神の言葉を聞くために
川崎 公平
マルコによる福音書 第4章1-20節
主日礼拝
■マルコによる福音書第4章は、主イエス・キリストがお語りになったたとえ話を集中的に伝えます。今朝読みました「種を蒔く人」のたとえ話から始まって、来週の受難週の礼拝、さらに翌週のイースター、主のご復活を祝う日曜日にも、主イエスのたとえ話を読みながら礼拝をしたいと思います。
このような箇所を読むときにも、いつも私どもが覚えていなければならないことは、主イエスが最初にお語りになった言葉が何であったかということです。第1章15節に、主イエスの伝道の最初の言葉がこう書いてあります。
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
この言葉は、主イエスが伝道の最初の頃に、たまたまこういうことを口にしたことがあった、という話ではなくて、むしろ福音書を書いたマルコは、このひと言にすべての思いを込めたと思います。何のためにキリストは地上にお生まれになったのか。神は御子イエスを通して、要するに何をなさったのか。「時は満ち、神の国は近づいた」のです。だから、「悔い改めて福音を信じなさい」。
〈神の国〉であります。「神の支配」と言い換えてもいいし、平たく言えば、神は生きておられるのだ、ということです。私どもの地上の生活というのは、福音書が書かれた1世紀も、その二千年後の21世紀も、本質的には何の変わりもないので、喜びもあれば悲しみもあるし、憎んだりねたんだり争ったり殺したり、昔も今も、人間の生活には何も変わらないのです。どんなに人間の知識が増え、技術が進んでも、戦争も地震も疫病も、昔からそういうことはあったし、将来もなくなることは決してないのです。ところがそういう生活を私どもがしている中に、二千年前、誰も聞いたことのない神の声が聞こえました。「時は満ち、神の国は近づいた」。神は生きておられるのだ。あなたのために、神は今働いておられるのだ。それを無視するわけにはいかないじゃないか。だから、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われるのです。
■マルコ福音書第4章が伝えるいくつかのたとえ話も、その主題は〈神の国〉であります。神の国が、神の支配が近づいたのだから、あなたのところに近づいたのだから……。その〈神の国〉という主題は、今日読んだところだけではあまり目立たないかもしれませんが、11節に「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と書いてありますし、また26節以下にも、30節以下にも、別のたとえを主はお語りになって、そこでははっきりと、「神の国は次のようなものである」、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と言われます。そのように読んでまいりますと、たいへん不思議な印象を残すのが33節以下です。
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
何度も申しますように主題は〈神の国〉です。「時は満ち、神の国は近づいた」、このひとつのことに尽きる。ところがそこでたいへん不思議なことは、その神の国の何たるかを示すために、主はたとえ話という形でしかお語りにならなかったと、マルコは言うのです。なぜ、たとえ話なのでしょうか。確かに福音書にはたくさんの主イエスのたとえ話が出てくるわけですけれども、「たとえを用いずに語ることはなかった」とまで言われると、それは厳密には違うんじゃないか、と思う一方で、しかしこれは案外、大切なことだと思います。
たとえ話というのは、一面から言えば、何も難しくないのです。小難しい理屈をこねくり回して、人間の救われる道筋はこうだと、「ナントカ統一原理」というような理屈を一から十まで勉強して、それでようやく信仰が分かるというような話ではないのです。神が私どもに聞かせてくださる福音は、もっと単純で易しいのです。ことに先ほど読みました33節では、「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」と書いてあります。これは私どもを慰め、また励ましてくれる言葉だと思います。「人々の聞く力に応じて」、頭のいい人も、そうでない人も、人生経験豊かな人も、そうでない人も、誰でも分かるように、その人の力に応じて話していただかないと、本当の救いにはならないでしょう。けれどもそこでよく分からないのは、なぜたとえ話なのか、ということなのです。
「たとえを用いずに語ることはなかった」というのを私なりに言い換えてみせると、「学術論文によってではなく、文学作品によって」ということになるかもしれません。主イエスは神の国についてお語りになるときに、科学者のようにお語りになることはなかった。そうではなくて、詩人のような語り方しかなさらなかった。たとえば、そういうことです。「神の国は近づいた」。神は、本当に生きておられるのだ。あなたのために、神が今働いておられるのだ。だから、悔い改めて、ということを、主イエスは決して、学者の言葉でお語りになることはなかったのです。
学者の書く論文も、もちろん何かを伝えるために書くのでしょう。そしてそういう学者の研究の積み重ねがあるからこそ、私どもの生活も成り立っているのです。けれども、もしかしたら学者の言葉よりももっと大切なことを伝えてくれるのが、たとえば詩であったり小説であったり、あるいは映画でも演劇でもマンガでもいいのです(それをここではひとくくりにして〈文学〉と言ってしまうことにしますが)、文学という手段によらなければ伝えられない真理があると思うのです。
■種を蒔く人が種を蒔いたら、ある種は道端に落ちました。こういう文学的な文章に余計な説明を付け加えるのは無粋なことでしょうけれども、最小限の説明を加えておくと、当時の種蒔きというのは、畑を耕す前に種を蒔いて、そのあと鍬とか鋤とかで、地面を耕したと言われます。ところがそのように耕す前に、ある種は道端に落ちて、あっという間にトンビに食べられてしまいました。残念……。また他の種は、芽が出たと思ったらあっという間に枯れてしまったり、いろんな雑草に負けて結局実を結ばなかったり、けれども最後の種は信じられないような豊かな実りをもたらしました、という話を聞いたときに、ある人は「……それで?」で終わってしまうかもしれない。あるいは小学生くらいの小さな子どもなら、朝顔の観察日記でもつけるような感じで、そうだよね、ちゃんとした土に蒔かなきゃ種は育たないよね、と理科のお勉強でもしたような気分になるかもしれない。けれども、文学作品を理科の教科書のように読んでも何の意味もないのです。文学は文学として受け止めたときに、われわれの心を深く耕し、養ってくれるものです。それに似て、主イエスのたとえ話は、何の理屈もいらない。何の専門知識もいらない。ただ心があればよいのです。どんなに頭がいい人も、そうでもない人も、「ああ、そうか」と思い当たるのです。そのために語られたたとえ話です。
種を蒔く人が種を蒔きました。あるものは鳥に食べられたり、石だらけの場所で枯れてしまったり、雑草に負けてしまったり、……という話を聞きながら、「ああ、そうか」。「わたしの話をしておられるんだ」。けれども最後に主イエスは言われました。
「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた(8、9節)。
「聞きなさい」。あなたには耳があるのだから、聞きなさい。その聞くというのは、学者の書いた本を勉強しろという話ではないのです。キリスト教の教えを勉強しろという話ではないのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」。「あなたの話ですよ」。そのことに、信仰によって思い当たることがなければ、何も分からないのです。そして思い当たったら、信仰の決心をしなければならないのです。悔い改めないわけにはいかなくなるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた」。神は生きておられるのだから、あなたのために、今生きておられるのだから……だから、あなたは信じるのか、信じないのか。悔い改めるのか、悔い改めないのか。神の働きに対する態度を決定しなければならないのです。
■そのために語られたたとえ話ですから、10節以下にはこんなことが書いてあります。
イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである」。(10~12節)
これだけ読むと、少なからずショックを受ける方もあるかもしれません。つまり、たとえ話で語るというのは、頭がそんなによくない人でも理解できるように、なるべく分かりやすいたとえを用いて、というのんきな話かと思ったら、そうではないので、むしろこのたとえ話を聞くことによって、「『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるため」に、たとえ話という手段で話すのだ、というのです。
わざと分かりにくいように、意地悪な話し方を主イエスがなさったということではありません。だいたい、この種蒔きの話だって、こんなに分かりやすい話は他になかなか見つからないだろうと思いますし、そういう話をしてくれるイエスさまだったからこそ、その周りにはいつもおびただしい群衆がついて回ったということにもなったのだと思います。けれども、主イエスのたとえ話がどんなに面白かったとしても、どんなに分かりやすかったとしても、それを聞いて人間が本当に悔い改めるようになるかというと、それはまた別問題なのです。
■今日読みました「種を蒔く人」のたとえにおいて、ひとつ際立っていることは、13節以下にたとえ話の説明が続いていることです。そしてひとつの感想としては、こういう説明があれば、ますます主イエスのたとえ話は分かりやすい、ということにもなるかもしれません。けれどもそのときに、私どもはどういう分かり方をしているのでしょうか。道端のものとは、こういう人のことである。石だらけの所に落ちたものとは、こういう人のことである。そういう説明を聞きながら、ああ、自分のことかもしれないな、と思うだけでは、実は何も分かったことにはならないので、「聞く耳のある者は聞きなさい」。「神の国は近づいたのだから。あなたのために、神が今働いておられるのだから。だから、悔い改めて福音を信じなさい」。それなら、わたしも神のもとに帰らないと。そういう分かり方をしなければ、何も分かったことにはならないのです。
13節以下の説明については、時々、それこそ学者たちがこういうことを言います。これは明らかに、主イエスご自身がお語りになった言葉ではないだろう。そうではなくて、のちの時代の教会が、自分たちの事情に合わせて、主イエスのたとえ話はきっとこういう意味だろうと解釈をした、あるいは皆でいろいろ語り合ったことを、主イエスの言葉であるかのように書いて見せただけだ。ほとんどの学者がそう申しますし、私もきっとそうなんだろうと思います。だからと言って13節以下の説明の部分は価値が低いとも思いません。最初に申しましたように、主イエスはたとえ話をお語りになったときに、ひとりひとりの聞く力に応じてお話しになったのです。そうであれば、のちの時代の教会が、自分自身の生活の中で、自分のこととしてたとえ話を読んだということは、まさしくそれこそが主の御心にかなうことであったと思うのです。
たとえば、19節に「御言葉を覆いふさいで」とありますが、これは直訳すると「御言葉を窒息させて」と書いてあるのです。そしてそれは、7節にも出てくる「すると茨が伸びて覆いふさいだので」というのとまったく同じ表現です。種が窒息させられるというのは、科学的にもまあそれなりに正しいのでしょうが、むしろ文学的な表現として読んだ方がよく分かるでしょう。そしてのちの時代の教会の人たちにとっても、よく分かったのです。「蒔かれた種が、茨に負けて窒息した、だって! これ、ほんとよく分かるよね。わたしの話じゃないか」。聖書を読んで、あるいは教会で説教を聴いて、たいへん感動するのです。御言葉が自分の魂の中で生き生きと息づいている、体中にみ言葉の恵みがみなぎっている。ところが、19節。「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み」、「お金の方が役に立つぞ。この世の人間関係の方が大事だぞ。神の国なんて、嘘八百だ」。神の声は完全に息の根を止められて、実を結ばない。ああ、そうだよな、と、本当によく分かるのです。
けれども、それで本当にこのたとえ話を理解したことになるでしょうか。「聞く耳のある者は聞きなさい」。聞く耳を持たなければならないのです。あなたは、耳を持っているか。もしあなたに耳があるのならば、聞きなさい。神の国は近づいたのだ。目を開いて、耳を開いて、福音を信じなさい。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」。あなたがそうならなかったら、どうしようもないじゃないか。
けれども、主イエスがここで四種類の土地の事情についてお語りになったのは、事実そういうことがあるからにほかなりません。よく分かるのです。神の御言葉を聞いても、すぐに鳥に食べられてしまったり、最初は喜んで聞いていたのにあっという間につまずいてしまったり、ことにこの世の思い煩いとか、富の誘惑とか、そういう私どもの生活のありのままの姿を、主イエスは最初からよく理解してくださっていたのです。そのことにむしろ慰めを見出すのが、たとえ話の本当の読み方だと思うのです。
■その上で、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われるのです。私はこう思うのですが、この9節の「聞く耳のある者は聞きなさい」という主の言葉には、どんなに深い神の悲しみが込められていたことでしょうか。「わたしの言葉を聞いてほしい。分かってほしい。どうして分かってもらえないんだ」という神の嘆きであります。そしてまた、その神の嘆きを一緒に担わされた人のひとりが、イザヤという預言者であったのです。
先ほど読みました12節の、「『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」というのは、イザヤ書第6章からの引用です。言うまでもないことですが、イザヤだって主イエスだって、わざと神さまのことを分からせないように、意地悪な語り方をしたというのではないのです。けれども、たとえばイザヤ書を読んでもよく分かることですが、イザヤが一所懸命神の恵みを語れば語るほど、人びとの心が頑なになっていくということが、事実起こりました。イザヤもつらかったと思います。自分の言葉が無視されるということは、人間としていちばんつらいことかもしれません。けれどもそれは、イザヤという人の個人的なつらさではないので、神の悲しみを担う者として、イザヤは預言者として神に召されて、御言葉の種を蒔き続けた。すぐに鳥に食べられてしまおうが、石だらけ、茨だらけであろうが、神が「行って、語れ」と仰せになるのであれば、どこまでも御言葉の種を蒔き続けた。そのイザヤの悲しみの姿は、実は来るべき神の御子の影でしかなかったのです。
主イエス・キリスト、このお方こそ、どんな土地にも御言葉を蒔き続けました。「聞く耳のある者は聞きなさい」、どうかこの神の恵みの言葉を聞いてほしい。けれどもまたそれは、悲しみのわざでしかありませんでした。前回読んだところですが、主イエスが大勢の人びとのために御言葉を語っておられると、そこに母マリアと、また肉親の弟たち、妹たちがやって来て、イエスを家に連れ戻そうとしたと書いてあります。なぜかというと、「イエスは頭がおかしい」という人びとの噂を無視できなくなったからです。「イエスは悪霊の頭ベルゼブルと結託して奇跡を行っているんだ」と律法学者の先生方もそう言っているし、やはり一度家に連れ戻さないと。そういう家族に対して、第3章の33節では、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、一見するとたいへん冷たいお答えをしなければなりませんでした。それを聞いた母マリアは、どんなにつらい思いをしただろうかと思いますが、しかしそれは言い換えれば、あの母マリアの心さえも、道端のようなものであり、あるいは石だらけ、茨だらけであり、そのようなマリアの心にも何とかして御言葉の種を蒔き続けようとされた主イエスの悲しみに、むしろ私どもは思いを寄せなければならないと思うのです。
きっと私どもの心の中にも、道端のようなところがあり、石だらけ、茨だらけのところがあるのです。事実としてそうでしょう。けれども、もしもです。もしも主イエスが御言葉の種を蒔こうとされたときに、ああ、あいつの心は道端だ。ほら、トンビも餌を狙ってる。あんなやつのために種を蒔くのはよそう。ああ、あいつは石だらけだ。あっちは茨、あんな人に御言葉を聞かせたって、どうせ無駄になるだけだ。それでようやく良い土地を見つけて、ああ、この人のためなら、わたしの大切な種を蒔いてやってもいいだろう、きっといっぱい収穫できるぞ、というやり方を、もしも主イエスがなさったとしたら、私どもはただのひとりも、既にここにいなかっただろうと思います。
「聞く耳のある者は聞きなさい」。どうか、聞いてほしい。あなたには、耳があるのだから……。この神の愛の悲しみを語るたとえ話でもあるのです。それを語るために、主イエスは学者のような話し方をなさることは決してなく、ただ詩人のような言葉をお用いになるほかなかったのです。
■来週の日曜日の礼拝から、聖書協会共同訳という新しい聖書翻訳を用います。それに合わせて、先週の日曜日、教会員の皆さんには聖句入りのしおりをお配りしました。その先週の週報にも書いたように、ハナミズキの会の皆さんが、いつもイースターには主の復活を祝ってゆで卵を配る習慣があるのですが、感染症のことを考えると、まだちょっと、ということで、このようなしおりを配ることになりました。しかしその結果、主のご復活を祝うためにいちばんふさわしいプレゼントを用意することができたかもしれません。このしおりのひとつに、ヨハネによる福音書第12章24節の主イエスの言葉を書きました。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
神の御言葉が枯れたり窒息したり、というだけの話では終わりませんでした。最後には神の御子イエスご自身が、その命を種として蒔かれたのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。30倍、60倍、100倍の実りです。その実りとは、ここに集められた皆さんひとりひとりのことでもあるのです。
主の復活の祝いに先立ち、来週の日曜日からは受難週が始まります。いつものことですが、受難週祈祷会において教会の仲間たちが聖書を説き明かし、それに導かれて祈りの交わりを作ります。今年の受難週祈祷会ではイザヤ書第53章を集中して読みます。ひとりでも多くの方に、受難週祈祷会に集まっていただきたいと思いますし、それが叶わない方も、それぞれにこのイザヤ書第53章を集中的に読むことによって、受難週の歩みを造っていただきたいと願っています。たいへん強烈な言葉で、主イエス・キリストのお苦しみを語ります。その最後のところに、いつも私が深い感動をもって読む言葉があります。イザヤ書第53章11節です。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
主イエスの満ち足りたお顔が見えるようです。30倍、60倍、100倍の実りをご覧になりながら、これはわたしの苦しみの実りだ、と言われるのです。その実りをもたらすために、今日も主イエスご自身が、御言葉の種を蒔き続けてくださるし、今ここに、その実りである教会が生かされていると、信じることが許されているのです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、今ここにも、あなたの御国が、あなたのご支配が近づいているのですから、私どもも悔い改めて福音を信じることができますように。すぐに御言葉を奪われてしまいます。この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望に負けてしまっていることを、あなたがどんなに悲しんでおられるか、そのあなたの悲しみの百分の一でも、一万分の一でも、知ることができますように。そんな私どもが、なおあなたに愛されて……「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」という主の御言葉が心に刺さります。私どもに対する愛のゆえに、主は命を捨ててくださいました。恐れつつ、今主の十字架のもとに立たせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン