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イエスよ、あなたを信じていいのですか

2012年2月5日

ルカによる福音書第7章18節ー23節
川﨑 公平

主日礼拝

主の日の礼拝の中で、私がここに立って説教いたします時には、ルカによる福音書を私どもに与えられた神の言葉と信じて聴き続けております。今日読みましたところに洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が出てまいりました。このルカによる福音書の第1章、第2章、そして第3章において、大切な役割を果たした人です。主イエスの先駆けとして現れ、このイエスという方こそ救い主であると明確に証をした。それがこの洗礼者ヨハネでありました。けども、私どもはルカによる福音書を読み続けながら、いつの間にか洗礼者ヨハネのこと忘れてしまっていたのではないかと思います。最後に洗礼者ヨハネが出てきた第3章を読んでいた昨年の1月から、もう1年以上経つわけですから、無理もないところかもしれません。

ルカによる福音書は第3章において、この洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕らえられて、牢獄に入れられた。そこでヨハネの活動も断ち切られたのだということを伝えております。第3章の19節以下であります。

ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

ヘロデは自分の兄弟の妻を奪い取った。もちろん、そのために策略をめぐらして、ということです。誰も指摘することもできなかったこのヘロデの罪を、面と向かって指摘したのがこのヨハネでありました。そのためにヨハネは牢獄に捕えられております。その話がまだ続いているのです。後にヨハネは牢獄から出されて、ヘロデによって首をはねられることになります。そのような自分の最期をどこかで予感するところがあったかもしれません。牢獄の中にいるヨハネが自分の弟子たちを使いに出して尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。本当にあなたを待っていてよいのでしょうか。洗礼者ヨハネが、そのように尋ねたのです。

この洗礼者ヨハネの問いは、古くから教会の人たちの心を、ある意味で揺さぶってきたようなところがあります。少しおかしな問いではないか。他の誰よりも早く、主イエスこそ救い主だと証しをし、ほかの誰が気づかなくてもこの人こそ神の遣わされた方であると明確に証をしたヨハネが、この期に及んで疑いを持ったのだろうか。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネがこんな疑いを持つというのはどうもおかしい、ということで、ある人たちは、ヨハネが疑いを抱いたのではない、しかしヨハネの弟子たちが、どうもなかなか主イエスのことを信じてくれなかったものだから、弟子たちのためにこういう質問をさせたのだと推測します。なるほどと思います。「自分で確かめてきなさい。自分の目で見て、自分の耳で聞いてきなさい」。いわば教育的な配慮をしたのだと考える。けれどもやはりここは単純に考えて、ヨハネ自身がこういう問いを抱いたのだと考えるほうが自然であると私は思います。来るべき方は、あなたなのですか。本当にあなたを待っていてよかったのですか。牢獄の中でそう尋ねた。自分の一生はどこか間違っていたのではないか。どうしても、このことだけはきちんと主イエスに尋ねておきたいと思ったのです。
そこで主イエスはお答えになりました。

行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

これだけで終わってもよかったかもしれません。しかし主イエスは、最後にこう付け加えられました。「わたしにつまずかない人は幸いである」。なぜ、こういうこと言われたのでしょうか。ヨハネに対する警告の言葉であると読むこともできるかもしれません。わたしにつまずくな。

この「つまずく」という言葉は、一種の教会用語、あるいは業界用語と言ってもいいようなところがあると思います。教会の中でわりとよく使われる言葉だと思いますけれども、例えば広辞苑のような一般の国語辞典を引いても、教会でよく使われるような意味は載せられておりません。自分の信仰の歩みが妨げられた時に、「つまずく」と言います。神を信じて信仰者として歩いてきたけれども、思いがけないところでつまずいてしまう。倒れてしまう。いろんなつまずき方がありますけれども、時々聞かれる用例は、まず「教会につまずく」という言い方だと思います。教会というのは非常に温かくて良いところだと思っていたけれども、どうもこの鎌倉雪ノ下教会は違うようだ。けんかばかりしている、ひどいことを平気で言う人がいる。わたしは教会につまずいた、教会の交わりにつまずいた。この言葉をそのように用いることがあります。もうひとつこの言葉が用いられる代表的な用例は、「牧師につまずく」。川﨑先生は、最初の頃はいい先生が来たなと喜んでいたけれども、2年目ぐらいになってくると、だんだん気が緩んできたのか、思いがけずひどいことをする、ひどいことを言う。わたしは川﨑牧師につまずいた。信頼を裏切られた。そのような意味でこの言葉を使うことがあります。

しかしここでは、教会につまずくのでもなく、牧師につまずくのでもなく、「わたしにつまずかない人は幸いである」。主イエス・キリストにつまずくということが問題になっております。今私は「つまずく」という言葉を、「信頼を裏切られる」と言い換えて見せましたけれども、例えば、主イエスに信頼を裏切られる、神に裏切られる。皆さんはそういう経験をお持ちではないでしょうか。

「わたしにつまずかない人は幸いである」。マルティン・ルターという人は、この言葉を「わたしに腹を立てない人は幸いである」と訳しました。これは語学的には随分思い切った訳をしたと言うことができますが、しかし、その内容をよく捉えていると考えられたのでしょう、その後のドイツの聖書翻訳のひとつの伝統にさえなりました。「わたしに腹を立てない人は幸いである」。なるほどと思います。私どもが神につまずく、主イエス・キリストにつまずくという時に何をしているかというと、神に対して腹を立てる。神さまは一体何をしているのかと。そういう経験を皆さんはお持ちではないでしょうか。

この鎌倉雪ノ下教会にも何度かおいでになったことのあるスイスの神学者、また牧師でありましたルドルフ・ボーレン先生という方が、「わたしに腹を立てない人は幸いである」という翻訳に基づいてこの主イエスの言葉を説教しながら、こういうことを言っています。いや、むしろ主イエスは、「わたしを立腹させない人は幸いである。わたしを怒らせないように気をつけろ」と言う権利をお持ちであったはずだ。なるほど、確かにそうです。私どもが主イエスに対して腹を立てるとか、そういうことよりも何よりも、まず私どもが心配しなければならないことは、私どもが神の怒りを呼び起こさなければよいが、私どもがイエスさまを立腹させなければよいが、ということのはずです。そして実際に私どもは神に腹を立てさせてしまうような存在なのです。けれども(ボーレン先生の言葉をなぞるようにお話しさせていただきますが)、私どもが主のご立腹を呼び起こすような存在であるということは、しかし決して主のお心を煩わすようなことではなかったのだ。そのことにここで気づきます。主イエスという方は、心の広いお方です。むしろここで主イエスが心配なさっておられることは、私どもが主イエスに対して腹を立てることがあるのではないか。そんなことにならないように。「わたしにつまずかない人は幸いである」。わたしに腹を立てない人は幸いだ。これは考えてみれば、まことに不思議な神の御心であります。

今、私の心にかかっているひとつの集会は、連合長老会という教会の集まりが毎年行っている宣教協議会という集会です。今月の後半に1泊2日で私と落合牧師が神戸に出かけ、その集会に出席します。もっぱら牧師と長老のための集会なので、あまり皆さんの関心を呼び起こしてはいない集会だと思いますけれども、私は今年のその集会で礼拝の説教を担当します。一体どういう説教をするべきか、まだちょっと決めかねて悩んでいるようなところがあります。ただ、もちろん私が主役になるわけではなくて、東京神学大学の芳賀力教授を招いて講演を聞きます。今年の主題は、「神義論」というものです。今、「神義論」という私の言葉をお聞きになっただけで、どういう字を書くのかすぐにはお分かりにならなかったかもしれませんが、「神の義」と書いて神義論。古くから教会の神学の営みにおいて大切な主題とされてきました。なぜこういう主題が人びとの関心を集めてきたかというと、要するに、神さまが正しい方であられるならば、なぜこの世に悪が存在するのか、なぜこの世に不幸が存在するのか。神さまの正しさとは一体どういうことか。そのことを問い、そのような疑問に答えるのが神義論の目標です。

なぜこのような主題が選ばれたかというと、これはほとんど説明を要しません。2011年3月11日に大きな地震が起こった。信じられないほどの悲しみを引き起こした。そこで改めて、いわゆる神議論的な問いというものが呼び起こされたということは確かだと思います。神さまは一体何をしておられるのか。神などいるのか。皆さんも例えば新聞などでそういう論調の言葉を読んだことがおありになったかもしれません。私がその集会に備えながらひとつ懸念していることは、そのような問いが、机上の空論にならなければよいがということであります。

私はそのようなことを考えながら思い起こし、読み返しておりますのは、私がいつも購読している、『アレテイア』という説教黙想の雑誌があります。しばらく前の説教でも紹介いたしましたが、その特別増刊号が発行されて、「危機に聴くみ言葉――3月11日の後で教会は何を聴き、何を語るか」というタイトルがつけられている。その巻頭に、東北地方で実際に被災した牧師たちが6人集まって座談会をした記録が載っています。東京の牧師がそこに出かけて司会者をしています。少し個人的なことになりますけれども、その6人の牧師たちのうちのひとりに、私ども夫婦が子どもの頃に教会学校に通っていた時の先生が含まれておりました。宮﨑先生といいます。当時神学生として教会におられて、今は福島で牧師をしておられます。写真も載っていて、全然お変わりないなと思いましたけれども。

その座談会でもひとつ話題になったのは、神義論的な問いです。話題になったというか、東京から来た司会者がそういう話題を取り上げたわけですけれども、その司会者の先生が、「神が正しい方であるのなら、なぜ?」というような問い、神義論的な問いは生まれていますか、と尋ねたのです。一般のメディアでもそういう論調がある。神が正しい方であるのなら、どうして、という思いが皆さんの教会の中にありますか。

いろいろな牧師がいろいろなことを言いましたけども、例えばその福島の宮﨑牧師はこう答えました。「神はどこにいるのか、神さまは何をしておられるのか」というと、……どうもそういうのとはちょっと違う。3月13日、震災の2日後の日曜日、いつもの半分ぐらいの人たちが集まって来た。もちろん電気は使えない。それどころか原子力発電所の事故のことが気になって気になって仕方がない。よくいつもの半分も集まったと思います。そのようにして集まって来た人たちは、「神さまなんかいるのか」という顔はしていなかった。そんな人はいない。神について論じる余裕なんかなかった、と言い換えてもいいかもしれません。ただ神の言葉を聴きたい。他の誰の言葉もいらない。神の言葉をいただきたい。そういう教会の人たちの思いがひしひしと伝わってくるようだったと言います。

興味深く思いましたのは、その宮﨑牧師も、その頃ルカによる福音書の連続講解説教をしておられたそうです。その日もいつものようにルカによる福音書の言葉を読んだ。主イエス・キリストの言葉を聞いた。それが本当によかった。そう言います。いったいルカによる福音書のどの言葉を読んだのでしょうか。一応知り合いといえども、さすがに尋ねることなどできておりませんけれども、問題は私どもです。私どもも今ルカによる福音書を読み、主イエス・キリストの言葉を読んでおります。「わたしにつまずかない人は幸いである」。この言葉と併せて、私どもがどうしても読むべき主イエス・キリストの言葉があります。この第7章に先立つ第6章の20節以下の言葉であります。

「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。

貧しさの中で、悲しみの中で、飢え渇きの中で、そして何よりも洗礼者ヨハネにとって辛かったことは、汚名を着せられるとき……しかしそこで、「神よ、いつまでですか」と、神の胸ぐらをつかむようにして問うのです。洗礼者ヨハネがしたことは、そのようなことではなかったかと私は思います。他の誰に問うたのでもありません。主イエス・キリストよ、なぜわたしはここに捕えられているのですか。あなたを信じて本当によかったのですか。誰の答えもいりません。あなたの答えが必要なのです。

洗礼者ヨハネは、牢獄に捕えられております。マルコによる福音書の伝えるところによれば、ヘロデの誕生日の祝いの席で、いわば宴会の余興のような形で、ヨハネは首をはねられ、その一生を終えていきます。そのような自分の最期をどこかで予感しながら、自らの死を覚悟しながら、しかしそこで問うのです。「イエスよ、本当にあなたを信じてよいのですか」。非常に重い問いです。そのような重い問いを、誰に問うのでもありません。主イエスに問うのです。主イエスを信じているからです。そのようなヨハネの姿をご覧になりながら、主イエスは、ああ、ヨハネはつまずいているな、とはお思いにならなかったと思います。ヨハネよ、あなたはつまずいていないね。「わたしにつまずかない人は幸いである」。

その主イエスの祝福の言葉と響き合うように私どもの心に響いてくるのは、先ほどお読みました主イエスの祝福の言葉であります。「貧しい人々は、幸いである。今飢えている人々は、幸いである」。だからこそ主イエスは22節で、「貧しい人は福音を告げ知らされている」とおっしゃったのだと思います。ヨハネのことです。

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。ある人ははっきりと指摘しております。主イエスがこのようなみわざをなさったからといって、確かにそれは目覚ましいものがあったかもしれないけれども、それで洗礼者ヨハネが牢獄から救い出されたわけではない。その意味では、ヨハネはそれこそここで主イエスにつまずいてしまっても仕方がなかったと思います。そんなことを言ったって、自分はまだ牢獄にいるではないか。いつ殺されるか分からないではないか。確かにその通りです。そして私どもが忘れてはならないことは、そのようにお語りになった主イエスご自身もまた後に、ヨハネと同じように、人びとに捨てられるようにして、殺されたということです。このようなみわざをなさった主イエスは、あまりにも貧しい。貧しすぎる。だからこそつまずきなのです。この22節の言葉そのものがつまずきであると言ってもいいと思いますし、主イエスの存在そのものがその意味でつまずきなのだということができると思います。主イエスもまた、このような言葉を語られながら、これでは牢獄の中にいるヨハネもつまずいてしまうかもしれないなと思われたのでしょうか。なぜこういうことを主は言われたか。

ルカによる福音書第7章22節は、イザヤ書の引用であると言われます。第何章の何節、というようなことを明確に言うことができないのですけれども、たとえばイザヤ書第35章、あるいは第61章が典拠であると言われます。そのようにしてイザヤの預言を引用しながら、ある人はここで、「主イエスはヨハネに歌を教えたのだ」と言いました。先ほどそのイザヤ書の言葉を読みました。神が来られる時の喜びの歌です。主イエスは、神が来ておられる、その姿を教えるために、歌を歌ってそのことを教えてくださったのではないかと言うのです。

弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる」。

ヨハネの手も弱っていたかもしれません。その膝はよろめいていたかもしれません。その心もまたおののいていたかもしれません。しかし主イエスが明確に告げてくださる。「よろめく膝を強くせよ」。心おののくあなたに、わたしは言う。だいじょうぶ。神は来て、必ずあなたを救う。わたしは必ずあなたのところに行く。「来るべき方はあなたなのですか」。そうだ、わたしを待ち続けていればよい。わたしは必ず来る。

この「来るべき方」と訳されております言葉は、のちの教会の歴史において、むしろ主イエスが再び来てくださる、再臨の主イエスを呼ぶ言葉として大切にされてきたものであります。「来るべき方はあなたなのですか」。そのことを教会は問い続けながら、他の誰でもない主イエスご自身に問い続けながら、その歩みを作ってまいりました。今も私どもは、主イエスを待ちながら、礼拝をしているのです。

昨日、『日々の聖句 ローズンゲン』という聖書日課において、このような聖書の言葉を与えられました。マルコによる福音書第13章の27節、主イエスの言葉であります。

人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。

私の大好きな聖書の言葉のひとつです。昨日の朝にも、事務室で主事の方たちと共にこの聖書の言葉を読んで祈りをし、そして夕食の時にも夫婦でこの言葉を読み、深い慰めを与えられました。皆さんはこの主イエスのお言葉を心に刻んでおられるでしょうか。私が折に触れ思い起こす言葉です。主イエスは、このマルコによる福音書第13章において、「わたしは必ずあなたがたのところに戻ってくる」ということを丁寧に語られながら、こう言われたのです。わたしが再び来るとき、天使たちを遣わして、地の果てから天の果てまで天使が飛び回って、あなたがたを迎えに行くと言われました。素晴らしいイメージではないでしょうか。主イエスが再びこの地上に来てくださるという時に、しかし、地球上のどこに来られるのだろうか。地球上の反対側に来られてもわれわれは気づかないではないか、などと心配する必要はありません。主イエスは天使たちを遣わし、地の果てから天の果てに至るまで飛び回って、わたしのところにも天使が迎えに来てくれる。わたしをその時主イエスのところまで連れて行ってくれる天使はどのような姿をしているのであろうかと想像するだけで、楽しい気分になると思います。「地の果てから天の果てまで」、例えば牢獄に繋がれているような人のところにまで、天使が来てくれて、弱った手に力を込めさせてくれます。よろめく膝を強くしてくれます。心おののく者を、しかし、天使が主イエスのもとに連れて行ってくれます。そのような幻をもヨハネは今ここで見せていただいたのではないでしょうか。牢獄の中で死を覚悟しつつ、しかし胸躍らせるような思いで、この言葉を聞いたのではないかと私は思います。主イエスがもう一度来てくださる日を待ち続けるこの教会の歩みの上に、今改めて主イエス・キリストの祝福を祈ります。お祈りをいたします。

膝がよろめきそうになる時に、その手に力も入らないような時に、しかしそれだけに、ますます熱心に、ただあなただけを待ち続けたいと願います。主イエスよ、どうぞ早く来て、私どもをお救いください。この地上でどのような苦しみが支配しているか、十字架につけられたあなたはよくご存知であると思います。どうぞあなたの正しさが支配することをひたすらに待ち続け、祈り続ける教会の歩みをここに作らせてください。全世界の教会の上に、今改めてあなたのみ言葉の支えを祈ります。主の御名によって祈り願います。アーメン。