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キリストを伝えないならわたしは不幸

2021年7月11日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第9章1-18節

主日礼拝

この手紙を書いたパウロという伝道者は、イエスさまの福音を伝えるために、自らの行いも、言葉もすべてささげた人でした。私たちはパウロの手紙を読みつつ、主の福音のために生きるキリスト者の生き方を知らされます。

パウロの手紙を読むと、言葉や論理が優れていることは、もちろん分かります。しかし、手紙の中で語られる議論は、どこか通常の議論から飛んでもいます。そこには、ひたすらイエスさまのために生きるという信仰があって、初めて読み解けることが含まれているからです。

だからこそ、今教会に集う私たちが、2000年近くも前に記されたにもかかわらず、これらのパウロの手紙を読む時、心燃やされるのです。

さて、コリントの信徒への手紙第9章は、それまで語られた議論から事柄が変わったかのようでした。偶像にささげられた肉は、食べるか食べないか、という問題について、語られていたのが第8章でした。その結論として、パウロは弱い人のつまずきになるくらいなら、私は肉を食べることさえやめる、と伝えたのです。

その先が、第9章でした。その最初に宣言される言葉があります。1節から。

「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。」

パウロが第9章でまず真っ先に伝えたこの言葉を、大切に読むことが、この章を味わう前提となります。

パウロは自由な者でした。では、ここで言う自由とは、どんな自由か。この先に続く言葉が重要です。「使徒ではないか。」使徒とは、「イエス・キリストに遣わされた者」のことです。だからこそ、自由という言葉は、「イエス・キリストによって」自由とさせられた者だ、と読みたいと思います。

主イエスによる救いに入れられた者が、どう自由になるか。この世のルールに縛られなくなるとか、そういう自由を教会は伝えません。教会が伝える、主にある自由は、主なる神さまから離れてしまう罪、そして、その罪によって陥っていた滅びから、解き放たれた、ということです。イエスさまが、私たちの罪を背負って十字架にお架かりなったからこそ、私たちはそれらの鎖から、解き放たれたのです。そして、私たちを救われるイエスさまのもとに結ばれて、新しく生きる自由が与えられましたのです。

だからパウロは伝えるのです。主にある自由と、それに続けて自らが主の使徒であることを。

パウロはイエスさまによって自由にされたことを、使徒とされたことを、何より喜んでいます。このように宣言するほどに、その事実によって生き続けた伝道者なのです。かつてダマスコ途上で、ご復活のイエスさまに出あい、パウロは変えられました。イエスさまを迫害し、自ら罪を犯してしまう者から、主イエスによって遣わされ、主に、教会に仕える者とさせられたのです。

そして、パウロはイエスさまに遣わされ、コリント教会で人々に仕えた。そこで、教会が生まれ、信徒たちが導かれた。

その事実を伝えたうえで、パウロはコリント教会の人々に、弁明のような、勧告をしていきます。

そこから知らされることは、どうやら教会の中で、パウロという伝道者に対していくつも批判があったようです。

 「わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。」

パウロ先生だって、偶像にささげられた肉だってただの肉なのだから食べればいいではないか。他の伝道者と同じように妻を持てばいいではないか。パウロ先生だって、他の先生と同じように教会からの援助で生活して、テント造りなんかしないでいてほしい。

などなど、コリント教会でパウロに批判があったようです。いうなれば、パウロを当時の伝道者の一般的な像に当てはめたかったといえるでしょう。

私たちは、むしろパウロの伝道者の姿が聖書からよく伝わるせいか、食べ物を、何を食べるか気をつけ、結婚をしていなくて、教会の援助をもらわない牧者の方が牧者らしいと思うかもしれません。

しかし、そもそも、伝道者はこうあるべきだ、とか、キリスト者はこうあるべきだ、とか、私たちの思い描く像に、当てはめて考えることが、おかしいのだ、とパウロは伝えていくことになります。

パウロは、そもそも偶像にささげられた肉だろうが食べられた、結婚だってできた。教会からの援助だってもらうことができた。その権利はあったのだ、と伝えます。特に、パウロは教会から生活費をもらう権利があることを丁寧に伝えます。旧約の言葉を用いても、それを裏付けるのです。こうあります。

「そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。」

しかし、ここまで語っておきながら、パウロは教会から生活費をもらうことをしたい、とは言わないのです。そうではなく、パウロはある目的のために、その権利を手放したことを、力強く言うのです。12節

