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今や、恵みの時 

2013年1月1日

コリントの信徒への手紙二 第6章1-10節
大澤 正芳

元旦礼拝

 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

今日から主の年2013年が始まりました。私たちはこの年も私たちへの愛ゆえに、遂に人となって、この世界に来て下さった、子なる神の御降誕を覚えながら、今日から始まる新しい年を主の年2013年として数えるのであります。

私たちはこの年を主の年として覚えることは、この年もまた、全ての日々を神様がご自身のものとしてご支配なさるのだと、私たちは信じているということであります。

この新しい主の年の、最初の日、私たちが聴く主のみ言葉は、変わることがありません。しかし、またそれは、新しい言葉として聞きたい言葉でもあります。それは神様の恵みが、今日も私たちに注がれているということであります。

今日共にお読みしましたコリントの信徒への手紙2において使徒パウロは言います。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」であると。

恵みの時とは、いったいどういう時でしょうか。恵みの時とは、神様が無償の贈り物を私たちに下さる時だとカルヴァンは言いました。その贈り物を頂く時、私たちは心の底から安心して、「あ~、助かった」と言うことが出来る救いの日なのです。そういう無償の贈り物が贈られる今を、パウロは高らかに宣言しているのであります。

今や恵みの時、今こそ救いの日。この恵み、この救いとは一体何なのでしょうか。神様が下さる恵み、神様が下さる救い、神様が下さるプレゼント。それは、イエス・キリストにおいて私たちが神様と仲直りした、和解した、その事に他なりません。

イエス・キリストの出来事によって、その十字架と復活によって、私たちが神様から正しい者と認められた、神様に義とされた、その贈り物であります。

神様に義とされる、神様に正しい者と認められると言うことが、なぜ、恵みであり、なぜ、救いなのでありましょうか。そんなのは、腹の足しにもならない、信仰の論理に生きる者にとってだけ意味のある、あまりに宗教的な恵み、救いとお感じになってはいないでしょうか。しかし私は、初詣に向かう人の群れに向かって、こう語るのならば、いまだかつて教会に足を一歩も踏み入れたことのない人であっても、その中の誰かには何の説明もなしに響き、衝撃を与える言葉、それが私たちの聞く福音であると思います。

私たちは、いつのまにか、教会の語る恵み、教会の語るイエス・キリストの出来事は、神様との仲直りは、教会の中の人しか響かない専門用語のように思ってしまいます。それゆえに家族や友人を礼拝に誘うことを躊躇してしまいますが、私は、この冬この教会に新たに与えられた5人の受洗者たちの信仰告白の言葉を聴きながら、福音の言葉は、誰もが心の奥底では、聞きたいと願っている真実の言葉である。本当の言葉であると改めて、実感いたしました。

私たちがどんなにちっぽけで、取るに足りない者であるとしても、人にも神にも喜ばれることのできない無価値な罪人であったとしても、神様は私を捨てない。これが福音の言葉です。教会のメッセージです。

天の父より送られたイエス・キリストは、ご自分の目にすら不必要な私たちを、命を捧げて買い取り、「あなたはわたしのものだ」と宣言して下さるのであります。

私たち人間は、いつでも人の顔色を気にして生きているところがあります。惨めで無価値な存在であることを誰もが心の奥底では、よく知っているから、誰かにそうじゃないと言ってもらいたいのです。だから、世間の目を気にするのであります。うわべを取り繕うのであります。

ところが、私たちにもたらされた福音は、人の顔色と評価から私たちを自由にするのであります。人には決して見せることが出来ない、それを知られれば、私たちは本当に生きている価値などないことを証明する他ない、私たちのずるさを、私たちの暗闇を、私たちの罪を、全てご存知の神様が、イエス・キリストにおいて「それでもお前は正しい」と、そう言ってくださるのです。

イエス・キリストにおいて「お前は私の目に高価で尊い」と言って下さるのです。ちっぽけで、邪悪で、罪にドロドロにまみれている私たちをすべてご存知のうえで、神様がそうおっしゃってくださるならば、もう他の何もいらないのです。

この言葉を聞いた今が恵みの時、今日が救いの日となるのです。「今や恵みの時」。別の翻訳では、今や喜ばしい時だとされています。元のギリシア語も喜ばしい時というニュアンスをもつ言葉です。

神様が無償の贈り物を贈ってくださり、生きていく上でなくてはならない本当の言葉を与えてくださる救いの日、恵みの日とは、喜ばしい時であります。この日は毎年めぐってくるお正月の喜ばしさ、めでたさよりも、ずっとずっと喜ばしい時であります。

ところが、確かに私たちは、この恵み、喜びを簡単に忘れてしまう者でもあります。パウロは、「神から頂いた恵みを無駄にしてはいけません」と語り、今が恵みの時であり、救いの日であることをもう一度思い起こすようにと言うのです。

このような恵みの時、救いの日に目を覚ますようにと呼びかけられているのは、恵みを全く知らない者ではありません。救いを知らない者ではないのです。富と快楽の町、欲望と堕落の町、コリントにあって、イエス・キリストの福音を信じ、教会に加えられ、キリストの体の一部とされた者達に向かって語られているのです。

「神から頂いた恵みを無駄にしてはいけません」私たちは、神の恵みを頂いてなお、その恵みを空しく、浪費してしまう可能性があるのです。

神様が下さるこの恵みを無駄にしてしまうとは一体どういうことでしょうか。

「私はお前に恵みを降り注いでいる。お前の願いに耳を傾けている。お前を救い、お前を助ける。誰が何と言おうと、お前は義しい者とされ、私のものとなったのだ。」というキリストを通して響く神様の呼びかけを忘れ、人の評価を得て、満足を得ようと逆戻りすることに他なりません。

コリントの信徒への手紙第二全体を読むときに、既に、コリントの信徒への手紙第一でも明らかになりつつあるのですが、コリントの教会の人々がいつの間にか、この世的に見栄えの良いもの、力強いもの、魅力的なものを求め、そこに価値を置く生き方に逆戻りしていたことが窺えます。

今日与えられました箇所の少し前の5章12節には、教会の中に「外面を誇っている人々」が、いることが示唆されています。しかもその人々は教会全体を方向付ける指導的な立場に立っているというのです。

教会の中に、いつの間にかこの世の基準が持ち込まれ、それによって、良い悪いと評価し合っているコリントの教会の人々の姿がそこに浮んでくるのであります。良い大学、良い就職先、良い給料、良いルックス、人よりも良いものが与えられたら、やはり、誇らしいし、自慢したくもなります。そういうものを持っている人がいたら、羨ましくもなるし、気後れしてしまうこともあります。しかし、それだけが教会を支配する物指しとなり、教会の語るメッセージとなるならば、外面的にいかに立派な群であっても、その教会は死にかかった群なのであります。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」、と神様は呼びかけます。私たちもまた、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と神の大使として語ります。特別な人々ではなく、すべての人にそう宣言するのです。「あなたは祝福されている。あなたも祝福されている。」この言葉を私たちは健康と財産と才能に恵まれた人だけではなく、貧しく病み、死にかかっている人に、「あなたも祝福されている」とそう呼びかけるようにと召されているのです。

ところが、私たちは躓きます。神さまの祝福を信じきることがなかなか出来ません。大胆に祝福を宣言することができません。

なぜならば、恵まれ、救われたはずの私たちの毎日が、祝福に満たされたものとは到底見えないからであります。

私たちが生きている現実の日々は、厳しく、しんどいものですから、この日々が、恵みと救いの日々である、置かれた状況が、祝福された喜ばしい日々などとは到底思えないのであります。

コリントの教会の人々が、パウロが宣べ伝えた喜びから徐々に逸れてゆき、この世の評価に逆戻りしたこと、パウロを神の大使として受け入れることに躊躇し出したことも実に、ここに理由があります。パウロの生き方を見る時、そこに祝福された人生と、祝福された人格を見出すことが難しかったのです。

4節以下にパウロの日々が記録されています。

忍耐、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓、これらがパウロの日々に満ちていました。その生涯の途上、復活のキリストに出会い、突然、神に捕えられたこの人の日々は、祝福ではなく、呪われた者の日々に見えるのであります。

パウロの日々は、創世記のカインのように追放された者の日々、さすらう者の日々のように見えてしまうのです。

パウロは3,4節で、自分は福音が馬鹿にされないように、自分の生き方によって、福音が軽くあしらわれないよう、人が福音を受け入れないということが起こらないように、神の僕としての実を示すように、懸命に生きていると言います。ところが、そこから語られるパウロの日々も、パウロの人となりも、コリントの教会の人々にとっては躓きであったのです。

日々押し迫る困難の中にあって、福音が非難されないようにと、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、生きようとしているパウロの姿もまた、その子羊のような生き方によって、「面と向かっては弱腰で、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われてしまっていたのです。

神様に祝福された人であり、神様に祝福された日々ならば、なぜ、苦しみに遭うのか。弱々しく、みすぼらしく、惨めな人であるのか。そう人は思うのです。だから、自分が祝福された恵みと救いの日々を生きているかどうか、確認するための、この世の物差しを持ち込んでしまうのです。それに当てはめて、自分は祝福されているのか、あの人は呪われているのかを量ろうとしたのであります。

いついかなる時も、恵みの日々を生きている。救いの日々を生きている。祝福された者の日々を生きていると信じることは、なかなか難しいものであります。これを聞き続けることは人間業ではありません。

私たちは一人では、そのことを信じ続けることはできません。だから、教会に来なければなりません。礼拝において神様の言葉を毎週聞かなければなりません。そこで何度でも神様のお言葉を聞き、私たちが何者であるかを思い起こし続けなければなりません。

