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十字架のキリスト以外に福音はない

2024年11月17日

ガラテヤの信徒への手紙 第3章1-14節
柳沼 大輝

主日礼拝

 

使徒パウロが、ガラテヤ地方において伝道したのは、彼の二度目の伝道旅行のときでありました。今、お読みしているこのガラテヤの信徒への手紙は、それからさほど時間の経っていない、三度目の伝道旅行の旅先で記されたものではないかと言われています。

この当時、手紙というものは通常、はじめに挨拶の言葉が書かれ、それに続くかたちで本文が記されます。このガラテヤの信徒への手紙も例に漏れずそのような慣習に従って、はじめに短い挨拶が書かれてから、続けて本文が記されております。しかし、その本文はいきなりこのような言葉から始まります。

「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に移って行こうとしていることに、私は驚いています。」(1:6)

衝撃的な書き出しであります。この「驚いている」という言葉は、私たちが前に使っていた新共同訳聖書では「あきれている」と訳されました。「私はあなたがたにあきれている」。普通、このような激しい言葉が手紙の冒頭に記されていたとしたら相手の反感を駆って、その先はもう読んでもらえないかもしれません。その場でビリビリに破り捨てられてしまうかもしれない。しかしそれでも、パウロはそのような厳しい言葉を用いてでも、嘆かずにはおられなかったのであります。それ程までにこの時、ガラテヤの諸教会ではパウロを驚かせる何か異常なことが起きていたのであります。それはいったい何か。それは教会の人々が「キリスト」から離れて「ほかの福音」に移って行こうとしているということでありました。

パウロが伝道した後、ガラテヤの諸教会の中にとあるグループの人々がエルサレムからやってきて、ある教えを広め始めました。どうやら彼らは福音を信じるためには、同時に「律法」を尊重し、「割礼」を受ける必要があると主張したようです。彼らは「ユダヤ人キリスト者」と言われる人々で、ユダヤ教の色彩の強い伝道者たちでありました。彼らは「割礼」を受けて、一度ユダヤ教に改宗してから、キリストの福音を信じるようにとガラテヤの人々に勧めたと考えられます。やがてガラテヤの諸教会の信徒たちの中に彼らの指導に従う者たちが現れ始めました。そのような人々に対して、パウロは「私はあなたがたに驚いている」、「あなたがたにあきれ果てている」と書き送ったのです。このようにガラテヤの信徒たちの福音についての不理解に対して、失望を交えたパウロの驚嘆がこの手紙の書き出しにはっきりと示されております。

本日、共にお聞きしている第3章の冒頭にも、このパウロの嘆きがより強い語調で表現されております。1節「ああ、愚かなガラテヤの人たち」。手紙の中でいきなり相手に向かって「愚かな者」と言うのは、大変、無礼なことであります。通常、手紙において読み手に対して用いるべき表現ではありません。しかしそれ程までに強い口調を用いて、パウロはガラテヤの人々の福音の不理解に対して驚き、あきれ果てているのです。

けれども、パウロはここでただ単にガラテヤの人々のことを非難して、蔑視しようとしているのではありません。そうではなくてここでパウロはどうにかして彼らを正しい信仰へと立ち返らせようとしているのであります。ここで「愚かな」と訳されている言葉は、主イエスの復活後、あのエマオ途上で、失望し、落胆していた、あの二人の弟子たちに対して、主イエスがお語りになったのと同じ言葉であります。

「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち」(ルカ24:25)。

主イエスは、弟子たちにそう言われた後、メシアは、苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったかと、御自分の十字架と復活について書かれていることを聖書全体にわたって説明なさったとあります。

「ああ、愚かな」、一見、相手を馬鹿にしているようにしか思えないこの呼びかけは、御自分の身に起こった救いの出来事、福音の真理をどうしても伝えたいという主イエスの熱い思いから来るものでありました。パウロも同じであります。使徒パウロも伝道者としてガラテヤの人々に向けて、正しい福音の理解を宣べ伝えたいと強く願っていました。あなたがたには本当の福音の喜びに生きてほしいと切に祈っていました。だからパウロは「心を鬼にして」、語り出すのであります。「ああ、愚かなガラテヤの人たち」と。

このパウロの願い、いや、パウロの祈りは、当時のガラテヤの諸教会に生きる者たちだけではなく、今を生きる私たちに対しても、どこか心に響いてくるものがあるのではないでしょうか。私たちもここで呼びかけられているガラテヤの人々と同じではないか。彼らと同様に私たちもときに神を信じることに悩み、迷い、「律法」という「ほかの福音」に心惑わされてしまうことがあるのではないか。「律法」という目に見える「福音」に、一見わかりやすい「福音」に心奪われてしまうことがあるのではないかと思うのです。

実際に、手紙の内容に目を向けてみますと、問題は、「ほかの福音」から離れて、正しい福音の理解に立ち返るということに集中いたします。パウロは主イエスという御方の正しい理解を次のような一言で証言しています。1節後半の言葉です。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示された」。この箇所を聖書の原典、もとのギリシャ語から語順に従って直訳するとこうなります。「その目に対して、公然と示された。主イエス・キリストが十字架につけられたままの姿で」。「十字架につけられたままの姿で」という言葉が最後にきています。この言葉が最後に置かれているのは、このことが何も単なる付け足しというわけではありません。むしろ最も強調すべきこと、一番相手に伝えたいこととして、敢えて文章の最後に置かれているのであります。つまり、私たちの信仰の土台はここにあるのだ、この「十字架のキリスト」こそ、私たちが立ち返るべき福音の真理であると、パウロはここで力強く宣言しているのです。

ここで言われている「十字架につけられたままの姿で」というのは、キリストが、今も復活せずに十字架で苦しみ続けているということを言っているのではありません。そうではなくて、十字架は単なる「昔」の出来事ではないのだ。「十字架のキリスト」はまさに今日、「現在」の現実の救いの出来事として、私たちに公然と示されているのだ。私たちはこの「十字架のキリスト」に出会い、信仰を与えられて、確かな救いへと導かれるのだと、パウロはそうはっきりとガラテヤの人々に宣べ伝えているのであります。

パウロは言葉を代えて、この「十字架のキリスト」以外に「律法」に心を向けようとする「愚かな」ガラテヤの人々に対して、「これだけは聞いておきたい」ことがあると記します。それはあなたがたが霊を受けたのは「律法」を行ったからか、それとも「信仰」に聞き従ったからか。先に「十字架につけられたままのキリストが目の前に示されている」ということを提示した上で、次に「あなたがたが霊を受けたのは何によってか」と投げかけ、パウロは「あなたがたが“聖霊”を受けた」のは「律法」によってではなく、「信仰」に聞いて従ったからでなかったのかと、ガラテヤの人々に問いかけます。

それでは、ここでパウロが言っている「信仰に聞き従う」とはいったいどういうことでしょうか。ここはいろいろな翻訳がなされる箇所であります。たびたび、以前の聖書の訳を取り上げて、申し訳ないのですが、新共同訳聖書では、ここのところを「福音を聞いて信じたからか」と訳しました。しかし「福音を聞いて信じたからか」と言いますが、聖書の原典にはどこにも「福音」という言葉は出てきません。本日、私たちが手にしている聖書の訳のようにただ「信仰を」とだけ書かれているのであります。それではなぜ以前の聖書はここのところを「福音」と訳したのか。それはこの「信仰」こそ、パウロがガラテヤの人々に語り伝えた「福音」にほかならないからであります。

「信仰を聞く」、それは「信仰の言葉を聞く」ということです。つまり「信仰を聞く」とは、パウロが1節で述べていた「十字架のキリスト」を証言する説教を聞くということを意味します。パウロは自分が今まであなたがたに宣べ伝えてきた「福音」は、まさにこの「十字架のキリスト」を描き出す信仰の「言葉」ではなかったと問いかけます。それなのにあなたがたは今、「律法」という別の福音の言葉を聞こうとしている。その「ほかの福音」に心を惑わされている。それでは一向に救われない。十字架のキリストを目の前に指し示す説教を聞くとき、はじめて人間は“聖霊”を受けるのだとパウロは語ります。

それでは“聖霊”を受けるとはどういうことか。それは「信じて洗礼を受けた」のと同じことです。ここで「洗礼」という具体的な言葉は使用されておりません。しかし、「聖霊を受けた」ということは水と霊による洗礼を受けたのと不可分なのであります。人間は信仰の説教を聞き、主を信じて、洗礼を受けたとき、御子から“聖霊”を与えられます。神のものとされます。そして、聖霊の働きに従って、神の子として生きていく。キリストにあって生きるものへと変えられていく。その意味で「律法」を苦労して行うことは、聖霊を受けることと結びつきません。洗礼を受けることとも当然、結びつかない。人は御言葉の説教によって、十字架につけられたままのキリストを示され、その主を信じることによってのみ洗礼を受け、救われるのです。

続けて、パウロはたたみかけるようして「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのでしょうか」とガラテヤの人々に問い詰めます。ここで「体験」が具体的に何を指しているかはわかりません。しかし、この手紙を受け取った人々は、それぞれに思い浮かべたのではないでしょうか。「あれほどのこと」とは「あれほど偉大なこと」という意味の言葉です。しかも、この「体験」という言葉は複数形で記されております。自らの人生のなかで、いかにして神が、聖霊の働きを通して、御業を成し遂げてくださったか。霊によって、愛、喜び、希望を与えてくださったか。慰め、生きる力を与えてくださったか。それぞれにいろいろなかたちでの偉大な聖霊体験があったでしょう。けれども、それらはすべて神からの「恵み」であります。もし、あなたがたが「律法」に心を向けて、そこに重きを置くのであれば、もし、そうしようとするのであれば、それらの「恵み」はまるで「無駄」になってしまう。あなたがたはそれらの「恵み」だけではまだ満足できないのかと、パウロは激しく問いかけるのです。

私たちは、ときに自分の救いの根拠を自らの感情や、経験、行為に求めます。自分はこうしたから救われたのだとか、このような思いが与えられたから救われたのだとか、自己中心に救いの根拠を歪めてしまうことがあります。しかしそれでは、パウロが言うように、私たちも神の「恵み」を「無駄」にしてしまうことになります。神が、私たちに、この私に成し遂げてくださった一つひとつの偉大な御業を無駄にしてしまうことになります。そして、その行為はそれらの「恵み」の根底にある「十字架のキリスト」いわば、「福音」を無駄にしてしまうことに繫がります。私たちもときに「十字架のキリスト」だけでは満足できないのです。自分が救われている証拠が欲しいと願い、もっとわかりやすい救いのしるしをどこかに求めてしまう。自分のなかに救いの根拠を見出そうとしてしまう。その意味で「十字架のキリスト」は無駄にされやすいのです。

しかし真実はたった一つであります。私たちは自らの思いや努力といった「律法」の行為によって救われるのでありません。人は、ただ「十字架のキリスト」を描き出す説教を聞いて、それを信じることによってのみ、洗礼を受けて救われます。神の子とされます。「十字架のキリスト」以外に、私たちを生かす福音はないのであります。

けれども、冒頭で述べたように私たちはすぐに神を信じることに悩み、迷い、多くのものに心を惑わされます。パウロが言う「律法の呪い」に心を支配されてしまう私たちがまさにここにいるのであります。あれをしたから私は神に愛されている。あれができたから私は神に認められている。そうやって自らの力でどうにかして救いの実感を勝ち取ろうとしてしまう。いわゆる、目に見えるような「人間の業」に自らの救いの確信を求めてしまう。確かにその方が「救い」というものを理解するのにわかりやすくて楽なのかもしれません。救いといったものに何かしらの基準があるのであれば、変に神に期待して、裏切られて、傷つかずに済むのかもしれない。しかしそんなことをいくら続けていても、本当の意味では、救いの喜びなど得られないのです。そんなのものに救いを求め続けていても、苦しいだけ、空しいだけであります。やはりガラテヤの人々と同様に福音の真理をなかなか理解できない「愚かな」私たちが確かにここにいるのであります。

それではどうしたらよいのでしょうか。どうやって私たちは信仰に生きていけばよいのでしょうか。何度も申し上げますが、私たちはときに神を信じることに迷う。悩む。神を信じること、「信仰」を捨てたいとすら思うときがある。そうやってついつい目に見える「ほかの福音」に心が移って行ってしまうことがある。

だからこそ、私たちは毎週ここに来るのであります。この礼拝の場へと招かれて、主の御前に立ち帰って、説教が宣べ伝える神の言葉、十字架の言葉を聞くのであります。十字架の救いは、過去の出来事ではありません。確かに今も、ここに実現している救いの出来事であります。パウロは言います。

「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(3:13)

今日、このときも十字架のキリストは、私たちと共にいてくださいます。律法の呪いに支配されている、たくさんの重荷を背負い、悩み苦しんでいる私たちに語りかけてくださっています。「私が、あなたを律法の呪いから解放するために、罪から救うために十字架に掛かったと、私があなたを支え導くと、だから恐れることはない。私に聞き従いなさい」。私たちは、もはや自分の力で救いを勝ち取る必要はありません。自分の力に頼ってもがき苦しむ必要はありません。

自分の基準では、どうしても愛することができないこんな自分も主イエスが愛してくださっている。自分の努力では、赦せない過去も、消えない傷みも、目を背けたくなるような愚かさも、主イエスがその御手のうちにすべて受け止めてくださっている。その上で、今日も主は私に「生きよ」と語りかけてくださる。

もうすでに大きな転換がなされました。律法の呪いから、私たちは主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、すでに贖い出されています。罪赦されています。その救いはあなたの感情や経験や行為などでは到底、覆すことはできない。神の救いは、そんなちっぽけなものではないのです。たとえ今、あなたがそれを信じることができなくても、感じることができなくても、救いはもうすでにここにある。そうです。確かに今も生きてこの場に臨在してくださる「十字架のキリスト」にこそ、私たちを生かす「福音」の真理があるのであります。

パウロは、旧約聖書の言葉を引用してこう述べます。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(3:6)。これは、アブラハムが神を信頼したことによって「義しい」ものと見なされたということであります。私たちも十字架の言葉を聞き、主イエスを私のまことの救い主と信じ、洗礼を受けたとき、主の目に義しいものとされました。神の子とされました。「祝福」を与えられて、罪に死すべきものから、主のいのちに生きるものへと変えられました。

アブラハムは神を信じた。これは何もアブラハムはいつも神の言葉のすべてを信じ切ることができたということを言っているのではありません。その証拠に本日、お読みした創世記第15章4節において神から「あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ」と言われておきながら、その後、実際に「高齢の妻サラと自分との間に男の子を与える」と、神に言われたとき、彼は心の中で笑ったではありませんか。

「神を信じる」、それは自分の力、思いを手放して、神に委ねることであります。ときに神を信じられない自分も、疑ってしまうような自分もそのすべてを受け止めて、神の救いの約束に私の人生をかけてみることであります。人間の常識では、人間の頭では理解できない、信じることのできないような偉大な主の御業、「神の恵み」に信頼して生きていくことであります。

神から離れていたこの私が、まさか主に見出されて洗礼を受けた。それからそれぞれにいろいろなことがあったでしょう。その歩みはけっして嬉しいことだけではなかったはずであります。ときに痛みがあった。涙もあった。それでもここで神の言葉を聞き続けながら、その信仰の言葉に導かれながら、私は今日、ここに生かされている。そして、すぐに神の言葉を疑ってしまうこの私が、自分の力で救いを実現しようとしてしまうこの私が、今日もこの場所に立ち返ることができた。今日も生かされ、主の御前にひれ伏して、今日もこうして信仰の言葉を聞くことができた。あなたが主と共に歩んできた一日一日。そして、そこから続いている今日のこの礼拝の出来事も聖霊が実を結んでくださった「神の恵み」にほかならないのであります。この恵みを私たちはけっして無駄にしてはならない。

アブラハムはただ主の言葉に聞き従って、名も知らない約束の地へと旅立ちました。主の前にひれ伏して、自らの無力さを認め、神のみを神として信仰の旅路を歩んでいきました。

今、私たちも信仰によって、聖霊を与えられ、神からの祝福を受けて、この礼拝の場からまた新たな信仰の旅路へと歩み出したい。またすぐに心惑わされて、信仰に迷うかもしれない。また自分の力だけで生きていこうとして行き詰ってしまうかもしれない。自分のなかに救いの根拠を見出そうとして、そんなもの私のなかにあるはずがなくて…。どうやって信仰に生きていけばよいかわからなくなるかもしれない。しかし、恐れることはないのです。私たちの感情や経験や行為をはるかに超えた、私たちを生かす福音が、十字架のキリストが、今日も私たちの目の前にこんなにも鮮やかに描き出されている。主イエスが今ここに生きて、あなたと共にいてくださる。「生きていてよい」と語りかけてくださる。この恵みだけで私たちはもう十分ではありませんか。

さあ共に立って、なお信仰の道を進み行こう。「主があなたを贖った。あなたは神のもの。キリストのもの」。ここに「救い」があります。ここにまことの「福音」があります。そしてここに私たちが生きるたった一つの「喜び」がある。「神の恵み」に生かされて、今日も、共々に主の救いの道を喜んで歩んでいきたい。

 

十字架の主イエス・キリストの父なる御神、
私たちは、ときに迷い、疑い、あなたを見失います。自分のなかに救いの根拠を見出そうとして、あがき、傷つき、またもがき苦しみます。しかし、あなたは今日も変わらずにここに生きて働いてくださって、私たちの目の前にあなたの救いをはっきりと指し示してくださる。生きる喜びを現わしてくださる。神様、ありがとうございます。
あなたの十字架を見上げ、あなたにのみ、信頼して歩むことができますように。私たちに聖霊の御助けをお与えください。私たちを支え導いてください。私たちを祝福してください。私たちはあなたの言葉に、信仰の言葉に依り頼みます。この願いと感謝、主の御名によって、祈ります。アーメン

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