「他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」

パウロは教会から生活費をもらう権利を、手放しました。それは、福音をより告げ知らせるためです。イエス・キリストの救いが、良い知らせとして、さらに人々に伝わるために、パウロは教会から生活費をもらうことはなかったのです。15節でも言われます。

「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。」

パウロが生活費を教会からもらわないことが、具体的にコリント教会にどんな福音の力を与えたかは、いくつか考えられるでしょう。コリント教会の他の伝道の業のために、その費用がさらに使われたのかもしれません。または、生活費を目的に伝道をしている、というつまずきがコリント教会にあって、「そんなことはない、伝道者はただ主の福音のために宣教しているのだ」ということを伝えたかったのかもしれない。

ともかく、パウロ方は、その時代に、その地で、最もイエスさまの福音が伝わることを念頭に全ての行いをしていたのです。そのためには、いくらでも自らが持っていた権利を手放すことまでしたのです。すべては、イエスさまの福音のために。16節から。

「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。」

「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」とまでパウロは言い切ります。不幸、新約のもとの言葉で、うめき声を表すようなウウアイという語です。「福音を告げ知らせないなら、私はうううう!、そんなことではわたしは生きていけない!」というような、パウロの思いが、ここにあるのです。

「何としてでも、イエスさまの福音を告げ知らせたい、そのためなら何でもしたい。私はイエスさまのために生きている、イエスさまのためにそうせざるを得ない。まさに救いのためにイエスさまの僕となった、報酬などいるわけがない。」

それがパウロの生き方です。

これは、パウロだけの生き方でも、伝道者だけの生き方でもありません。

今日の箇所は、パウロという伝道者が語ることだから、牧師だけが読めばいい箇所とはなりません。イエス・キリストに救われた、全ての者がこのパウロの訴え、勧告に耳を傾けることができます。

1節の言葉は、使徒だけに当てはめて読めるものではない。教会に集う私たちにも当てはめられる言葉です。

私たちは、イエスさまによって罪から自由にされるのです。洗礼を受け、キリスト者にさせられるのです。十字架と復活のイエスさまに、であって、変えられていくのです。

そのように変えられた私たちに対して、世間は決して暖かいわけではありません。コリントの信徒がパウロに対して批判したように、教会にもこの世からの批判がある。キリスト者にも、誰かから批判が起こる。キリスト者なのだから、品行方正で、誰にでも優しくて、愛情深くて、罪なんて一切犯さないのでしょ、と、勝手なイメージを付けられることだってあるかもしれない。そして、あなたはキリスト者なのに、なんでそんならしくないのだ、などと言われることもあるかもしれません。

しかし、それに対して、私たちはパウロの言い方によって、答えられるのです。今私がこのようにキリスト者として歩んでいるのは、イエスさまの福音をよりよく告げ知らせるためなのです、と。そして、私たちは祈るのです。「主よ、わたしがよりイエスさまの福音を世界に告げ知らせるために、何をすべきか、導き教えてください。」と。

ある者は、牧者になることで、さらに福音を告げ知らせる。そして、ある牧師は、教会から謝礼をもらうことで、教会の務めに専念できて、福音をさらに告げ知らせる。またある者は教会以外の働きもしつつ、福音を告げ知らせる。

教会の信徒も、それこそパウロのように教会から生活の糧をもらうのではなく、教会でイエスさまのために奉仕する。福音がさらによく広がるように、それぞれに与えられたかたちで、イエスさまの救いの良い知らせを、人々に伝える。そのために礼拝で主をたたえ、聖書の御言葉を愛し、その言葉を携えて週の歩みを続ける。

私たちが皆、そのようなイエスさまの僕として、イエスさまの福音をつげしらせることを、皆共通の目標としていくことができる、それが教会です。

そして、この生き方の先頭にいるのは、イエスさまです。

パウロが実践した歩みのさらに先に、イエスさまがいてくださる。

「父なる神はあなたたちがどれほど罪によって離れても、あなたたちを愛している。あなたたちが滅びることではなく、救いによって生きてほしいと、願っているのだ」、この福音、善い知らせを告げ知らせるために、イエスさまはすべてをささげました。あらゆる権威と権利をお持ちである方が、それを放棄して、まるで奴隷のように、人々の下にお仕えになりました。十字架にまでおくだりになりました。

しかし、その主イエスはご復活させられ、使徒たちを派遣し、福音を告げ知らせたのです。

私たちも、パウロを通して、そしてイエスさまを見上げて、その福音を告げ知らせていきましょう。