主イエスは貧しい者を幸いな者と呼ばれ、飢えている者を幸いな者と呼ばれ、憎まれ、ご自身のゆえに追い出され、ののしられ、汚名を着せられる者を幸いな者と呼ばれたのです。そのことを聞かなければなりません。

私たちは誰の言葉を信じるのでしょうか。誰の言葉を聴くのでしょうか。私たちのことを一番大事に思って下さる方の言葉を聴こうではありませんか。この世界を創られ、今もこの世界を支配しておられる神の言葉を聞こうではありませんか。その方の言葉以上に信頼に値する言葉などありません。

私たちは祝福された者であります。苦しんでいる者にあなたは神様に祝福されていると語る私たちは、嘘つきと呼ばれるでしょう。私たちはこの世においては無名でちっぽけで、死の陰に脅かされ、大した人間じゃないというレッテルを貼られ、悲しみに取り囲まれながら生きなければならないのです。それが、目に見える現実であります。

しかし、私たちは、私たちのその外面的な生き方を超えて響いてくる神の言葉を聞かなければなりません。私たちがその言葉にしっかりと捕えられるとき、キリストの愛にしっかりと捕えられる時、私たちを低く見積もる苦難も言葉も、私たちの祝福を損なうものではないことが、むしろ、私たちの祝福の素晴らしさを確信させるものであることが分かるようになるのです。

この世の言葉ではなく、神の言葉に身を委ねるのです。

この世界が私たちに語る栄誉も辱めも、悪評も好評も、私たちを名付ける最後の言葉とならないということを肝に銘じたいと思います。それらは私たちを名付けることはできません。

私たちは、左右の手に義の武器を持ち、この世の評価という剣を打ち砕き、この世の評価という矢を打ち落とさねばなりません。

左右の手に持たれた義の武器とは何か。私の正しさではありません。キリストにおいて無償で義とされた、神が下さった神の義に他なりません。

私たちは、神の義によって身を守るのです。

私が一体誰で何者であるかを語ることが出来るのは、神様だけであり、このお方は、私たちを、「祝福された者、幸いな者」と今日この時も呼んで下さいます。神の言葉を信じるのです。

しかし、もしも、言葉では足りないと言うのなら、思い起こして頂きたいのです。神は私たちが、祝福を信じるために、私たちが目にし、耳にし、手で触れることのできる贈り物として、御子イエス・キリストを送り、私たちがそのお方を通して語られた神の祝福を全身全霊で味わうために、聖餐のパンと杯をお供えになりました。

御言葉を聴き、聖餐のパンと杯を頂くとき、その時こそ神様が私たちを愛しておられること、私たちを祝福されていることが、私たちの心と体で確認されるのであります。

この会堂の外を一歩出れば、人の波があります。神社に行き、おみくじを引き、今年一年の吉凶を占うのであります。

良い2013年になるのか、悪い2013年になるのか。祝福の2013年となるのか、呪いの2013年となるのか。自分は祝福の子なのか、呪いの子なのか。

しかし、本当はくじなど引く必要はありません。どのようなくじを引こうが、どのような災厄が実際に起ころうが、神様は、私たちを恵み、私たちを祝福していて下さいます。

この2013年も、主の年であり、恵みと救いの2013年なのであります。

私たちは今からこの福音の言葉を携えて、世に遣わされていきます。どうぞ、順境と逆境に一喜一憂し、大吉と末吉に、一喜一憂する世の友に、語ってください。

この年は、誰が何と言おうと、どんなことが起ころうと、このわたしにとって、あなたにとっても、大吉の日々であると。

あなたが本当に必要としている言葉は、私に語りかけて下さる神様が、あなたにも今語りかけて下さるからだと。

神様はおっしゃいます。

「あなたがどのような者であっても、あなたの罪は独り子イエス・キリストによって贖われた。あなたに呪いの日々は一日もない。あなたは私と仲直りした。私は、父としてあなたの日々を導く。この2013年もまた、私の恵みの年、救いの年である。誰が何と言おうと、どんなことが起ころうと、私はあなたを愛する。私があなたを認めている。あなたは私のものだ」。神の言葉に深く耳を傾けたいと思います。祈りを捧げます。

主イエス・キリストの父である神様、あなたは新しい年も私たちを祝福してくださる祝福の父であります。順境の時も、逆境の時も、私たちが何者であるかを語ることができるのはあなただけです。そしてあなたは私たちを祝福されたものと呼んでくださいます。私たちだけではありません。私たちがこの会堂を一歩出たその外に、私たちの目に映る全ての人を祝福された者と呼んでくださいます。どうぞ、私たちが福音の言葉を携え、貧しい者、病む者、気落ちする者、全ての者にあなたの祝福を語り続けることができますように。イエス・キリストのお名前によって、この祈りを御前にお捧げいたします。

アーメン

 

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