神にしかできないこと
ローマの信徒への手紙 第8章1-11節
川崎 公平

主日礼拝
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです(1、2節)。
非常に力強い聖書の言葉です。あまりにも力強過ぎて、もしかするとここは、皆さんの感想が分かれるところかもしれません。「よくわかる。深く慰められる」という人と、「なんだか難しくてよくわからない」という人と、あるいは逆に、「いかにも堂々としたことが書いてあるけれども、うーん、本当かなあ」と、否定的な感想を持つ人だっているだろうと思います。
しかしいずれにしても、この手紙を書いたパウロという伝道者は、特にこの言葉には強い思いを込めただろうと思います。先週の礼拝でお話ししたこととも重なりますが、ローマの信徒への手紙、伝道者パウロの書いた最も大きな手紙、そして最後の手紙とも言われます。だからでしょうか、微に入り細を穿ち、水も漏らさぬような緻密な言葉を重ねてきたけれども、「結局わたしが言いたいことは、この一句に尽きるのだ」。「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。ここで「あなたを」と言っていることも興味深いことです。これまた先週の礼拝でも触れたことですが、パウロがこの手紙で「あなた」という表現を使うことは稀なのです。ここで、もしかしたら、ちょっとした感情の高揚があったのかもしれません。「あなたの話ですよ」。「顔を上げて聞いてください」。「神が、あなたを、解放してくださったのです」。
キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
そう言われて、「うん、よくわかる」という人と、「よくわからない」という人と、あるいは、「うーん、本当かなあ」と首をかしげる人とがいるかもしれません。
少し大げさな言い方をすれば、この一句がわかったら、ローマの信徒への手紙の前半部分は全部理解できたことになる。そのくらいの深みを持つ言葉ではないかと思います。
■「なんだか難しくてよくわからない」という感想を呼び起こすひとつの理由・原因は、ここに「法則」という言葉が出てくることだと思います。「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。この法則っていったい何だ。ちょうど1か月前、2月22日の礼拝でも「法則」という言葉について触れました。何と言っても決定的な意味を持つのは、第7章21節だと思います。
それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
今朝はなんだかずっと、最近の説教のくり返しのようで恐縮ですが……原文には「法則を発見した」と書いてあります。りんごは木から落ちる。それである物理学者が万有引力の法則を発見したという有名な話がありますが、それと同じように、パウロは自分自身の生活を観察しながら、ひとつの法則を発見した。「善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則」です。「何か善いことをしようとすると、必ず悪いことをしてしまう」。法則ですから、私どもの意志とか努力とか関係なく、必ずそういう結果になる。これは、かなり絶望的な法則です。
そこでもうひとつ思い起こすのは、ハイデルベルク信仰問答という、私もここでよく紹介する信仰の書物です。その5番目の問答に、「わたしは生まれつき、神と隣人とを憎むように傾いている」(私訳)という言葉があります。「傾いている」と言うのですが、同じ言葉が問8にも出て来て、「私たちは、ひどく腐敗してしまっているために、善いことについてはまったく無力で、あらゆる悪に向かって傾いている」と、そこまで言うのです。
これはずいぶん極端な表現のようにも思えるかもしれません。しかし「傾いている」と言われると、生活の実感としてよくわかるような気もするのです。平らな地面の上に立って、「善い方向にも悪い方向にも進むことができる。さあ、どちらを選ぼうか」。私どもは、決してそんな場所には生きていないのです。そうではなくて、絶望的に傾いた坂の上に立ちながら、いやむしろ立っていることもできずに、一所懸命善いことをしようとしても、ずるずると憎しみに向かって落ちて行く。存在そのものが傾いてしまっていると言うのです。
ところが、ここでパウロが言うことは、「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したのだ」。神の霊の圧倒的な力が、あなたを罪と死から解放してくださったので、もうあなたは罪の引力の及ぶところにはいないんだ!
……と、そのように、今私は2節の言葉をできるだけわかりやすく説明してみせたつもりなのですが、もしかしたら、かえってわかりにくくなってしまったかもしれません。「そんなたいそうなことを言われても……うーん、本当かなあ。どうも自分の生活の実感としてよくわからない。だいたい、霊の法則って何だ」。そのあたりが正直な感想ではないかと思います。
■私どもは、日曜日の朝になるとこのように礼拝をし、神の前に立ちます。そのたびに私は思うのですが――ことに聖書朗読のあとの牧師の祈りのたびに思うのですが――日曜日の礼拝の時間以上に、自分の罪のみじめさを深く知る時はないのではないでしょうか。「わたしは生まれつき、神と隣人とを憎むように傾いている」。心が傾いている。存在そのものが傾いている。そのことを、教会に来るからこそ知るのです。神さまの前に立ちつつ、だからこそ、自分のみじめさが身に染みるのです。だからこそパウロもまた既に第7章24節で、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と叫ぶように書いたのです。「何か善いことをしようとすると、必ず悪いことをしてしまう」。そういう法則があることを、日曜日の朝、特に深く思わされるのです。
主イエス・キリストは、神のみ旨は、神を愛すること、隣人を自分のように愛すること、このふたつの戒めにすべてがかかっていると言われました。それ以上、何もややこしいことは考えなくていい、あなたのすべきことは、神を愛すること、そしてあなたの隣人をあなた自身のように愛することだ。それはあまりにも単純で、かえって私どもをうろたえさせます。その単純なことを、いろいろ理由をつけて、やりたがらないのです。「ここまでやる必要はない」。「この人はそこまで愛さなくていい」。最近の柳沼先生の説教の中に、このふたつの戒めの前に立たされて、自分を正当化しようとした律法の専門家が、「えーと、じゃあ、わたしの隣人とは誰のことですか」と言い逃れをした、という話がありましたが、日曜日の朝、神の前に立ちますと、そんなことがひとつひとつ思い出されるのです。「わたしの隣人とは誰のことですか」というのはつまり、「愛さなくてもいい人だって、いますよね?」
礼拝以外の時間には、あまり気にならなかったことかもしれません。それがしかし、神の前に立つと、つらくなってくるのです。「わたしは生まれつき、神と隣人とを憎むように傾いている」と言われると、「いや、いくら何でも、そこまで言わなくたって」と思いながらも、「でもやっぱり、そうかもしれない」。
むしろこう言ってもよいと思うのです。世の中のいったい誰が、神の律法について悩んでみじめになるでしょうか。神の戒めに従えないと言って、いったいこの世界の誰がみじめさを感じるでしょうか。むしろ世の中に溢れているのは、「俺が正義だ。何をして、何をしないかは、俺が決める。誰にも文句は言わせない」と、自分の正義を確信する言葉ばかりではないでしょうか。ところが日曜日の朝、そんな私どもが神の前に立たされて、「わたしがあなたを救ったんだ」と言われると、急に話が変わるのです。……「神さま、本当ですか?」
日曜日の朝、神の前に立って、私どもは自分の罪を知ります。神に対して、隣人に対して、自分の心がどのように傾いていたか。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」。神の前に立つ人間だけが、そのように叫ぶのです。そしてまた、だからこそ、神の前に立ち、神の声を聴くのです。「わたしがあなたを救ったんだよ。わたしが、あなたを罪と死の法則から解き放ったんだよ」。「神さま、本当ですか」。それが、日曜日の礼拝で起こる出来事であります。
■私どもを罪と死の法則から解き放ったのは、「命の霊の法則」だと言われます。先ほど、この「法則」という言葉を説明するために、万有引力の法則などと申しましたが、もしかすると、その説明が逆に皆さんをミスリードしてしまったかもしれません。なぜかと言うと、万有引力の法則の背後には、誰の心もないのです。あ、りんごが木から落ちた。猿も木から落ちた。それは、きっとそういう法則があるんだろうという、ただそれだけの話です。けれどもパウロがここで「霊の法則」と言ったとき、それは〈神の心〉のことでしかありません。神の心は、神の愛です。「神の愛が、あなたを解放したのだ」。その神の心に触れるための礼拝を、私どもは今ここでしているのです。
そのために、私どもは礼拝において、何よりもみ言葉を聴きます。神の霊とか命の霊の法則とか言われても、なんだか雲をつかむような話だと思われる方もあるかもしれませんが、それは霊という言葉についての誤解でしかありません。神の霊が働く最も大切な場面は、み言葉を聴くということです。神の霊が働くとき、聖書がわかるようになります。神の霊が働くからこそ、神の心がわかるようになるのです。それが神の霊の働きの、最も中心的なところです。ですから、これはあまり長い話をすることができませんが、それこそハイデルベルク信仰問答を読んでおりますと、あちこちに「み霊とみ言葉によって」と、まるで口癖のように書いてあることに気づきます。
先ほど柳沼大輝牧師の就任式をいたしました。よく神さまは、こんなにも弱さを知る伝道者を、そしてまたこんなにも力のある伝道者を引っ張り上げてきてくださったと思いますが、しかし牧師就任式というのは、ただ柳沼先生個人にとってのおめでたい出来事というのではありません。教会が、牧師を迎える。それは言い換えれば、「神さま、わたしたちは、この人からあなたの言葉を聴きます。あなたのみ霊とみ言葉とによって、わたしたちは生きるのです」と約束することです。そして事実、私どもは、礼拝のたびに自分の罪を知りつつ、しかもそんな自分が神の霊によって新しく生かされる経験をしているはずなのです。
■今日は柳沼牧師の就任式の日ですから、説教の中でこういう話をすることも許されると思うのですが、3月1日、柳沼牧師に初めて聖餐礼拝の司式・説教をしていただきました。その説教の要旨が、先週発行された雪ノ下通信3月号に載っています。3月4日に行われたみのりの会という集会でもこの説教を読み、分かち合い、本当によい説教者がこの教会に与えられたことを共に喜んだことでした。
その3月1日の礼拝で、柳沼先生はルカによる福音書第10章の〈憐れみ深いサマリア人の譬え〉を説教されました。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剥ぎに襲われて半殺しにされて、道端に倒れていたところに、祭司が通りかかった。レビ人が通りかかった。けれども見て見ぬふりして通り過ぎた。痛いくらいに、よくわかるのです。まるで自分の姿が鏡に映されているようです。ところがそこに、いちばん助ける義理なんかないと思われる外国人が現れ、倒れている人を見て憐れに思い、手を差し伸べたという話です。
その上で、主イエスはお尋ねになりました。私どもにもお尋ねになりました。「誰が、この追い剥ぎに襲われた人の隣人になったか」。答えはわかりきっています。わかりきっているからこそ、途方に暮れるのです。それこそ日曜日の朝の礼拝の時にこそ、神の前で静かに思い起こすことは、われわれがどんなにたくさんの人の傍らを通り過ぎてしまったか。いくらでも隣人を愛する機会はあったのに、それをどんなに怠けてきたか、ということなのです。
そこで気づきます。神の霊が気づかせてくださいます。具体的には、柳沼先生の説教が気づかせてくれました。そのように愛に挫折しているわれわれ自身が、まさしく道端に倒れている旅人ではなかったか。誰かに傷つけられたり、あるいは誰かを傷つけてしまったり……そんなわたしのために、自分が損をしてまでわたしの隣人になってくださったのは、十字架につけられた主イエス・キリストだ。柳沼先生の説教をそのまま引用します。
そこに癒しが起こるのです。主が私たちの傷に塗ってくださる、オリーブ油、ぶどう酒、それは十字架の血潮。その御手で巻いてくださる包帯は罪の赦しの宣言です。包帯をぐるぐると巻いていくように主は繰り返し、語りかけてくださる。「お前の罪は赦された」。
そのように語っていく3月1日の柳沼先生の説教の中で、最も深く私の心に残ったのは、そのあとの、本当に最後の言葉です。「主イエスに愛された者として、赦された者として、癒された者として、わたしたちは変えられる。神がわたしたちを新しく変えてくださるのだ」。説教を聴きながら、この牧師には本当に確信があるんだな、と感じました。神は、私を新しくしてくださる。私を変えてくださる。神には、それがおできになるのだ。礼拝をしながら、「み言葉を聴いた」と思いました。「神の霊が、わたしの心に触れてくださった」と思いました。「生まれつき、神と隣人とを憎むように傾いている」、そんな私どもですが、だからこそ、主イエスに触れていただかなければなりません。癒やしていただかなければなりません。そして主は、必ず私どもを癒やしてくださる。新しくしてくださる。その確信を、パウロもまたこのように語るのです。「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
■かくして、間を一気に飛ばすことになりますが、9節ではこう言うのです。
しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
ここはしかし、少し注を付けなければならないと思います。「神の霊があなたがたの内に宿っているなら」と、いわゆる条件文の形をしていますが、しかしこれは決して条件付きの話ではありません。「神の霊があなたがたの内に宿っているか、いないか、それはわからないけれども、もし宿っていると仮定するならば」というような頼りない話ではないのです。私なりに9節をなるべく原文通りに訳し直してみると、こんな感じの文章です。
しかしあなたがたこそは、肉の中ではなく、霊の中にいるのです。神の霊が、あなたがたの内に住んでいてくださるのですから。
ギリシア語の原文を読むと、まず9節の冒頭が非常に堂々たる宣言であることがよくわかります。「しかし、あなたがたは、肉の中にはいない。あなたがたは、霊の中にいるのだ」。そのあとに、文法の言葉で言えばいわゆる条件節が続くのですが、これは仮定の条件ではなく、むしろ事実を前提とした条件文です。「神の霊が、事実、あなたがたの内に住んでいてくださるのだから」、その事実に基づいて、必ずこう言わなければならない。
少し詳しく文法の話をしましたが、実は10節も11節も、同じような文章が続きます。10節でも「キリストがあなたがたの内におられるならば」と言うのですが、これもキリストがいてくださるかわからないけど、仮にいると仮定するならば、ということではなくて、「事実として、キリストはあなたがたの内におられるのだから」、だから、「体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。11節も同じです。「事実として、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているだから」、だから、「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるに違いない」。
罪のために死んでいた、この体です。けれども、この私の体、この死の体に、神の霊が住んでいてくださる。命の霊がわたしの内に住んでいてくださる。そのみ霊の語りかけを聴くための礼拝です。「わたしが、あなたを解放したのだ」。この恵みの言葉を聴くために、私どもの教会はまた新しくひとりの牧師を迎えたのです。
■それにしても最後にもうひとつ、10節の後半の言葉はさすがにわかりにくかったかもしれません。「体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」とあります。罪を犯した罰として、体はやがて滅びて、遂には死ななければならない、ということではありません。しかし肉体は滅びても、われわれの霊魂は不滅だ、という話ではないのです。
まず「体は罪によって死んでいても」というのですが、いつかは死ぬ、ということではなくて、現に死んでいる、ということです。場合によっては「死体、死骸」を意味する言葉が用いられています。わたしの体は、罪によって既に死骸になっている。何度も同じことを申しますが、そのことを私どもは、礼拝のときにこそ知るのです。日曜日の朝、神の前に静かに座りながら、一週間を振り返って、「ああ、わたしは死んでいたんだ。あんなことをしたり、あんなことを言ったり、ああいうところで何もしなかったり。わたしの体は、罪によって死骸になっている」。神の前で、み言葉の前で、そのことを知るのです。
だがしかし、そのような現実の中で、さらに確かな現実を知ります。「体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」。その場合の「霊」とは、私どもの魂のことではありません。神の霊が、わたしの死の体に住んでくださり、神の霊がわたしの命、そのものとなってくださる。そこに神の義が現されるのです。
そのために、もう一度申します。私どもは、主の日のたびに、礼拝をします。み言葉を聴きます。説教者の口を通して、神の霊の語られる言葉を聴くのです。
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
罪と死の力に捕らえられていた私どもが、神の力によって自由にされました。「わたしは、生きているのだ。神の霊の中で」。この確信に立ち続ける礼拝の生活を、新しい牧師と共に、さらに新しく造らせていただきたいと心から願います。お祈りをいたします。
罪によって死んだ私どもの体を、あなたの霊が生かしてくださいます。死から命に向かって、私どもを解放してくださいます。あなたの霊が私どもの内に住んでいてくださるのですから、望みをもってこの体をあなたに献げ、罪と戦い続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン









