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喜びのために召された者

2025年1月5日

ローマの信徒への手紙 第1章1-7節
川崎 公平

主日礼拝

 

■新しい年を迎えて、今日からしばらく、伝道者パウロの書いたローマの信徒への手紙を読みつつ、礼拝をしたいと思います。読み終わるのに、何年かかるでしょうか。まだ何の見通しも立てておりません。昨年12月まで読み続けたマルコによる福音書は、全16章を読み終えるのに2年4か月かかりました。ローマの信徒への手紙も章の数は同じ16章ですが、もう少し長くかかるかもしれません。それだけの豊かな内容を持つ手紙であると思うからです。

新約聖書に収められている手紙の半分以上はパウロの書いたものです。その中でローマの信徒への手紙は、おそらくパウロの書いた最後の手紙であると言われます。なぜパウロは最後にこの手紙を書いたか。そのことについて、こういう説明を試みる人もいます。パウロは既に20年以上伝道者として生きてきて、ようやく自分に委ねられた福音の全体像を、秩序立てて説明する準備が整った。その機が熟した。それで、教会の教えを漏れなく、厳密に、周到に語るべく、この手紙を書いたのだというのです。確かにそういう印象を与える手紙であるかもしれません。しばらく前に雪ノ下通信の牧師室だよりにも書いたことですが、ハイデルベルク信仰問答という古典的な信仰の書物は、ロマ書を模範にして構成されていると言われます。しかしまた他方から言えば、パウロは別に信仰の教科書を書こうと思ったわけではありません。あくまで、ひとりの伝道者が、ひとつの教会に宛てて書いた手紙であります。しかも別に、「これが最後の手紙だから」という特別な思い入れを込めたわけでもないと思います。主が許してくださるならば、これからもいくらでも多くの教会に手紙を書く準備があったに違いありません。

ローマの教会に宛てて書いた手紙です。今日は最初の部分、第1章の7節までを読みましたが、そのあとの8節以下を読めばすぐにわかることは、まだパウロはローマの教会に行ったことがないということです。ローマの教会の人たちと、まだ直接会ったことはない。そのような手紙の最初に書かなければならないことは、まず相手の教会に対する挨拶であり、またそれ以上に大事なことは、自分自身の名前と立場です。「自分はこういう者です。こういう名前で、こういう立場の人間です」。それが、今日読んだ第1章の1節から7節までです。ついでにこれからの予定を申し上げますが、少なくとも1月いっぱいは、この7節までの部分を読みたい。2月にはいくら何でもその先に進みたいと思いますが、保証の限りではありません。今朝は特に、最初の1節に集中したいと思います。

■キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロから――(1節)

原文のギリシア語で最初のところを読むと、「パウロ、奴隷、キリスト・イエスの」。そう書き始めます。パウロはこの最初の4つの単語を書いたとき、言いようのない感動に心打たれたのではないかと思います。深い感謝と、喜びと、あるいはまた悔い改めを込めて、「パウロ、奴隷、キリスト・イエスの」。自分は、こういう人間である。最初に名乗るべきわたしの立場は、キリストの奴隷である。そう書いたときに既に、自分に与えられた福音のすべてを体いっぱいで受け止めるような思いに誘われたのではないかと思います。どんなに誇らしい思いで、自分のことをこのように名乗ることができたかと思うのです。

伝道者パウロにとって、生涯忘れることができなかったことは、自分がかつて神の教会を迫害したということです。使徒言行録第9章の最初のところに、その経緯が印象深く伝えられます。「さて、サウロ(パウロ)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで」、ダマスコという町に向かいました。ところがその途上で、突然天からの光に打たれて、それで結局どうなったかというと、「キリストの奴隷となり、使徒として召され、神の福音のために選び出された」と、そう言うのです。

ここに「召された」と書いてあります。この言葉は、1節だけではなくて、6節にも7節にも繰り返されます。「あなたがたも異邦人の中にあって、召されてイエス・キリストのものとなったのです。――ローマにいる、神に愛され、聖なる者として召されたすべての人たちへ」。自分ひとりだけが神に召されたわけではない、教会に生きる者は、等しく「召されてイエス・キリストのものとなったのです」。パウロにとって、この「召された」という事実がすべてを決定付ける力になりました。「召された」ということによって、すべてが新しくなりました。繰り返しますが、これはいわゆる伝道者だけの話ではありません。教会に生きる者は、皆等しく神に召された者。神を信じたいと願う人は誰でも、この「召される」という言葉の力を知らなければなりません。

「召される」という日本語は、あまり日常的な言葉ではありませんが、聖書の元の言葉はわりと普通の、日常的な言葉です。普通に訳せば「呼ばれる、招かれる」という意味の言葉です。しかしもちろんここには、食事に招待されたとか、音楽会に呼ばれた、というような中途半端なニュアンスはありません。「召される」という言葉が、特に教会では、遠回しに「死ぬ」という意味を持つことがありますが、事実その通り、神に命を取られることであります。

命を召すと書いて「召命」という言葉があります。神に命を取られる。つまり、もう自分の命を自分の好きなようにすることができない。今からのちは、神がまったく自由にわたしの命を自由にお使いになる。その「召命」という言葉が、しばしばいわゆる伝道者になる決心をするときにだけ使われたりするのですが、本当はおかしなことです。神に命を召されるということは、すべてのキリスト者に与えられた祝福であり、事実パウロはここでそう言っております。「神に愛され、聖なる者として召されたすべての人たちへ」。しかもそれを、キリストの奴隷になることだと言っているのです。

■「召された」という言葉と並んで、「選び出された」と言われます。「神の福音のために選び出されたパウロから」。選び出されたという言葉には、「選ばれし者」というような、一種のエリート的なニュアンスがつきまとうかもしれません。もちろんここには、そんな傲慢な思いはありません。ことに教会の迫害者であったパウロには、そんなエリート意識に浸る余裕なんかなかったでしょう。神が誰かをお召しになるとき、言い換えれば、「この人を選び出そう」とされるとき、その人には何の準備もないのに、突然神がお召しになるのです。

もっとも、こう考えることもできるかもしれません。パウロという人は、あとになって冷静に考えてみれば、知識もあり、教養もあり、ことに聖書の知識は超一流で、しかもローマの市民権を持っているという最高の社会的身分もあり、だからこそたとえばローマ帝国の役人と対峙したときにも堂々と渡り合うことができた。そういうことを考えると、なるほど、確かにパウロは選ばれるべくして選ばれた人だったんだね、と人は言うかもしれません。けれども、実際にパウロが神にその命を取られて、神に仕えるようになったときのことを考えてみますと、今言ったようなパウロの知識とか教養とか、そんなものは何の準備にもならなかったことが明らかになりました。むしろパウロはあるところで、自分の生まれと育ちと教育が、人の目にはどんなに素晴らしいものであったかということを「これでもか」と列挙しながら、キリストに召されたとき、そのすべてが屑になったと言い切っています。それは、キリストの奴隷として生きるためには何の準備にもならなかったのです。

あるところでこういう意見を聞いたことがあります。いきなり神学校に行って、そのまま伝道者になるのも結構だが、むしろその前に一度社会に出ていろいろ経験を積んだほうが、よい伝道者になるためには効果的だろうと言うのです。もちろん実際に、世の中で豊かな経験を重ねた人が年を取ってから伝道者として召されて、よい働きをしている人もたくさんいます。けれどもそれは、計画的にするようなことではありません。そもそも福音というものは、「あの偉い人が言うのだから」ということで受け入れやすくなったり、受け入れにくくなったりするものではありません。

今のと逆の意見と言ってよいかどうか、こんな発言を読んだことがあります。日本の教会にとって何と言っても必要なのは、優秀な伝道者である。そのためには、秀才の人たちにどんどん牧師になってもらわないと困る。けれどもそこで大きな障害となっていることは、牧師の待遇があまりにも恵まれていないことだ。もっと牧師の待遇を改善して、教会に集まる秀才たちが喜んでその道を選べるようにしなければならない、と言うのです。強烈な違和感を覚えました。福音は、そのような仕方で伝わることはありません。「あの偉い人が言うのだから」、「あの学校を出た先生が言うのだから」ということで信仰が生まれることはありません。

もうずいぶん昔のことになりますが――今度は私自身の話です――あるところでわりと専門的な心理テストを受けたことがあります。私のテストの結果を見た精神科医にはっきりと言われたことは、「は~、川﨑さん、牧師なんですね……いや、あなたにはいちばん向いていない仕事だと思いますよ」。私は逆に確信を得ました。きっとそうなんだろう。いちばん向いていない。わざと謙遜しているわけではありません。専門家にそう言われたんですから。私は、神に召されたという、その事実以外に何ひとつ支えを持たない人間として、今皆さんの前に立っております。その私がまた、パウロと同じように皆さんにも呼び掛けるのです。

あなたがたも異邦人の中にあって、召されてイエス・キリストのものとなったのです。――鎌倉にいる、神に愛され、聖なる者として召されたすべての人たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。

神に召されて生きるということは、本当に幸せなことです。そして神に召されて生きる人間というのは、いちばん強い。いちばん弱いのですが、いちばん強い。パウロ自身もあるところで、「私は、弱い時にこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙Ⅱ第12章10節)と申しました。キリストに召された奴隷の弱さであり、強さであります。

■このたび、ローマの信徒への手紙の説教を始めるにあたり、私が楽しみにしていることは、さまざまな参考書を読むことです。もっとも、ロマ書の参考書というのは星の数ほどありますから、私の貧しい本棚にあるものだけでも読み切ることは難しいと思います。それでも、これだけはどうしても、と決めている書物がいくつかあります。おいおい紹介していきたいと思いますが、そのひとつはカール・バルトという神学者の書いた『ロマ書』という書物です。第1章1節の言葉について、こういうことを書いています。

ここで語り始めようとしているのは、自分の創作に熱中している天才ではなく、自分が受けた委託に縛られている使者である。主人ではなく、奴隷であり、王の遣わした使者である。

「使徒として召された」と私どもの聖書には書いてありますが、「使徒」という言葉はもともと「遣わされた者」という意味であり、それをここでは「王の遣わした使者である」と言うのです。さらにこう言います。

パウロの立場、パウロが語る言葉の信憑性は、神の中に根拠を持つ。まさにそれゆえ、パウロは勇気を持っている。自分に酔ったり、人がどう思うかという余計な心配をすることなしに、人に近づき、これを聴けと言う勇気を。

心打たれる言葉ではないでしょうか。「パウロは、勇気を持っている」と、そう言うのです。「人がどう思うかという余計な心配をすること」もありません。言うべきことは言う。けれどもそれは、自分の正義感に酔いしれて、あ~、全部言いたいことを言ってやった、ということではないのです。「ここで語り始めようとしているのは、自分の創作に熱中している天才ではなく、自分が受けた委託に縛られている使者である。主人ではなく、奴隷であり、王の遣わした使者である」。私は、あのお方の奴隷だから。あのお方に遣わされた、王の使者だから。王の言葉を読み上げる使者が、いちいち相手の顔色を窺っていたら、その務めは果たせないでしょう。

「召されて生きる」とは、そういうことです。ここにおられる皆さん、ひとりひとりが、その祝福の中に招かれています。呼ばれています。召されているのです。

■召されて、どうなるのか。それを6節では、「あなたがたも異邦人の中にあって、召されてイエス・キリストのものとなったのです」と言います。パウロにとって、召されてキリストのものになる、キリストの奴隷になる、あるいは使者とされるということは、そのこと自体が福音の中心でした。最初に、ハイデルベルク信仰問答の構成は、おそらくロマ書にその範をとっているのだろうと申しました。そのひとつの明確な現れは最初の問答です。「生きるときも、死ぬときも、あなたのただひとつの慰めは何ですか」と問うて、こう答えるのです。「わたしのただひとつの慰めは、生きるときも、死ぬときも、わたしの体も魂も自分自身の所有ではなく、わたしの真実の救い主イエス・キリストの所有であることです」。しかしこれは、普通に考えて、とんでもない発言だと思います。普通に考えて、現代では絶対に受け入れられない信仰だと思います。自分が自分のものでなくなるということは、(くどいようですが)普通に考えて、これ以上惨めなことはないからです。自分で自分の人生を決めることができない、何をするにも人の言いなりというのは、いちばん悲惨な人生でしょう。

けれども、そう考えている私どもが実際にどういう生活を造っているかというと、どうしたら自分の人生を豊かにすることができるか、どういう学校を出て、どういう人と出会って、どういう人と結婚して、それこそ自分にいちばん向いている仕事は何だろう、幸い適当な仕事を見つけていっぱいお金を稼いだり、逆にどうしてこんな稼ぎの少ない人と結婚しちゃったんだろうと嘆いたり、人をうらやんだり、それでふと我に返って、「自分は、いったい何のために生きているんだろう」。自分の人生をふりかえって、大成功だったと思うのか、大失敗だったと思うのか。

自分の人生は自分のものだと考えている限り、そこに本当の慰めはありません。なぜならば、自分の人生の主人が自分自身である限り、その人は決して死に勝つことができないからです。いや、実際のところ、私どものすべてがこの惨めさの中に落ち込んでいるのです。

ところがそんな私どものために、イエス・キリストの福音が与えられたのです。その福音とは、もう一度申します。「わたしのただひとつの慰めは、生きるときも、死ぬときも、わたしの体も魂も自分自身のものではなく、わたしの真実の救い主キリストのものであることです」。わたしの人生の主人は、わたし自身ではない。わたしは、キリストの奴隷であり、そんな私どもに等しく与えられた使命がまた、「神の福音のために召された」ということなのです。

今、私どものためにも、パウロは心を込めて呼びかけてくれます。「わたしパウロはイエス・キリストの奴隷、喜びのために召された者」。「あなたがたも異邦人の中にあって、命を召され、イエス・キリストのものとなったのです」。私も今、ひとりの牧師として、心を込めて皆さんに告げたいと思います。「鎌倉にいる、神に愛され、聖なる者として召されたすべての人たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」。事実、私どもは体も魂も主イエス・キリストのものなのですから、恵みと平和は、私どものものになっているのです。お祈りをいたします。

 

私どもの真実の救い主、イエス・キリストの父なる御神。私どもも、あなたに召されました。体も魂もまるごと、あなたのみ子がご自身の所有としてくださいました。その慰めの中に、今ますますしっかりと立つ者とさせてください。今からいただく聖餐のパンと杯は、罪のために失われていた私どもを買い戻すために、主がどんなに大きな犠牲を払われたか、そのことを示すしるしです。それはまた、私どもの命がどんなに尊いものであったか、そのことを示すしるしでもあるとわきまえさせてください。ひとたびあなたの所有とされた私どもですから、もう二度と、それを惨めさの中に売り渡してしまうことのないように、あなたの福音によって、命のみ言葉によって、私どもをお守りください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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