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神の最大の奇跡とは

2022年4月17日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節

復活主日聖餐礼拝

■今年も、主イエス・キリストのお甦りを祝う日曜日が、このように与えられております。考えてみれば、人類はもう二千回近く、イースターを祝い続けていることになるわけですが、その喜びというか、驚きと言った方がよいかもしれませんが、これは決して色あせることがないのだと思わされます。キリストの教会は、昨年も一昨年も、あるいは百年前も、五百年前も、千年前も、そして二千年前に最初に主がお甦りになった時も、いつも変わらず復活の祝いを続けてきたわけですが、その喜びは、あるいはその驚きは、いつも新しい。

最近、ある教会の方が私に正直におっしゃったことは、もう何十年も教会に来続けているけれども、いまだにイースターの意味が分からない。いまだに、イースターだけはよく分からないんだ、と正直におっしゃいました。正直なだけに、私は心を打たれました。もちろん、ただ皆目分からん、と言っているだけでは困るでしょうが、主の復活という出来事は、私ども人間にはあまりにも新しすぎて、受け止めかねるところがあるのではないかと思うのです。

今私がお話ししたことは、少し唐突でそれこそ意味が分からなかったかもしれませんが、たとえば、こういうことをイメージしてくださってもよいと思います。皆さんも毎日いろんなニュースをご覧になると思います。テレビとか新聞とか、あるいは自分はテレビなんか見ない、インターネットの情報の方がずっと確かだとおっしゃる方もあるだろうと思います。毎日、いろんな情報が洪水のように押し寄せてきます。それを見聞きして、私どもは喜んだり、怒ったり、悲しみに打ちひしがれたり、そんな中にもほっこり楽しいニュースを見つけたり。そんな中で、たとえば2か月前に戦争が始まったというときに、私どもの多くは、とんでもないことが始まった、これは新しいニュースだと目を丸くしたり、いやいや、これは最初から分かっていたことじゃないかとしたり顔をしたり、そうして2か月近くたって、いろんな情報の渦の中で、「結局、何も新しいことは起こらないんだな、所詮人間というものは、こういう生き物なんだな」というような思いにさえ誘われ始めているのです。けれどもそこに、「イエスはお甦りになった」というニュースが飛び込んできたら、どうでしょうか。それは私どもにとってあまりにも異質で、あまりにも新しすぎて、それをどう受け止めたらよいのか、怒ったらいいのか喜んだらいいのか、さっぱり分からないというのが、正直なところなのではないでしょうか。ですから、「イースターの意味が、いまだによく分からないんだ」とおっしゃった方の素朴な疑問は、案外、私ども人間の本質的な部分に触れるものがあるのかもしれません。

■こういうことを考えますときに、私がひとつ思い起こすのは、マルコによる福音書第16章の伝える、ある意味でいちばん古い復活の記録です。日曜日の朝早く、主イエスを愛していた何人かの女性たちが、香料を持って主イエスの墓を訪ねました。主イエスのご遺体が傷んでしまうのを、少しでも遅らせようという、女性らしい心遣いからくる行動であったと思います。ところが主イエスの墓の前に来ると、墓穴に蓋をしていたはずの大きな石がどかされていて、中はからっぽであった。いや、完全にもぬけの殻というのではなくて、天使が座っていて、この女性たちは、その天使から事の次第を聞きました。ナザレのイエスは復活して、もうここにはおられない、ガリラヤに行けば、そこでお目にかかれる、と言うのです。それを聞いて、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ福音書第16章8節)と書いてあります。

キリスト教会の基礎は、主イエス・キリストの復活である。それは間違いのないことです。けれども、最初にその知らせを受け取った婦人たちは、それを聞いて飛び上がって喜んだというのではないのです。そうではなくて、ぶるぶる震え上がって、恐怖のあまり気がふれたようになって、誰にも何も言うことができなかったというのです。

そのことについて、ある説教者がこういうことを言っています。時々、教会がどのように始まったかということについて、おかしなことを言う人がいる。イエスが十字架につけられて、困ってしまった弟子たちの中で、誰彼となく、イエスは甦ったのだと言い始める人たちが出てきた。そうだ、わたしも復活のイエスさまに出会った、などと主張し始める人が出てきた。そういうことを互いに言い合っているうちに、だんだんそれが本当のことのような気がして、そこから新しい宗教運動が始まってきたのだ、というように、キリスト教の誕生を説明するのです。ところがそう考えると、今紹介したようないちばん古い復活の記録とはつじつまが合わなくなります。最初に復活の知らせを聞いた婦人たちは、恐怖のあまり正気でいることさえできなかったと言うのです。これは、困ってしまった弟子たちがうまい話をでっち上げたというのとはずいぶん違います。もしそういうことなら、「婦人たちは、恐怖のあまり逃げ去った」なんて、都合の悪い話を作る必要なんかない。イエスはお甦りになった、すばらしいじゃないか、そういう話を福音書にも書きましょう、婦人たちは喜んでこのことを伝えに行きました、めでたし、めでたし、で済む話です。

もちろん、教会は主イエスの復活によって立ち上がったのです。しかしそれは、嬉しくてそうしたというよりも、その事実を神から突き付けられて、正気を失うくらい怖くてぶるぶる震え上がりながら、けれども、その事実を受け止めながら、そこに教会の歩みが始まったのであります。

■「復活だけは、今でもよく分からない」とある方がおっしゃったのは、しつこくて恐縮ですが、私は本当にその通りだと思ったのです。復活が分からない、というのはもう少しきちんと言い換えるならば、主イエス・キリストの十字架も、復活も、私ども人間に対する非常に大きな問いかけであって、その神からの問いはあまりにも大きすぎて、われわれ人間には到底答えかねる。けれども私ども人間は、ことにイースターを迎えるたびに、この神の問いの前に立たされなければならないのだと思うのです。

なぜ神が、人間イエスにならなければならなかったのでしょうか。なぜ神ご自身に他ならないお方が、十字架につけられなければならなかったのでしょうか。なぜ神は、そのお方を復活させられたのでしょうか。これは、そう簡単に答えることのできない問いなのであります。

今日の説教の題を「神の最大の奇跡とは」としてみました。この説教の題はひと月以上前に決めたものですが、その3月の上旬というのは、私自身、神の奇跡っていったい何だろうと、そのことを改めて切実に問うていたのかもしれません。しかしまた他方から言えば、一か月前も二か月前も、今もいつも変わることなく、私ども人間はいつもどこかで神の奇跡を待ちながら、そのことについて諦めているようなところがあると思うのです。神よ、わたしの神よ、なぜわれわれをお見捨てになるのですか。ほんの少しでいいんです、神さまの力を見せてください、奇跡を起こして、われわれを助けてください。神よ、わたしを見捨てないでください。時にそれこそ正気を失うほどにそのことを願いながら、しかも同時に、私どもは、実は神なんか信じていないのです。そうではないでしょうか。ところが、そんな私ども人間のために神が起こしてくださった最大の奇跡とは、イエスの十字架と復活であったと、もしもそういうことであるならば、それはいったい何を意味するのでしょうか。イエス・キリストにおいて神がしてくださったことを、今私どもも突き付けられて……しかしそれは、私どもには到底受け止めかねるほどのものがあるのではないかと思うのです。

■今年1月より、日曜日の礼拝のたびに、伝道者パウロの書きましたフィリピの信徒への手紙を読み続けています。この第2章6節以下が伝えていることも、神がイエス・キリストにおいて何をしてくださったかということです。〈神の最大の奇跡〉がここに描かれている、ここに歌われていると、そのように言うこともできると思います。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。……(6~9節)

この6節以下について、ほとんどすべての聖書学者が同意していることは、これが当時よく歌われた讃美歌であるということです。この手紙を書いたパウロが、この讃美歌をフィリピの教会に教えたのかもしれません。その意味では、パウロにとってもフィリピの教会にとっても、たいへん懐かしい讃美歌であったかもしれません。ことにパウロは、牢獄に捕らえられているときにこの手紙を書いたのです。牢獄の中でもこの讃美歌を口ずさみながら、フィリピで過ごした懐かしい時間を思い起こしていたかもしれません。フィリピの教会の人たちよ、昔この讃美歌を一緒に歌ったね。今は、物理的には一緒に歌うことができないけれども、今こそこの歌を思い出してほしい。歌い直してほしい。神がキリストにおいて、あなたがたのために何をしてくださったか、どうかそのことを、思い起こしてほしい。

なぜそのようなことを書かなければならなかったか、その理由もわりとはっきりしていて、たとえば第2章の最初にはこういうことが書いてあります。

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい(1~4節)。

こういうことをわざわざ手紙に書かなければならないような、つまり簡単に言えば、フィリピの教会の中で、一緒に生きることが難しくなるような事態が生じていたということです。同じ思いに生きることができず、同じ愛に生きることができず、思いも心もてんでんばらばら。その原因となっているのが、利己心であり、虚栄心であると言います。いずれも私どもにも身に覚えのあることですが、そのいちばんの問題は、人が一緒に生きていくことができないということなのです。私どもはいつもそのことで悩みながら、どうしたらいいのか、いつまでたっても分からないのです。

先々週の礼拝でも、フィリピの信徒への手紙第2章の同じ箇所を読みました。その説教の中で、これはまるで幼稚園の子どもに注意しているような言葉だと言いました。「お友達のことも考えてあげましょうね」という、3歳の子どもにも分かるようなことが、何歳になってもできないのがわれわれの正直な姿なのであって、聖書はまさにそこに、人間のみじめさがあると見抜いているのです。先々週の礼拝では、創世記第4章の伝える、カインとアベルという人類最初の兄弟の物語を合わせて読みました。人類最初の兄弟げんかは、遂に兄が弟を殺すところまでいってしまったというこの物語は、決して昔話ではないのです。私どもが愛に挫折しているというこの現実は、結局は世界を丸ごと滅ぼしてしまうのではないかと思われるほどの、頑なな姿を現すのです。

■そのような私どもの前に、神は御子キリストをお遣わしになりました。イエス・キリスト、このお方を私どもは目の前に突き付けられて……このお方の存在が既に、私どもにとってたいへん大きな問いかけなのです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

この人を見よ。このお方は神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執なさらなかったのだ。このお方は、いったい何者なのでしょうか。

ここに「固執」というたいへん強い言葉が出てきます。キリストは、神の身分でありながら、その身分に固執なさらなかった、その身分を捨てる自由を持っておられたと言うのです。「固執」と訳される言葉は、原文のギリシア語ではさらに激しい意味を持っていて、「略奪したもの」というのが元来の意味です。辞書を引いてみると、猛獣の餌食とか、戦争の分捕り品とか、そういう用例が並んでいます。猛獣が牙をむいて、あるいは人間が武器を持って、「それを俺によこせ」。そこまでして、何が何でも欲しいと思って手に入れたものですから、絶対に人には渡したくないのです。それが、「固執する」ということの意味です。ある聖書学者は、「既得権」と訳すのがいちばんぴったりだと言いました。「神と等しくあることを既得権とは思わず」と言うのです。なるほどと思います。キリストは、神の身分に固執なさらず、それを自分の既得権だと主張なさらず、「かえって自分を無にして、僕の身分になり」、直訳すれば「奴隷の身分」になって、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節)というのです。ただ私どもに対する愛のゆえに、そしてただ父なる神に対する従順のゆえに、そうなさったのです。

福音書の伝える主イエスの十字架の出来事の中で、多くの人の記憶に残っていることは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたことだと思います。先週の受難週の祈祷会で、ある長老がこの箇所を説き明かしながら、この瞬間主イエスは、神であることをおやめになったのだと、そう言われました。これは、理屈から言えばかなり大胆な、異端すれすれの発言であると言ってもよいかもしれません。だがしかし、このお方は、神であることをおやめになるほどに、本当に利己心からも虚栄心からも自由であられたのであって、まさにそこに、キリストの神としての全能の力が現れているのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この主イエスの言葉は、多くの人を戸惑わせてきたかもしれません。神の身分をお持ちであるお方にしては、あまりにふさわしくない発言だからです。物事をあまり深く考えようとしない人は、「なんとも情けない、神の子ならもうちょっと立派な死に方をしてほしかった」と、そういう軽薄ことしか考えないかもしれません。けれども本当は話が逆で、神の全能の力が遺憾なく発揮されたところに現れた神の御子のお姿は、利己心や虚栄心のかけらもなく、だからこそ神としての身分に固執なさらず、ただ私どもに対する愛のゆえに、奴隷のごとくなってくださったのです。死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、神に対する従順を貫き、私どもに対する愛を貫かれたのです。利己心の塊のような私どもには逆立ちしたってできないことです。そして、もう一度申します、そこに私ども罪人に対する強烈な問いかけがあるのです。

今、「固執」という言葉について少し丁寧に思いめぐらしてみました。改めて思わされることですが、私どもの罪深さというのは、まさにこの「固執」というひと言に見事に言い表されているように思えてならないのです。これは自分のものだ、これは自分の既得権だと思ったら、そう簡単には手放さないし、もしもその自分の既得権が侵されたと思ったら、ただでは済まさないのです。「わたしの神よ、わたしの神よ、わたしを見捨てないでください、わたしの既得権を守ってください」と、時に狂ったように叫ぶくせに、そのために他人がどんなに傷ついているかということについては、実に鈍感です。利己心と虚栄心の奴隷です。そういう私どもの不自由の罪が、案外ちょっとしたきっかけで、全世界を本当に文字通り焼き滅ぼしてしまうかもしれないのです。

そんな私どもが人間として救われるためには、他のいかなる神の奇跡が起こってもだめだったのです。ただまことの神であられるお方が、奴隷の身分になってくださるほかありませんでした。「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。それ以外に、私どもが罪から救われる道はなかったのです。

■このキリストを、神は死人の中からお甦らせになりました。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです(9~11節)。

今私どもも、お甦りになったキリストを礼拝しております。私どものために十字架につけられたお方の前に、今私どもも立つのです。福音書の伝えるところによると、お甦りになった主の手には、あるいはそのわき腹には、十字架につけられたときの傷跡が痛々しくも残っていたといいます。もしもキリストがご自分の既得権を主張なさったら、決して受ける必要のなかった傷跡を、今私どもは、目の前に突き付けられているのだと気づくべきなのです。誰のために主はこのような傷をお受けになったのか。わたしのためだ、わたしのせいだ、わたしが罪の悲惨から救われるためだったのだと、気づかなければならないのです。しかもそこで、私どもは知ります。このお方が、どんなに私どもを愛してくださったか。利己心も虚栄心も、そのかけらもない本物の愛で、このお方はわたしを愛してくださったのだ。

そのことが分かったら、私どものような者も、利己心を捨て、虚栄心を捨て、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」、そのように生き始めることができるでしょう。もし私どもが、少しでもそのような生活を始めることができたなら、実はそれこそが、〈神の最大の奇跡〉であると言わなければならないのかもしれません。祈ります。

 

今私どもも、復活の主のみ前に立ちます。十字架の死に至るまで、私どもに対する愛を貫いてくださった主イエス・キリストが、今も私どもの礼拝を受けていてくださいます。利己心の塊でしかない私どもが、いったいどの面下げてこのお方の前に立つのかと思わないでもありませんが、けれども神さま、このお方の前に立つ以外に、私どもが救われる道はないのです。愛を失ったこの世界が、どうか今日新しく、主の愛の前に立つことができますように。どうしても頑なな心を捨てることができない私どもですが、それを一所懸命柔らかなものにしようとしてくださるあなたの御子の忍耐の前に、恐れおののく心を与えてください。今あなたの前にへりくだって、隣人のためにも新しい祈りを始め、愛の生活を始めることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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