神さまの神殿はあなたがた
コリントの信徒への手紙一 第3章10−17節
中村 慎太
主日礼拝
「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」私たちは今日、そのような言葉を伝えられました。コリントの信徒への手紙Ⅰの第3章17節の後半です。
「あなたがたは神の神殿である」。驚くような、畏れ多いことを言われているように思えます。私たちが、主なる神の神殿だとは。
このような表現に至るまでに、伝道者パウロはまず「あなたがたは神の建物だ」ということを伝えていました。ここで言う「あなたがた」とは、コリント教会の信徒たちのこと、つまりコリント教会という信仰の群れのことを指します。つまり、時と場所は違えども、私たち鎌倉雪ノ下教会の信仰の群れも、このコリントの信徒への手紙Ⅰの言葉を私たちのこととして読み取れることになります。
伝道者パウロはこの手紙で、コリント教会の信徒たちに、「あなたたち教会とはどういうものか」ということを、丁寧に説明してきました。第3章の初めでは、それは神の畑のようなものである、と解き明かしました。そのうえでさらに、あなたたちは神の建物のようでもある、と伝えたのです。それが、今日私たちが聴いた箇所の直前になります、第3章9節です。「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。
そして、今日の箇所から、パウロは主なる神の建物である教会がどのように建て始められたかを、コリント信徒たちに思い起こさせます。コリント教会に限らず、私たちが集う教会という群れは、いったいどんな前提で建てられているのでしょうか。
第3章 10節から。
「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」
教会の土台は、イエス・キリストです。パウロはその土台を、コリントにおいて据えました。彼は、その働きを、謙遜せずとても重要なことだったとして、証ししています。彼自身が、「熟練した建築家のように」そのことを成した、と言っているのです。ただし、パウロがそのようにキリストを土台とできたことは、「神からいただいた恵みに」よる出来事だったと、まっさきに伝えています。
パウロはこの手紙においてずっと、自分は十字架のキリストのみを伝えたのだ、と書き記していました。コリントの地においても、彼は世の知恵ある言葉などではなく、ただ十字架の主イエス・キリストを、人々にまっすぐ伝えたのです。その主イエス・キリストによる十字架の救いこそ、彼にとっての恵みの出来事でした。
私たちが罪に囚われ、ただ主から離れてしまう者であったのに、主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架に架かって死なれました。そして、主は十字架の死の後、死の力、罪の力に打ち勝ってご復活させられました。私たちに罪の赦しと、新しい命の希望を与えてくだいました。
パウロ自身、はじめはキリストを信じることができず、生まれたての教会を迫害する者でした。しかし、ご復活の主イエスは、そのパウロをただ恵みによって、回心させ、主の救いに生きる伝道者として新しく歩めるようにしてくださったのです。パウロ自身の土台が、主イエス・キリストとなったのです。
パウロは、その恵みによって、ただ十字架のキリストを、コリントでも伝えたのです。そのことこそ、コリント教会の土台が据えられる出来事だったのです。
パウロがその地を去った後も、その土台は揺るぎません。もし万が一その土台以外の何かが土台になるようなことがあったら、それはもはや教会ではなくなるのです。
私たちの教会も、そうです。鎌倉雪ノ下教会も、ただ恵みによって、主イエス・キリストを土台として建てられた、信仰の群れです。他の何物も、とって代わって土台となることはありません。主イエス・キリスト以外の、誰もその土台にはなりません。どんなに科学が発展しても、どんなに文化が新たにされても、十字架の主イエス・キリスト以外に、私たちの土台はあり得ません。
このことは、信仰の群れの一人一人、私たちの土台をも問うのではないでしょうか。私たちが洗礼を受けキリスト者となる時から、私たちには土台が据えられたのです。むしろ、その前から私たちにはキリストという土台が、主の導きによって据えられていて、それが洗礼によって明らかにされた、とまで言えるかもしれません。
私たちの土台も、十字架の主イエス・キリストです。伝道者パウロがそうであったように。パウロはある手紙でこう語ります。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」ローマの信徒への手紙第14章8節の言葉です。そこまでの信仰が、私たちにも与えられています。この信仰が、主イエス・キリストを土台とするこの群れの一人一人に、与えられています。
キリスト者の群れ、教会は、そのようにしてイエス・キリストという土台を据えられて、建てられていきました。コリントの地にも、その建物が生まれたのです。そして、その教会という建物は、さらに大きくなっていきました。パウロが次の地へ伝道に行った後も、コリント教会は大きくなっていったのです。あるいは広がり、新しい地に新しい建物が、教会が増えていったのです。
建物の建築がさらに進む様子、増築されていく様がイメージできるでしょう。そして、その仕事は、主イエスの再臨の時、この救いの完成の日まで、続きます。パウロはその教会の歩む未来も伝えます。
第3章 12節から。
「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」
土台を据えられた教会をさらに大きくしていくことの責任も、ここで伝えられます。教会の牧者や、信仰者たちが、教会をさらに大きくしていく、それは自分たちが建物でありながら、自分たちが建築家の一員でもあるとして表現されます。
金、銀、宝石、木、草、わらで建物を建てると表されています。これは、その後で火に吟味されるという表現から、二種類に分けられます。火によって吟味されて、残るか、それとも、燃え尽きてしまうか、の二種類です。金、銀、宝石は、火にさらされても精錬されるように残ります。しかし、木、草、わらは、火にさらされたら、燃え尽きてしまうのです。
私たちが教会を大きくしていくことも、そのように主の再臨の日まで続く働きです。その主の再臨の日、裁きの日に、火にさらされるようにそれは吟味されるということです。
私たちの働きが、教会にとって金か、銀か、宝石か、それとも木か、草か、わらか、それは私たちでは推し量れません。私たちは、ただ祈ります。私たちの小さな働きをも、主が金や銀や宝石として用いて下さるように。私たちの働きが、木、草、わらであっても、御心ならば、火の中をぬけるように、ただ主の恵みによって私たちが救われますように。
そのような教会が、神の神殿としてまで重んじられるべきだということ、そしてその神の神殿を破壊するようなことは決してしてはならない、とパウロは伝えます。
第3章 16節からです。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
教会に集う信仰の群れは、主なる神の神殿です。神殿、それは、主なる神を礼拝する場です。例えば、エルサレムの神殿を思い浮かべてよいでしょう。旧約からずっと、その神殿は、信仰者たちにとって大切な場所でした。
ただ、その神殿の建造物が大切なのではありませんでした。建造物に関して言えば、何度もエルサレム神殿は破壊されました。また、神殿という建造物に、主なる神が宿るわけではありません。主は、人間が造ったものに収まるような方ではありません。聖書においても、主なる神はそのような人間の傲慢な思いを、何度も否定なさっています。
大切なことは、神殿で人々が集い、真の礼拝をささげる際、主はそこに共にいましてくださるということです。そこに現臨してくださるということです。
パウロも、そのことを伝えています。「神の霊が自分たちの内に住んでいる」という言い方です。聖霊なる神としていてくださる主が、私たち教会の群れの内に、住んでくださる。そのことがあってこそ、私たちが主の神殿と言いうるのです。