専門家
嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第7章10-24節
主日礼拝
私どもは、神様のことは、誰から教わるのでしょうか。
よく人は、美しい自然を見たり、星を数えたりすると神様はすごいなぁと思ったり、何かがありますと、神様はどうお考えなのかと思ったりいたしますが、でも、私どもは、神様のことは、主イエスから。神様のことは、主イエスから教わるのです。それが一番正しい方法なのであります。なぜならこのお方は、ただ一人の、専門家なのですから。
ヨハネによる福音書の初めの部分、第1章1~18節までというのは、このヨハネによる福音書のプロローグと呼ばれたりいたします。またそこはこの福音書の要約ともいわれておりまして、この福音書で語ることになる大事なことを、初めに書いておいた、というような重要なところなのです。こう始まります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)
この「言」とは、主イエスのことであります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
そう読みますと、とても響いてまいります。
主イエスは初めに、父なる神と共にあった。そしてその神の独り子が、人となって私どものあいだに来てくださった。そしてプロローグの最後はこうです。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)
「神を示された」というのは、神様がどういうお方であるか、お知らせしてくださった、ということであります。そのために、主イエスは来られたと、この福音書は最初にいうのです。
それで、これをスイスのある牧師がこう言ったのです。専門家。
この方はただ一人の専門家である。父を見たことがある唯一の方、そして父のふところにおられた方。専門家はたくさんいるが、神をご存じなのは、この方だけだ。
この方だけが、ただ一人の、専門家なのである。
主イエスはエルサレムにお入りになりました。それは秋の仮庵祭のときでした。でも前から言われていましたが、ユダヤの当局の人たちは、主イエスを危険人物とみなしておりまして、捜し出して殺そうと狙っていました。それにエルサレムでは主イエスに対する噂もあちこちで囁かれていました。ほめたりけなしたりです。いい人だと言ったり、悪い人だと言ったり、主イエスのことで持ち切りであったのです。でもどうしてこんなに、主イエスのことが噂になっていたかと申しますと、主イエスが前に38年間も病気であった人を、エルサレムでお癒しになったからでした。
その癒しの出来事は、第5章に書かれておりますが、ベトザタの池での癒しの出来事です。それはずいぶん前のことです。でも人々は、そのことが忘れられなかったのです。なぜなら彼らは、それを見てとても驚いてしまったからです。神の癒しが見えたからです。
主イエスがなさったこの癒しは、ヨハネ福音書では「しるし」として数えられておりますが、「しるし」というのは、神が見えてしまうことなのです。人とは全く違う別のもの、人が見たこともない、向こう側の世界が一瞬、開けて、見えてしまうようなことなのです。ですから人々が、そのことを忘れられなくなるのも無理もないことなのです。それで人々は、いったいこの癒しをした人は、どういう人なのか、今も話題沸騰であったわけです。ところが、その当の話題の人が、突如、エルサレムの中心に現れて、神殿の境内で教え始められた、ということが起こりました。それでエルサレムの都は、大混乱になるのです。
でも、ユダヤの当局の人たちは、主イエスが教えておられるのを見て、別な意味で驚いてしまいました。この人は、どうしてこんなに聖書をよく知っているのだろう。とても率直な驚きでした。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(7:15)。学問をしたわけでもないのに。この人は、だれから教わったんだ、ということであります。
私どもは、このお方は、神のふところにおられた方ですから、ご存じで当然ですと思いますけれども、彼らはそうは思いませんでした。彼らは前にも、主イエスが「父と御自分を等しい者とされた」(5:18)ということをとても怒っておりました。主イエスが父と御自分を等しい者とされた、それで彼らはますます主を殺そうと狙うようになったということが、前にいわれておりましたので、そういった神を冒涜するような人の、なぜこの教えを聞かなければならないのか。しかしそれにしても、どうしてこんなに聖書をよく知っているのか。聖書の専門家はたくさんいるが、それとは全く違うように聞こえる。
いったいこの教えは、どこから来たのか。彼らはそのように驚いたのであります。
すると、主が答えられました。
「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」(7:16)
主は、この教えは、父から来たとおっしゃったのです。これは父の教えである。それで、主は彼らに、教えられたのです。
「なぜ、わたしを殺そうとするのか。」(7:19)
「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」(7:19)
これは十戒の違反だと、だれでもわかるようなことを、主が言われたのです。なんじ、殺すなかれ。そう十戒で言われているではないか。それなのに、あなたたちは、一所懸命にその律法を教えていながら、それを実行しない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。
それには口を挟む人がいて、あなたはおかしい、だれがあなたを殺そうというのかと躍起になる人がいましたが、主はその理由をこうおっしゃいました。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。」(7:21) わたしが、安息日に一人の人を癒したからというので、それであなたたちは、わたしに腹を立てている。
安息日は、誰も働いてはいけない日でありましたので、彼らは主が、その安息日に癒しをされたことで腹を立てていたのです。でも主は彼らの矛盾を突かれます。しかしあなたがたは、安息日に割礼を施しているではないか。
割礼というのは、男の子が産まれてから8日目にするのです。それは律法で決まっていて、でも、産まれる日はわかりませんから、もし、その子が産まれて8日目の割礼の日が、たまたま安息日であったらどうするか。そこは、割礼が優先されるのです。安息日であっても、割礼は例外であった。割礼というのは、その子が神の民に入れられるという、大事な日でありましたから、神様がその子を救いの民に入れる大事な日でありましたから、それは律法によっても許される。それならば、主イエスがおっしゃるのは、わたしが安息日であっても、全身が動かなかった人を癒したからといって、その命を救ったからといって、どうしてあなたたちは腹を立てるのか。それとこれとは、どう違うのか。
このことは、律法はどこから来たか、ということなのであります。
律法はどこから来たか。だれから来たか。
律法は父から来た。そしてその安息日に起こった、その子の割礼も、一人の人の癒しも父が意思なさったのである。これは父から来た、父の救いなのである。それのどこが違うのか。
そのことを見ないで、その父の御心を見ないで、自分勝手に捉え直し、自分の思いだけであたかもすべて知っているかのように、自分の見えるままだけで、人を裁くのは止めなさい。
「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(7:24)
神の御心は何であるか、いつもそこに帰りなさい。
主はそのように教えてくださったのであります。
でも思いますに、こんなふうに、
主イエスに教えていただかないと、私どもは神様のことはわからないのであります。
そもそも、神様のことは、私どもには、だれもわからないのであります。わかったら、自分が神になってしまいます。わかったつもりでいても、それは自分勝手な思いになることだってあるのです。
そもそも向こう側だって、神の世界のことだって、本来は神様の秘密です。だれも見ることは許されていないし、知ることも不遜です。ただこっち側にいる者として、造られた者として、この世界を見たり、あるいは自分たちの体を見て、神様がこういうふうにお造りになったんだなということがうっすらわかる程度であって、神様が何をお考えであるかとか、神様がどのようにお思いであるかなんていうことは、本来は私ども人間には開かれないものなのです。そんなことは許されていないものなのです。
しかし、神様は、そういった私どものところに神様が、かがむようにして近づいてくださって、人と関わってくださって、慈しんでくださって、どうしたら罪から取り戻すことができるか、親身になって、痛みに覚えてくださって、昔からモーセとか預言者とか律法を与えてくださいましたが、いよいよ、神様がそれ以上のご決断をなさって。そしてご自分のふところを開いて、御子を私どもにお送りくださった。御自分が何をお考えであるか、御自分が何をしたいと思われているか、そして、何をしなくてはならなくなったかということを、私どもにお知らせに、御子をお与えくださったということなのであります。
この神様の御決断がなければ、私どもは救われなかった。
主イエスが教えてくださらなければ、神様の思いはわからなかった。けれども、主が命をもって、知らせに来てくださったので、私どもは、神様の思いが、わかるようになったのです。
今日の第7章18節で主イエスはこうも言われておりました。
「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」(7:18)
これは第一に、主イエスご自身のことを言われていることは間違いのないことであります。自分勝手に話している人は、自分が褒められたいと思うような人で、神様のことはじつは思っているようで思っていない。でもそうではなくて、いつでも神の栄光を求める人は、真実な人であり、その人には不義がない。これはまず御自分のことを主は言われているのであります。けれども、
もうひとつ、その前からのお言葉で言うと、17節から繋げますと、こうお聞きすることができるのです。主イエスがおっしゃったのは17節「この方の御心を行おうとする者は」、神の御心を行おうとする人は、そういう人は主イエスの教えがどこから来たか、わかっていて、そういう人は、自分の栄光を求めないで、神の栄光を求める。これは、そういう人はだれでも、というニュアンスで、主イエスが話しておられるのであります。
そういう人はだれでも。私どもが、神様から遣わされて、御心を行うときに、自分ではなくて、神様から来ることを、いつも大事にして行うときに、そういう人は、真実な人であり、その人には不義がない。
あなたがたは、そういう人だ。
主はそんなふうに、これを聴く私どもを、励ましてくださって、それで神様のことはわたしがぜんぶ教えるからと、だからわたしに聴きなさいと。こうやって大事なことは、礼拝で、主イエスが教えてくださいますので、心配なく。そうやって主が援けてくださいますから、私どもは、主イエスから、神様のことは教わったらよいのであります。
私どもには、このただ一人の専門家が、いつもついていてくださるのであります。
お祈りをいたします。
父なる神様、どうか、私どもによってあなたの御心がなりますように。
主の御名によって祈ります。 アーメン