと見つめることができますように。「だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことは」ありません。どうか、そこから解き放ってください。主に結ばれた者の安らぎを、その祝福を、今ここで新しく学び、また歌うものとさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン