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キリストを知るすばらしさ

2022年6月5日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第3章1-11節

聖霊降臨記念主日聖餐礼拝

■本日は、聖霊降臨記念の祝いの日、しかも主礼拝においては洗礼入会式が行われます。そのようなうれしい日の礼拝に、フィリピの信徒への手紙第3章の最初の部分が与えられたということは、それもまた神の導きと感謝しています。1月以来この手紙を礼拝で読み続けてきて、たまたま今日から第3章に入るのです。

誰かが洗礼を受けたいと申し出ると、牧師と一緒にそのための準備をします。そういうときに、多くの場合私が用いるのは、『雪ノ下カテキズム』という私どもの教会の作った信仰の書物です。大きな書物ですから、全部は読みません。その最初の第一部だけを、けれどもなるべく丁寧に、洗礼志願者の方と一緒に読みます。

このカテキズム・信仰問答は、その最初のところで、私どもに与えられた救いの喜びとは、神を父と呼ぶ喜びであると言います。主イエス・キリストの父なる神は、わたしの父、私どもの父である。しかもそれは、自分の力で認識することはできないことで、神からの聖霊を受けて、初めて私どもは、神を呼ぶことができると言います。神は、いかなるときにも変わらずにわたしの父でいてくださる。それがわたしの喜びであり、誇りであると、カテキズムは申します。

そこで興味深いのは、カテキズムがこのフィリピの信徒への手紙第3章を引用していることです。問5において「神の子とされることがあなたにとってなぜ大きな喜びとなるのですか」と問うて、「それは、真実に生きるべき本当の自分を発見する喜びです」と答えます。言い換えれば、洗礼の喜びとは、本当の自分を発見する喜びである。わたしは神の子なんだ。わたしは、あのお父さんの子どもなんだ。そのような意味で「本当の自分を発見する喜び」というのですが、そこでフィリピの信徒への手紙第3章が引用されるのです。たとえば9節にこう書いてあります。「キリストの内にいる者と認められるためです」。わたしは、キリストの内にいる者だ。キリストの外になんかいない。それが本当の自分だ。

ついでに申しますと、かつて用いられた口語訳聖書では、「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」と訳されました。新共同訳と少しニュアンスが違うな、とお気づきになると思います。「キリストの内にいる者と認められる」というと、つまり神が、自分をそのような者として認めてくださるということになりそうですが、口語訳のように、「キリストのうちに自分を見いだす」と訳すと、自分で自分を発見する、ということになりそうです。「認められる」のか、それとも「見いだす」のか、語学的には結論ははっきりしていて、新共同訳の方が正確です。自分で自分を見つけるんじゃない、神が自分を認めてくださる。ただ、さらに私の意見を申しますと、「キリストの内に認められる」というよりも、口語訳にならって、「キリストの内に見出される」とした方がよかったと思います。『雪ノ下カテキズム』が言うように、本当の自分を発見するのです。けれども、それは自分で自分を発見するというよりも、まず神がわたしを見つけ出してくださる。キリストの内に、わたしを見つけてくださる。これは、不思議な恵みを語る言葉だと思います。

今、認めるとか見出すとか、見つけるとか発見するとか、原文では同じ言葉をいろいろに言い換えて見せましたけれども、この同じ言葉が、たいへん有名な主イエスの譬え話にも出てきます。ある人が羊を百匹持っていて、ところがそのうちの一匹がいなくなってしまった。そうしたら、当然羊の持ち主は、そのいなくなった一匹を、見つかるまで探し続けるだろう。そして見つかったら、喜んでその羊を抱いて家に帰り、友達や近所の人まで呼び集めて、「わたしと一緒に喜んでください。いなくなっていた羊が見つかりましたら」と触れ回るだろう。失われていたものを見つけた神の喜びを、主イエスは印象深く語ってくださいました。

この手紙を書いたパウロも、「わたしは神に見出されたのだ」と言っているのです。「キリストの内に」、神がわたしを見出してくださる。「キリストの内に」というのは、たとえばキリストの腕の中にしっかりと抱かれている一匹の羊のことを思い描いてみてもよいと思います。そして当然、私どもの側からも、「ああ、これが本当の自分の姿なんだ」と、心からの喜びをもって、真実の自分を発見するということが起こるのです。

■洗礼の喜びとは、本当の自分を発見する喜びです。「わたしは、神に愛された神の子なんだ。わたしは、あのお父さんの子どもなんだ」。心からの喜びと誇りをもって、その事実を受け入れるのです。それが、洗礼を受けるということです。それ以外、何の条件もいらない、何も必要ないのですけれども、それだけでは話が終わらないのはなぜかと言うと、8節にこういう言葉がありました。

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。

「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」。そのすばらしさが、あまりにもすばらしくて、「今では他の一切が損失にしかならなくなった」と言うのです。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。この「塵あくた」と訳されている言葉も、新共同訳と口語訳と、さらに他の聖書の翻訳を比べてみると、ずいぶん翻訳が違っているので、もともとはどういう意味だろうかと改めて調べてみましたが、よく分かりません。語源がよく分からない、とにかく汚い悪口の言葉のようですね。日本語にも、そういう汚い悪口がいろいろあるでしょう。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、あんなものはクズだ。あんなものはクソだ。そのクズとかクソとか言われているものが、具体的に何を指しているかというと、それが5節以下であります。4節から読んでみます。

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです(4~7節)。

ここに出てくるひとつひとつの言葉について、丁寧に説明する時間もないし、おそらくその必要もないだろうと思います。ここでパウロが何をしているかというと、要するに、本当の自分とは何か、ということを論じているのです。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で……」。つまり、わたしは考えられる限りのよい生まれ、よい育ちの人間で、考えられる限りの最高の教育を受けたんだ。それが本当の自分だ、と思っていたけれども、それはとんでもない間違いであったと言っているのです。

6節の最後では、「律法の義については非のうちどころのない者でした」と言っています。驚くべき発言です。パウロという人は、自分は律法を守ることができない、神のみ旨に従って生きていきたいと願うのだけれども、それがどうしても完璧にできない、ということで悩んだことはなかったようです。わたしは100点しか取ったことがない。人生で一度も間違ったことはない。「律法の義については非のうちどころのない者でした」。それが真実の自分だと、そう思い込んでいた。ところが、その100点満点の自分が、キリストを知ることのあまりのすばらしさの中で、たちまちすべてがゴミになった。もう見たくもありません。そう言うのです。

■ある人がこういうことを言っています。ここでパウロが延々と、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で……」と列挙していることをひとまとめにして、「これは要するに、かつてパウロが必死につかまっていた手すりのようなものだ」と言うのです。4節には、「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない」と書いてありますが、「肉に頼る」というのが、まさしく手すりにつかまるということです。手すりにつかまっていないと、たちまち倒れてしまう人間、それがかつてのパウロだ。この「手すり」という表現は、率直に申しまして、私自身、本当にこたえました。自分自身、牧師をやっている今でさえ、いろんな手すりにつかまっているのではないだろうか。いろんな手すりがないと、私どもは不安なんです。弱い人間であればあるほど、実につまらない手すりにしがみつくものです。「俺はこんな有名な学校を出た」とか、「うちの主人は、こんな立派な仕事をしている」とか、そういう手すりが見つからない人も、それでも何か手すりがないと不安ですから、自分は純粋な日本人である、○○人とか××人のような劣った民族とは違うんだ、などという愚にもつかない手すりにしがみついている人だっているだろうと思います。ところが問題は、私どもはいろんな手すりを探してはそれに必死にしがみつくくせに、神にだけは絶対にしがみつこうとしないのであります。

フィリピの教会で問題になっていたことも、そのことです。具体的には、神の律法のひとつである、割礼という儀式をめぐって、教会が混乱したようです。2節以下に、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」と、たいへん激しい言葉が出てきます。もちろん、割礼それ自体は神がお定めになったものです。それは、ただ神が恵みによってイスラエルを救ってくださったという、そのことのしるしであって、もしも本当に割礼の意味を正しくわきまえているなら、「神よ、わたしはあなたに救われた人間です。あなた以外に頼るものはありません」と言うべきなのに、その割礼までも自分の手柄にしてしまうのです。割礼という手すりにしがみつきながら、「割礼を受けている自分は偉い、割礼を受けていない異邦人はけがれている」。そういうところにも、何が何でも神にだけは頼ろうとしない、人間の根本的なみじめさが明らかになってくるのです。

パウロという人は、幸か不幸か、しがみつくことのできる手すりを、誰よりもたくさん持っていたようです。ところが、そんなパウロの前に、突然主イエス・キリストが立ちはだかって……。たいへん有名な聖書の記事ですが、使徒言行録第9章にこういうことが書いてあります。パウロが、それこそキリスト教会を迫害する者として、それだけ熱心に自分は神に仕えているんだと思い込んで、意気揚々とダマスコという町に向かっていたその途上で、突然主の光に打たれて、地面に張り倒されたというのです。パウロが地に倒されたということは、たいへん象徴的なものがあると思います。それまでいろんな手すりにつかまっていたパウロが、その手すりをいきなり全部取り上げられて、そうしたらたちまち地面に倒れないわけにはいかないのです。そのときに起こったこと、そのあとに起こったことを、7節以下で、このように書いているのです。6節から読んでみます。

熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内に〔神によって〕見出されるためです(6~9節)。

主の光に打ち倒されたパウロを、しかし神が起こしてくださいました。そうしたら、そこに、まったく新しい自分が見えてきました。それが、キリストの内にある自分です。もう、自分で自分を支える必要なんかない。何の手すりもいらない。わたしは主イエスに愛されて、主イエスの腕の中に、しっかりと抱かれているんだ。キリストの内にある自分こそ、真実に生きるべき本当の自分。その本当の自分を大切にすればよいのです。

■このようなみ言葉を聴きながら、また今日は新しく、ひとりの仲間の洗礼を祝うことができます。3節には、こうも書いてありました。

彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

わたしたちは、もう肉に頼らない。何の手すりもいらない。キリスト・イエスだけが、わたしの誇り。そのような真実の礼拝を造ってくださるのも、ただ神の霊によることだと言います。今、神の霊に導かれて、キリストの中にいる自分自身を見いださせていただきたいと、心から願います。わたしはもう、キリストの外になんかいない。わたしは、キリストの愛の中にいるのだ。その事実を、心からの喜びと誇りをもって承認すること、それが、神の霊が私どもに与えてくださる真実の礼拝です。お祈りをいたします。

 

今、あなたの霊に導かれて、ただあなただけを礼拝する者とさせてください。キリスト・イエスを誇りとさせてください。いろんなものを誇りたがる、私どもの腐った根性は、洗礼を受けたからってそう簡単には治らないことを、私どもはよく承知しております。だからこそ、今あなたの霊の注ぎを待ちます。み言葉を聴きつつ、何度でも新しく、ただキリストの内にいる自分自身の姿を発見することができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン