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キリストの花嫁の輝き

2021年11月28日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第21章9-21節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録。伝道者ヨハネがパトモスという小さな島にいたときに、神がヨハネのために幻を見せてくださった、その記録であります。礼拝の中で、今年の初めからずっとこの黙示録を読み続けてきましたが、今日と来週と、さらに12月19日のクリスマスの礼拝をもって、これを読み終えることになります。私どももこの1年間、実に内容の豊かな幻を見せていただくことができました。けれども、黙示録の伝える幻の中でも最も美しいものは、今日読みました第21章であると、そう言わなければならないだろうと思います。

言葉の限りを尽くして描かれている、この美しい情景は、しかし私ども人間の想像力がついて行けないほどのものがあると思います。おそらく、本来人間の言葉では到底言い表すことのできないはずのことを、ヨハネはようやくこのような言葉遣いで言い表そうとしたのでしょう。皆さんも、一度読んだだけでは、ここに描かれているイメージを正しく捉えることは難しかったと思います。実際、多くの教会の画家たちが、この場面を絵に描こうとしましたが、どうしても描き切れない。どうしても、ヨハネの筆には及ばない。

そういう壮大な幻を、私も何とか読み取ろうと努力しましたし、それを何とか豊かな言葉で語り直したいと願いながら、やっぱりそれは難しい。「でも、まあ、ここでヨハネが見た幻を、現実のものとして見ることができるのは、将来のこと、イエスさまが再び来てくださる終わりの日のお楽しみ。そのときには、『ああ、ヨハネの黙示録に書いてあったことは、こういうことだったんだ。牧師の説教で聞いていたのよりも、やっぱり実物の方がずっとすばらしい』ということになるでしょうね……」という原稿を書いてみて、内心自分で、「うむ。我ながらうまいこと書けた」と思ったのですが、すぐに「ちょっと違うな」と思いました。なぜかと言うと、ここでヨハネは、将来イエスさまが再臨してくださるとき、初めて現れる情景を描いているわけではないからです。もちろん一方ではそういう面もあるでしょうが、しかしそれだけでは理解不十分です。

■9節で、天使のひとりがヨハネに語りかけてくれました。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」。「小羊の妻である花嫁」、すなわち教会のことであります。私どもが今生きている鎌倉雪ノ下教会も、小羊キリストの花嫁です。いや、もっと事柄に即して言えば、皆さんの姿、今ここに生かされている私どもの教会の姿が、このように描かれているのです。「いつかきっと、こういう新しいエルサレムが姿を現すんだから。でも今は全然そうじゃないから我慢の時だけど、楽しみにしていろよ」なんてことを天使はひと言も言っていない。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」。あなたの本当の姿を見せてあげよう。

教会とは何者かということを言い表すために、聖書はさまざまなイメージを用いますが、中でも私どもの心を慰める表現は、教会はキリストの花嫁であるという、この聖書の言葉であります。油断していると、しかし私どもはそのことをすぐに忘れます。そんな私どものためにも、天使が語り掛けてくれます。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」。しばしば結婚式において読まれる、エフェソの信徒への手紙にも、こう書いてあります。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです(エフェソの信徒への手紙第5章25~28節)。

私をも含む、ほとんどすべての夫をたじろがせる言葉でもあると思います。たじろぎながらも、だからこそ同時に圧倒されることは、キリストは、ご自身の教会を心から愛し、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるため」に、そのために、どんな犠牲をも惜しまなかったいうことであります。そのようにして花婿イエスの愛を体いっぱいに受けた花嫁・教会の姿が、たとえば11節ではこのように描かれているのです。

都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。

イエスさまが、ご自身の教会を、どんなに大切にしておられるか。たとえば、この11節を読むだけでも、教会に対する主イエスの愛が満ちあふれていることが、よく分かります。それがよく分かるようになるために、天使はヨハネに語りかけて、「ここへ来なさい」。あなたにも見せてあげよう。小羊イエスに愛された花嫁の姿を。そう言って、10節では、「この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた」と、そう言うのです。

今、私どもも、このようなキリストの花嫁の輝きを見せていただくために、天使に手を取ってもらって高い山に登る。主の日の礼拝とは、まさにそのような時間ではないでしょうか。

黙示録を最初に読んだ当時の教会は、おそらく今の日本の教会よりも、さらに小さく、貧しい教会であったと思います。ヨハネの黙示録は、当時のローマ帝国の支配構造を指差して、「これは獣の支配である」と言わなければならなかったのであります。黙示録を書いたヨハネが、パトモスという小さな島に流されていたのも、おそらくその獣の支配、ローマ帝国の支配と無関係ではなかったと思います。その小さな島で、ヨハネはしかし、かつて一緒に礼拝をした教会の仲間たちのことを忘れることはありませんでした。第2章から第3章にかけて名前が挙げられている七つの教会のことを懐かしく思い起こしながら、何よりも既に殉教しなければならなかった仲間のことを偲びながら、一方では非常に厳しい日々を過ごしていたに違いないのです。「主よ、いつまでですか。獣の支配は3年半だとあなたはおっしゃいました。けれども、とっくに3年半は過ぎたじゃないですか。主よ、いつまでですか」と祈り続ける日々であっただろうと思うのです。そんなヨハネを、天使は高い山に連れて行ってくれて、見るべきものを見せてくれました。

■今日読みました第21章9節以下を説き明かす、ほぼすべての人が指摘することは、第17章1節以下にもほとんど同じ文章があるということです。

さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、わたしに語りかけた。「ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった」。そして、この天使は“霊”に満たされたわたしを荒れ野に連れて行った。わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た(第17章1~3節)。

第17章ではヨハネは荒れ野に連れて行かれ、第21章では高い山に連れて行かれる。そしてそのどちらにおいても、ヨハネはひとりの女の姿を見せられるわけですが、実に対照的です。大淫婦と呼ばれる、一見たいへん美しく着飾った女が神を冒瀆し続けている姿と、キリストに愛された花嫁のうるわしさと。ヨハネが荒れ野で見た大淫婦というのも、将来、いつかきっと、こんなに恐ろしい女が現れるから、心の準備をしておけよ、という話ではないので、今ここにおける現実です。そのために、今私どもも苦しんでいるのであります。

この荒れ野に立つ大淫婦について、ここで何の説明も要らないと思います。私どもも、荒れ野を見ております。私どもの生きる、この国のことです。この世界のことです。私どもの罪が、どうしようもない荒れ野を作り出してしまっています。一見華やかに見えることもある、だがしかし決して人間を真実に生かす力を持たない、荒れ野に立つ大淫婦の不気味な力を、私どもも既によく知っているのであります。けれども、その荒れ野を見つめるだけでは不十分です。荒れ野を嘆き、大淫婦の罪を汚れを嫌ってみせるだけでは、実は何の意味もないのです。そこで私どももヨハネと同じように、天使に手を取っていただいて、高い山に登り、もうひとりの女の姿、すなわち、「小羊の妻である花嫁を」見せていただくのです。

■『季刊 教会』という、われわれの教会の仲間たちが年に4回(つまり季刊で)出している雑誌があります。私どもの教会の長老のひとりが、黙示録の説教を聴いたレスポンスのようなエッセイを寄稿してくれました。まだ刊行されておりませんが、その前に原稿を私にも読ませてくれました。まず私が心を惹かれたのはそのタイトルで、「ヨハネの黙示録の説教を聞く―反ヒューマニズムの書」というのです。ヨハネの黙示録というのは、反ヒューマニズムの書である。人間中心主義、人間の可能性を信じる考え方に対して、徹底的に反対する文書である。これは私が、おそらく説教の中できちんと語り切れていなかったこと、けれども実は、つまりそういうことを語りたかったのだということを、見事に言い当てていただいたので、それだけでも私はたいへんな感謝をもってその文章を読みました。

ここでこの長老の文章を延々と紹介するわけにもいきませんが、その文章の終わり近くで、私がかつて第4章の説教をしたときに引用した矢内原忠雄の文章を、改めてその長老も引用なさいました。矢内原忠雄という人は、80年前の戦争中に、それこそ獣の支配と呼ぶほかない日本政府の弾圧を受けながら、東大の教授であったのに、すべての社会的な立場を奪われたところで、なおヨハネの黙示録を説き続けました。今なお耳を傾ける価値のある言葉だと思います。その矢内原先生の黙示録講義の中に、こういう文章があるのです。

神の国は地にあるものを積み重ねて行つて成るのではない。地の状態を改善して天に達するのではない。神の国は天にあつて既に成つて居るのである。……聖徒の勝利は天にありて既成事実であるのである。我らはただその顕れるのを待てばよい。……されば世の風波が何だ。信仰維持に困難なる時勢が何だ。我らの立場は天にあって、既に勝を得て居るのである。
(『聖書講義Ⅳ』岩波書店、1978年、437頁)

ヨハネの黙示録というのは、ひとつの言い方をすれば、聖書の中でもいちばん悲観的な文書であるかもしれません。まさしく「反ヒューマニズムの書」。人間について、この世界について、徹底的に絶望している。「神の国は地にあるものを積み重ねて行つて成るのではない。地の状態を改善して天に達するのではない」。この地上のどこを探しても、どこをどうひっくり返しても、救いを見出すことはできない。光を見つけることはできない。けれどもその闇の中に、ただひと筋の光が射している。ヨハネはこの第21章に至って、遂にその光を鮮やかに見せていただくことができました。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」。キリストの花嫁の輝き以外に、いったいいかなる光を、この地上に見出すことができるだろうか。

「神の国は地にあるものを積み重ねて行つて成るのではない。……神の国は天にあつて既に成つて居るのである」と、矢内原先生は言いました。神の国は、天においては既に完成している。地上に生きる教会の命の根拠は、天にあります。だからこそ10節では、「聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた」と、教会の姿をそのように描くのです。だからこそ、11節にあるように、私どもの生きる教会というのは、それがどんなに貧しく見えても、「都は神の栄光に輝いていた」。この鎌倉雪ノ下教会も輝いている。花婿キリストは、世界でいちばん花嫁のことを愛していますから、輝いているのは当然なのであります。そして、さらに付け加えるならば、もしもこの世界から教会が失われたら、その瞬間に世界は本当の闇に落ち込むのだと、そう言わなければなりません。「あなたがたは世の光である」と主が言われたとおりであります。

■まだ12節以下について、ほとんどまったく触れておりません。しかし、多くの説明をしなくても、主旨は既に明らかだと思います。たとえば19節以下には、「都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた」と言って、さまざまな宝石の名前が書いてあります。花婿キリストが、世界でいちばん大事な花嫁を、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、栄光に輝く教会」として立たせるために、考えられる限りの装いをもって美しく整えてくださるのであります。こんなに豊かな宝石を夫からプレゼントされた妻は、きっと幸せだろうなと思う方もあるかもしれませんし、そう言えば自分は妻のために、あまりプレゼントとかしたことがないぞと、ぎくりとしておられる男性諸君もおられるかもしれません。もちろんそんなことは本当の問題ではないので、問題は、キリストの花嫁であるはずのこの教会の、いったいどこに宝石のような輝きが見えるかということです。それが絵に描いた餅でしかなかったら、何の意味もありません。「絵に描いた餅」とまでは言わなくても、やはりこれは、終末の時、キリストの再臨の時に、初めてこういった宝石をプレゼントされるということだと理解した方がよいのでしょうか。

19節をもう一度読みます。「都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた」。その「都の城壁の土台」という言葉が、既に14節にも出てきました。「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」。大切なのは、宝石そのものではありません。宝石によって飾られるべき、都の城壁の土台の方が肝心です。この土台には、ペトロとかヤコブとかヨハネとか、十二使徒の名が刻まれていた。それを言い換えれば、この都の土台は、神の言葉を担う人たちであったということです。教会の土台は、神の言葉です。今私どもがここで聞き続けている、神の言葉であります。

この鎌倉雪ノ下教会にも、「これぞ教会の宝」と言うべき多くの豊かなものがありました。昨年来の疫病流行により、そのほとんどすべてを叩き壊されたように感じるところが、ないわけでもありません。またオミクロン株とか第六波とか、さまざまな言葉が私どもの心を波立たせておりますが、しかしこの1年9か月の間、神はどんなことがあっても、この教会にみ言葉を聞かせ続けてくださいました。しみもしわもない花嫁のように、この教会を守り、また美しく装ってくださいました。教会の輝き、花嫁の輝きは、神の言葉の輝きです。もちろん、そのみ言葉を聞く私どもの存在そのものが、神のまなざしにおいては美しく輝いているのです。

クリスマスを前に、少しずつですが、訪問聖餐を再開しています。ふだんこの場所に来ることができない教会の仲間を訪ねて、聖書を読み、短い説教をし、そして主の食卓を祝います。先日もある高齢のご婦人を2年ぶりにお訪ねしました。教会の仲間に囲まれて、何よりも神のみ言葉そのものである聖餐にあずかりながら、どんどん顔が明るくなっていくその姿は、まさしくキリストに愛された花嫁の姿、そのものだと思いました。神の言葉を土台として、キリストの花嫁は輝く。その土台を飾るさまざまな宝石というのは、実は、私どもひとりひとりのことであるのかもしれないと、私は思いました。今、私どもも、神の霊とみ言葉に導かれて、小羊に愛された花嫁の輝きを新しい思いで見つめ直したいと願います。お祈りをいたします。

 

どうかご覧ください。ここに、あなたの御子キリストに愛された、小羊の花嫁が生きております。あなたのみ言葉によって、今朝また新しくこの教会を励まし、慰め、うるわしく装ってくださいます。荒れ野に立ちながら、なお望みをもって、あなたの勝利を、命の勝利を告げ続けることができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン

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