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神の無償の贈り物

2026年1月18日

ローマの信徒への手紙 第6章15-23節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■ローマの信徒への手紙第6章の15節以下を読むのは、今日で2回目になります。新年最初の主の日の礼拝と、今朝とそして来週まで、3回の礼拝で同じ箇所を学びたいと考えています。今朝、特に集中して読みたいと思いますのは23節の言葉です。

罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。

どうでしょうか。そんなにすっと心に入って来る言葉ではないかもしれません。しかしまたそれだけに、噛めば噛むほど味わいが広がって来るような、特別な深みを持った言葉だと思います。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです」。今新しく、この言葉を心に刻んで新しく出発したい。私は、そう思わされています。

■まずひとつ言われることは、「罪の支払う報酬は死です」。これがまずわかりにくい、という印象があるかもしれません。何となくわかったような気になるかもしれませんが、よく考えてみると、何だか全然わからない。そういう印象があるのではないかと思います。

ここで興味深いと思うひとつのことは、罪はわれわれに報酬を支払ってくれると言われるのです。「よくやってくれた。よく働いてくれた。お前には、これだけの報酬をやろう」。その報酬は、一見とてもおいしい報酬なのです。だからわれわれは、罪に誘われるのです。ところがその報酬の実体は死でしかない。

そこで何度でも注を付けなければならないと思うことは、この場合の「罪」というのは、あれやこれやの悪いことをすることではありません。もっと大きな存在です。もっと人格的な存在だと言ってもよい。私どもに働きかけ、私ども誘惑し、引きずりまわす、そういう〈罪〉という存在があるのだ。それを〈悪魔〉と言い換えてもそんなに間違ってはいないと思いますが、しかしここはやはり「罪」と呼んだほうがいいでしょう。そういう〈罪の力〉のひとつの特質は、われわれに報酬を支払ってくれるということである。罪が報酬を支払うって、いったいどういうことだろう。そのことについては、またあとで触れます。

■もっと大切なのは、そのあとの部分です。「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです」。この文章は、一見すると少しバランスが取れていないと読むこともできるかもしれません。「罪の支払う報酬は死です」。「ところが神さまは、もっとすばらしい報酬をくださる、それが永遠の命だ」と言ってもよかったかもしれませんが、そうは言わないのです。神さまは決して、われわれに報酬を支払うようなことはなさらない。神が私どもにくださるのは、報酬ではなくて「賜物」だと言われます。

この「賜物」と訳されている言葉は、原文のギリシア語では興味深い言葉で、そのまま発音すると「カリスマ」という言葉です。日本語でカリスマなんて言うと、妙な意味を持つようになってしまいましたが、聖書における大切な言葉です。カリスマから「マ」を取ると「カリス」、「恵み」という言葉になります。恵みというのはつまり、ただで与えられる。働きに対する報酬ではなくて、何の条件もなく、何の働きもなく、ただでくださる。

今日の説教の題を、「神の無償の贈り物」としました。カリスマというギリシア語を、私なりに翻訳し直してみたつもりです。なぜ「報酬」ではなくて「無償の贈り物」なのでしょうか。なぜ、ただでくださるのでしょうか。贈り物というのは、あげたいからあげるのです。「わたしは、あなたにあげたいものがあるんだ。どうしてもあなたに受け取ってほしいものがあるんだ。それは永遠の命。どうか、受け取ってほしい」。報酬じゃないんです。あげたいから、あげるんです。それが無償の贈り物です。それが永遠の命です。

おかしな話をするようですが、昨日私は、説教の準備もろくにできていないくせに、朝から晩まで東京の実家に出かけていました。私の父も母も、既に平均寿命よりも早めに死んでしまったのですが、父のいちばん上の姉が100歳になったということで、お祝いをしてきたのです。父の姉ですから、私からしたら伯母ですね。100歳に比べればまだ若い96歳の伯父も、93歳の伯母も、91歳の伯母も、ふつうに一人前のお弁当を平らげていて、何だか私の両親の分まで長生きしてくれているようでした。その伯母・伯父たちの背後には私の両親の遺影が飾ってあって……思えば父からも母からも、そして100歳になる伯母からも、小さい頃から本当にたくさんのものをもらったな。報酬をもらったことは、一度もなかったな。無償の贈り物だけを、この人たちからもらったんだな。

あげたいから、あげるんです。もっと言えば、愛しているから、あげるんです。それが「賜物」です。それが「無償の贈り物」です。

もちろんその伯父伯母たちも、神が私に与えてくださるものを与えることはできない。信仰の家庭に育った伯父伯母たちですから、そんなことは皆よくわかっている。いちばんいいものをくださるのは、神さまだけです。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです」。あなたには、どうしてもこれをあげたいんだ。

このような神の思いを、きちんと受け取ることができたら、今朝はもうそれだけで説教を終えてしまってもよいと思っているくらいです。神は、私どもに報酬をあげたいと思われたことは一度もない。神が私どもにくださるのは、恵みの賜物です。無償の贈り物です。わたしは、あなたにあげたいから、これをあげるんだ。

■主の日の礼拝において、ローマの信徒への手紙をただ順番に読み続けているわけですが、そういう生活の中で、本当にいろんなことが起こります。先週一週間の間だけ取り出しても、いろんな人のことを考えながら、主の日の礼拝に備えます。今朝の週報に、私よりも若い年齢の教会の仲間の訃報を載せなければなりませんでした。そして週報への記載が間に合いませんでしたが、その人と同じ年齢の娘の葬りをしなければならなかった教会の仲間がいます。妻を亡くしたばかりの教会の仲間がいます。夫の最期が近いことを覚悟している仲間がいます。そんなひとりひとりのために注ぎ出される神の思いが込められた言葉だと思うのです。「しかし、神の賜物は――神がどうしてもあなたがたにあげたいと願っているものは――私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです」。何度でも繰り返します。神は、私どもにあげたいものを、くださるのです。「どうか、受け取ってほしい。イエス・キリストにある永遠の命を。あなたにいちばん必要なものだと思うから」。それは絶対に、「報酬」と呼ぶわけにはいかないのです。

■この神の思いがわかったら、もうそれで説教を終えてもいいと申しましたが、しかしそれだけではすまない、つまりこれだけで説教を終えるわけにはいかないのは、なぜかと言うと、その「神の無償の贈り物」を、容易に受け取ろうとはしない、私どもの曲がった心があるからです。それを聖書は「罪」と呼びます。「罪の支払う報酬は死です」と言われるのですが、ところが、私どもはそれでも罪の報酬が欲しいのです。なぜでしょうか。いったい、罪とは何でしょうか。これがいつまでたっても、なかなかわからないのです。

私が毎月担当している、みのりの会という集会があります。毎月、第1日曜日の次の水曜日、という妙な日程で集まっているのですが(その結果、その月の第1水曜日になったり第2水曜日になったりするのですが)、なぜそんな決まりになっているかというと、私の第1日曜日の説教をもう一度聴き直し、分かち合うということをしているからです。このみのりの会の集会で、特に1年前から、ローマの信徒への手紙を読み始めて以来、ほとんど毎回議論になっているのではないかと思うほどに話題に上ることが、「罪とは何か」ということです。これがどうしてもわかりにくい。先々週の集会でもそのことが話題になりました。

旧約聖書のほとんど最初のところ、創世記第3章に、アダムとエバと呼ばれる最初の人間、最初の夫婦が、最初の罪を犯した話が出てきます。先月の礼拝でも一度、創世記第3章の話をしました。人間の根本的な罪、原罪とも呼ばれる人間のいちばん深いところにある罪深い本質が、ここに教えられている。そのことを、知識としては知っている人が少なくないと思います。ところが、それが本当のところでわかっているか、骨身に染みてわかっているか、そのあたりがどうも心もとないという人も少なくないと思うのです。なぜかと言うと、この話自体がとてもわかりにくいのです。アダムとエバが、食べてはいけないと命じられていた木の実を食べた。それが、人間の根本的な罪だ。え、どうして? そしてもっとわかりにくいことは、その木は「善悪の知識の木」と呼ばれる。その木の実を食べると、神のように善悪を知ることができるようになるというのですが、それだけは、絶対に食べちゃだめだ。え、何で? どうして? 神のように善悪を知るって、結構大事なことじゃないですか?

いかにも古代の人が考えそうなおとぎ話だと言えば、それだけのことかもしれません。しかし、おとぎ話として片づけることのできない深みを持っている話だと思います。事実として人間は、あの善悪の知識の実を食べて以来、自分で善悪を判断するようになりました。ただし、その善悪の判断は、神を抜きにした善悪の判断でしかありません。それが実は、蛇の誘惑だということに、私どもは気づいているでしょうか。

最初から申しておりますように、罪は人間に報酬をくれるのです。だから、人間は罪を犯したくなるのです。罪がくれる報酬とは何でしょうか。その典型が、あの蛇の言葉ではないでしょうか。「ええ? あんなおいしそうな木の実を食べちゃだめだなんて、それは神さまがおかしいですよ、絶対。あの木の実を食べたらね、あなたは善悪の判断ができるようになるんですよ。神の言いなりになるなんて、くだらないですよ。あなたが善悪の判断をすればいいんですよ。あなたが、神になればいいんですよ」。そして事実、そのように私どもは生きているのです。「俺が正しい」。「いいや、俺が正しい」。世界中の人が善悪を判断しています。それぞれの国が、それぞれに善悪の判断をしています。「俺が正しいんだよ」、「いいや、俺が正しいんだって」、という言い争いを辛抱強く続ければ、結構な報酬を得られるんです。その報酬とは、お金であったり、手柄であったり、何だかよくわからない国益であったり、単なる自己満足であったりするのですが、「その報酬は死である」と言われると、何だか、わかるのです。蛇の誘惑に負けた人間が、善悪の知識の実を食べて、まさにその結果として、この世界は死に向かっている、滅びに向かっていると言われると、何だか、とても、よくわかるのです。

「罪の支払う報酬は死です」。しかし! しかし、神はあなたにどうしても永遠の命をあげたいんだ。あなたは、滅びてはいけないんだ。それなのに、人間は罪の奴隷になりたいのです。アダム以来、今に至るまで、そうなのです。

■先週、明治学院大学という学校の礼拝で説教をさせていただきました。大学生が、きちんと数えたわけではありませんが、50人くらいは大学の礼拝堂に来てくれたでしょうか。マタイによる福音書第6章の主イエス・キリストの言葉を読みました。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、明日のことまで思い煩うな」という聖書の言葉を説教したのですが、すばらしい言葉だなあ、と思う一方で、でもやっぱり難しいよな、と思うのです。大学生だっていろんな思い煩いがあります。一所懸命勉強して大学に入って、でも実はもっとたいへんなのは、就職活動をして、それこそ何を食べようか、何を飲もうかと、明日のこと、あさってのこと、来年のこと、再来年のこと、自分のこれからの人生のことを、何となく思い煩い始めている学生さんたちに、「あなたがたは何を思い煩っているんですか? 空の鳥を見てごらんなさいよ、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。でも神さまは、鳥さんたちを愛してくださるんですよ」とか、そんなこと言われたって困る、と学生さんたちも幾分冷めた気持ちで私の説教を聴いていたかもしれません。

もちろん勉強も大事です。就職活動も大事です。苦労しなくていい人生なんかありません。けれども、その苦労だらけの人生の中で、「わたしはひとりで生きていくんだ」と考えるのか、「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです」という、神の思いを知って生きるのか。「わたしはね、あなたに永遠の命を与えたいんだよ。わたしがあげたいから、あなたにあげるんだ。永遠の命を」。その神の思いを知っていたら、今日一日の苦労を担う、その担い方だって変わってくるだろうと思うのです。

■永遠の命とは、ただ不老不死になるということではありません。100歳まで生きたって、110歳まで生きたって、40歳で死んだって、それは神の無償の贈り物とは何の関係もありません。永遠の命とは、神の愛の中に生きるということです。「わたしは、あなたに、永遠の命をあげたいんだ」と言われる、神の愛の中に生きるということです。この神の愛の中で、私どもは今既に、永遠の命を生き始めているのです。

その対極にあるのが、罪の奴隷になって生きることです。今朝の礼拝の準備をしながら、改めて強烈だなと思わされたのは、20節のみ言葉です。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」。罪の奴隷になると、神の愛が聞こえなくなります。自分は自由だ、自分のことは自分で判断するんだ、俺は善悪の知識を知っているんだと言いながら、その自分自身が罪人なのですから、結局そのようにして罪の奴隷になっているのです。それをパウロはここで、「義に対しては自由の身だ」と言います。強烈な皮肉です。「あなたは自由の身だね。神さまから離れて、自由になったんだね」。その結果、何を食べようか、何を着ようかと明日のことまで思い煩って……けれども、もう一度よく考えてほしい。

罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。

空の鳥を養い、野の花を美しく装ってくださるあなたがたの天の父は、あなたがたにいちばんいいものをあげたいんだ。いちばん大事な命を、あなたにあげたいんだ。その神の思いを知ることができたら、ほかに何もいらなくなるのです。平安の中に生きることができるし、平安の内に死ぬことができる。それを聖書は、永遠の命と呼ぶのです。お祈りをいたします。

 

神さま、あなたからいちばんいいものをいただいて、ここに生かされています。私どもに命をくださるのは、ただあなただけなのですから、あなたの愛の中から出ることのないように、どうか私どもを誘惑に遭わせず、悪い者から救い出してください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

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