人を引き離す力に負けるな
川崎 公平
テサロニケの信徒への手紙一 第2章17節-第3章5節
小礼拝8:30/主礼拝10:15
(6〜10地区居住の方のみ,礼拝にご出席下さい)
■テサロニケの信徒への手紙Ⅰの、第2章から第3章へと続けて読みました。ここは、この手紙が書かれた背景というか、その経緯を直接語っているところです。その意味では、この手紙のひとつの中心部分であると言うことができるかもしれません。テサロニケの教会は、伝道者パウロとその仲間たちの伝道によって生まれました。しかし、これまでに何度もお話ししたことですが、パウロたちはテサロニケの町でたいへん激しい迫害に遭って、遂に教会の仲間にかくまわれながら夜逃げをしなければなりませんでした。けれども、できることならもう一度テサロニケの教会を訪ねたい。新共同訳聖書の小見出しに「テサロニケ再訪の願い」とある通りです。第2章17節以下に、このように記されています。
兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。
私どもは、このような聖書の言葉を、今は容易に理解できると思います。1年前にこの言葉を読んだとしても、あまりピンとこなかったかもしれません。けれども今はよく分かります。私どもも、互いに引き離されているからです。
前回の説教でもお話ししたことですが、「教会」という言葉の原語はギリシア語の「エクレーシア」という言葉で、「集められたもの」、もう少し厳密に翻訳すると「呼び出されたもの」という意味です。神に呼ばれて、呼ばれたならば、今いるところにじっとしているわけにはいかないんで、そこから出て行く。そうやって、集められるのです。神に呼ばれているのに、家から一歩も出ない、同じ場所に集まることもしないというのは、もちろんやむを得ないこととはいえ、教会が教会であることをやめさせられていると言うべきなのかもしれません。
「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので」とパウロは言います。私どもも、引き離されているのであります。もちろんそれは、パウロがここで申しますように、「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが」、むしろ心が離れていないからこそ、顔を見ることができないということが、どうしようもなくつらいのです。
しかし、それとも、もう私どもはこういう状況に慣れてしまったのでしょうか。神に呼ばれても、家から一歩も出ることなく、パソコンの前に座れば、ふつうに礼拝することができる。言うまでもないことですが、今そういうことをしている人たちを責めるつもりはまったくありません。礼拝のライブ配信を積極的に活用してほしいということは、教会が教会としてお願いしていることですから、今さらそれを責めるなんてことは考えられない。けれども、もしもここにパウロがいたら、あるいはパウロが「鎌倉雪ノ下教会への手紙Ⅰ」などというものを書いたとしたら、きっと同じようなことを言うだろうと思うのです。鎌倉雪ノ下教会の兄弟、姉妹たちよ、あなたがたが互いに引き離されているのは、「サタンによって妨げられ」ているのだ。人を引き離そうとするサタンの力に負けるな。今のこの状況に慣れるなんてことがあってはいけないと、おそらくあのパウロのことですから、血相を変えてそう言うだろうと私は思います。
■ここでパウロが用いている、とりわけ強烈な表現があります。今申しました「引き離す」という言葉は、17節に出てきます。「あなたがたからしばらく引き離されていたので」というのですが、この「引き離す」という言葉は、原文を直訳すれば「孤児にする」「みなしごにする」という意味です。ヨハネによる福音書第14章の、主イエスが十字架につけられる直前に弟子たちに語られた言葉の中に、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(口語訳「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」)という印象深い言葉がありましたが、パウロはここで、テサロニケの人びとよ、わたしはあなたがたから引き離されて、それはもう、みなしごになったような気持ちだと、そう言うのです。
こういう表現を読むと、「おや」と首をかしげる方もあるかもしれません。この第2章の前半では、パウロはむしろ、自分たち伝道者を母親にたとえ、あるいは父親にたとえていたからです。「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので……」などと言うのです。それならば、みなしごにされたのはパウロたちじゃない、むしろテサロニケの教会の人びとの方ではないか。しかし私はむしろ、このようなところに〈教会〉に生かされることの恵みがよく現れているように思うのです。共にひとつの教会に集められた者たちが引き離されてしまうというのは、牧師も教会員も関係ないので、誰もがそこで、親に捨てられた子どものような、どうしようもない心細さを覚えるものだと思うのです。
今年の3月1日の長老会で、しばらく教会堂を閉鎖することを決めたことは、いまだに皆さんの記憶に新しいことかもしれません。けれども私は、当然と言えば当然ですが、その翌日3月2日月曜日も、その翌3日火曜日も、教会堂に通う生活を続けました。今思えば、その最初の1日、2日が、いちばん寂しかったかもしれません。それまでは、教会堂に行けば誰かしらいたのに、いつ行っても中は真っ暗、誰もいない……。もしも小さな子どもが、ひとりで家に帰って、けれども家にはお父さんもお母さんもいない。自分で鍵を開けて、自分で電気をつけて、「ただいま」なんて言ってみても「おかえり」と答えてくれる人は誰もいない。もしもそんな子どもがいたら、どんなに寂しいだろうかと思いますが、今思えば、私が3月の初めに何となく感じていた寂しさは、それに近いものがあったかもしれません。
私どもの教会が、3月以来、なるべく会わないように、なるべく集まらないように……そういうことをしてきたのは、繰り返しますが、一方ではやむを得ないことです。けれどもそこで改めて、このパウロの言葉に耳を傾ける必要があると思うのです。「人を引き離す力に負けるな」。われわれは、サタンに妨げられているのだから、もしそうだとするならば、ただ世間の常識的な判断に流されるだけであってはならないと思うのです。サタンの力に、賢く抵抗しなければなりません。
今日の説教題を、「人を引き離す力に負けるな」といたしました。サタンの力に負けるな、ということであります。しかし、いったい何ができるというのでしょうか。このような説教題に魅かれて、ひとりでもふたりでも、今日の礼拝に関心を持ってくださる方があればと期待しました。まだ教会に足を踏み入れたこともないような人が、「いったい、この教会で何が語られるんだろう」と、ふと思ってくださるだけでも、ありがたいと思いました。しかし、改めて問います。「人を引き離す力に負けるな」。そのために、いったい何ができるというのでしょうか。聖書は何を語るのでしょうか。私自身が、深い関心と期待をもって聖書を読みました。
■そこでひとつ、私どもの目を引くことは、パウロがここで、自分たちを引き離している力を「これはサタンの妨げだ」と言い切っていることです。こういうものの言い方は、実はあまり私どもの信仰になじまないかもしれません。自分の気に入らないことがあると、すぐに口癖のように「サタンのしわざだ」と言う人がいたら、それはちょっと、「お前、何様だ」ということにもなるかもしれません。
実を言うと、なぜパウロがこのときテサロニケに行くことができなかったか、具体的に何があったのか、よく分からないところがあります。「サタンが妨げているのだ」とパウロは言いますが、それが具体的にはどういうことなのか、学者たちはいろいろ推測しますが、憶測の域を出ません。しかし私は、なぜパウロがここまで強い表現を用いたか、何となく分かるような気がするのです。パウロという人は、本当に単純素朴に、〈教会〉というものを信じていたのだと思うのです。私どもが使徒信条において「我は聖なる教会を信ず」と言うときの、〈教会〉であります。教会は、聖なるもの、主に呼び集められた群れだ。その教会が、引き離されたままであってはならない。
このようなパウロの感情は、素朴すぎるのでしょうか。幼稚すぎるのでしょうか。むしろ私が、この半年間、いや7ヶ月以上の教会の歩みを振り返って、改めて感謝しなければならないと思うことは、この鎌倉雪ノ下教会にも、ここでパウロが吐露しているような激しい愛をもって、教会を信じ抜いている人たちが生かされているし、教会は、そのような信仰の情熱によって生きているということです。先ほど、「礼拝の動画配信に慣れてはいけない」などとお説教めいたことを申しましたが、本当はそんなことあるはずもないので、「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」というのが、教会に生きる者の〈本音〉だと思うのです。それを断念させるような力は、それが何であれ、サタンの妨げだと断ぜざるを得ないほどの思いがあるのです。そうでなかったら、これまでの103年に及ぶ鎌倉雪ノ下教会の歴史もなかったのです。
■しかしそこで、さらに問いを深めなければなりません。「人を引き離す力に負けるな」と言ったって、しかしそれなら、具体的にどうすればよいのでしょうか。ウイルスのことなんか気にしないでどんどん集まろう、ということになるのでしょうか。そんな単純な話でないことは、常識的に考えてもすぐに分かりますし、しかし聖書はさらに不思議なことを、私どもに示唆してくれていると思います。第3章1節以下にこう書いてあります。
そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。
よく読むと、不思議なことではないでしょうか。「あなたがたの顔を見たいのだ、心が離れていないというだけじゃあ、いやなんだ」と、聞きようによっては子どものように駄々をこねていたパウロが、「そこで、もはや我慢できず」、後輩の伝道者であるテモテを代わりに派遣したというのです。好きな人に会いたい、顔を見たいと言って、代わりに他の人に行ってもらって何の役に立つかと思いますけれども、別にパウロも、テサロニケの教会の人たちと一緒に酒盛りをしたかったわけではないのです。テモテを派遣したのは、「あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」と言います。もしパウロ自身が、困難を押し切ってテサロニケに行けたとして、そのときパウロがいちばんしたかったことは、何よりも、イエス・キリストの福音を語ることであったに違いありません。今私どもがここでしているように、一緒に礼拝をしたい。賛美を歌いたい。共に福音を聞き、そして聖餐にあずかりたいということであったに違いないのです。
■最後にもうひとつ、大切なことがあります。何としてもテサロニケの教会の人たちに会いたい、そう申しましたパウロが、けれども同時に、そのような希望の、さらに向こう側にある希望を語っています。第2章19節以下です。
わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。
この19節以下は、要するに、主イエスの再臨の時のことを語っています。考えてみれば不思議なことで、教会の仲間たちに会いたい、心でつながっているだけではいやだ、ちゃんと対面で、顔を見たいんだという思いと、主イエスの再臨を待つ思いが、深く結びついてひとつになっているかのようです。しかもさらに興味深いのは、主イエスが再び来られるとき、いったいパウロは何をしようというのか。テサロニケの教会のことを、自慢するというのです。イエスさま、どうか見てください。テサロニケには、こんなにすばらしい教会が生まれましたよ。テサロニケの教会こそ、再臨の主のみ前にあって、「わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠」だと申します。
この聖書の言葉について、ひねくれた学者はたいへんおかしなことを申します。「再臨のキリストの最後の審判の前で、キリストよ、自分は伝道者としてこれだけの成果をあげましたぞ、という自慢の種のように教会を扱うとは。宣教師の自己満足も甚だしい」。この学者は、教会を愛したこともないし、教会に愛されたこともないのだろうと悲しく思いました。
私どもは、いわゆる伝道者であろうとなかろうと、このパウロの言葉をわがことのように読むことができるはずだと、私は信じています。いつか主イエスの前に立つとき、きっと私どもは、いろんな話をしなければならないでしょう。自分の犯した罪について、改めてお詫びをしないといけないかもしれない。けれども何よりも、自分が生かされた教会のことを、主イエスに報告することができるのではないでしょうか。主よ、私は地上にいたとき、鎌倉雪ノ下教会という教会に生かされたんですよ。こういう人がいて、こういう人がああいうことをしてくれて……。でもイエスさま、あの鎌倉雪ノ下教会は、本当にあなたの教会だったのですね。ありがとうございますと、自分の生かされた教会のことを、誇らしい喜びの中で、主イエスと語り合うことができるのではないでしょうか。
そのような希望に裏付けられているからこそ、今この地上にあって既に、私どもは教会の仲間たちから引き離されるわけには、絶対にいかないし、仲間たちの顔を見たい、心で離れていないだけじゃあ困る、という切実な愛に生きることが許されているのです。この教会の主であり、そのゆえに、必ずこの教会をもう一度訪れてくださる主イエス・キリストの名によって、今共に、祈りをひとつに集めたいと願います。祈ります。
主イエスよ、あなたは必ず、もう一度ここに来てくださいます。傷だらけのこの地上を、何よりもあなたの教会を、訪ねてくださいます。そのとき、あなたのみ前でいったい何が、「わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか」。未知のウイルスのために、そのために呼び起こされている私どもの恐れのために、互いに引き離されているあなたの教会を、どうか憐れんでください。今は顔を見ることのできない、あの人、この人のことを、主イエス・キリストよ、あなたのみ前で正しく思い起こさせてください。マラナ・タ、主イエスよ、来てください。主のみ名によって祈り願います。アーメン