復活の朝
マタイによる福音書 第28章1-15節
川崎 公平
主日礼拝
■今朝の説教の題を、「復活の朝」といたしました。十字架につけられた主イエス・キリストが、墓の中から出てこられた、復活の朝であります。もともと、キリスト教会が日曜日の朝に礼拝をしているのも、主イエスがお甦りになったのが日曜日の朝であったからです。今朝私どもが礼拝をしているのも――その場所は、教会堂でも、それ以外の場所のどこでもいいんです――どこであっても、私どもが毎週日曜日の朝にしていることというのは、お甦りの主イエスをお迎えして、このお方を礼拝するということです。いや本当は、私どもが主イエスを迎えるという言い方はおかしいので、お甦りになった主イエスが、私どもを迎えてくださる。今日読みましたマタイによる福音書第28章9節というのは、私どもの礼拝の姿をそのままに描いたものであります。
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
お甦りになった主イエスが、このふたりの婦人を迎えてくださいました。「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」。それが、今私どものしている礼拝です。
■そのような場所において聞くべき主の言葉が、ここでは「おはよう」と伝えられております。朝の挨拶、「復活の朝」の挨拶ですから、「おはよう」というわけです。これは、他の福音書には伝えられていない挨拶で、しかも新共同訳聖書になって初めて現れた表現です。かつての口語訳聖書では、「平安あれ」と訳されました。そういう厳粛な感じの挨拶が、新共同訳になったら「おはよう」と、急にくだけた雰囲気の言葉に置き替えられました。個人的な感想を申しますと、初めてこの新共同訳聖書を読んだときに、ちょっと軽薄ではないか、お甦りになった方が、開口一番、お語りになった言葉が、「やあ、おはよう」というのはいくら何でも、と思ったことがあります。もちろん誤訳などではありません。むしろ口語訳の「平安あれ」の方が少しおかしいので、原文を直訳すると、「喜びなさい」という表現です。ただギリシア語においては、その「喜びなさい」という言い方が日常の挨拶として用いられ、興味深いことに「おはよう」も「こんにちは」も「こんばんは」も、さらに「さようなら」も全部同じように、「喜びなさい」という言い方をしたと言われます。
「おはよう」というのはしかし……落ち着いて考えてみますと、この状況で、この文脈で、「おはよう」という言葉を口にすることができるのは、死に打ち勝ってくださったお方のほか、誰もいないのではないでしょうか。お甦りになった主イエスでなければ、誰も決して口にすることのできなかった挨拶、それが、この「おはよう」という言葉ではなかったでしょうか。
個人的なことで恐縮ですが、私の祖父は、今の私とほぼ同じ年齢で死んでいます。九州の教会で牧師をしておりました。毎日元気に、忙しく走り回るような生活であったと聞きます。夜いつものように布団に入り、けれども翌朝、目を覚ますことはありませんでした。「おはよう」と言うことができなくなる日が、いつか必ず来るということを、私どもは実はよく知っているのです。けれども私どもは、その事実を、望みをもって見つめることが許されています。復活の朝、日曜日の朝の礼拝こそ、その望みを新しくいただく場所です。今ここで私どもは、お甦りの主の「おはよう」、「喜びなさい」という命の挨拶に迎えていただくのです。それで私どもも、あの婦人たちと同じように、主イエスに「近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏」すのです。
昨年、やはりまったく突然に地上の命を絶たれた教会の仲間の葬儀をいたしましたときに、その方の愛誦聖句であった詩編第30篇を読みました。
泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる(6節)。
この方の葬儀は、本当に突然のことで、それだけに、とりわけご家族はたいへんつらい思いをなさいました。「泣きながら夜を過ごす人にも」と詩編は歌いますが、葬儀を終えて、火葬も終わって、骨壺だけを抱えて家に帰り、けれどもそのあとの夜が、もしかしたらいちばんつらい時かもしれないと思いました。けれども神は、「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。この朝というのは、ふつうの意味での翌朝、という話ではないでしょう。私どもひとりひとりに与えられる復活の朝です。私どもの信仰は、死んだら天国に行ける、天国に行ったら愛する者に再会できるというような信仰ではないのであって、朝を待つ信仰であります。いつか必ず、主イエスが私のためにも、甦りの朝を迎えさせてくださる。そのときにも改めて、「おはよう、もう朝だよ」という、主イエスの命の挨拶を聞かせていただく最後の朝を、私どもは待っているのです。最後の朝というのはつまり、その最後の朝が来たら、二度と夜は来ない。泣きながら過ごす夜は、もう二度と来ない、最後の復活の朝を、私どもは待っているのです。
■ここで、ふたりのマリアが経験したことは、その最後の復活の朝を先取りするような、最初の復活の朝であります。その最初の復活の朝のことを、マタイによる福音書は、このように書き始めています。
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った(1節)。
この箇所を解説するすべての人が指摘することは、この「見に行った」という表現に、マタイは特別な力を込めたであろう、ということです。ただぼんやり眺めるんじゃない。じっと見つめる、というような、強い意味の言葉です。よく見て、注意深く観察して……。そういう意味のギリシア語から、英語のセオリーという言葉が生まれました。よく見て、よく観察して、考え抜いた結果としての理論とか学説とか、そういう意味の言葉です。
ここでもふたりのマリアは、墓を見に行った。何となくぼんやり眺めたのではなくて、よく見て、よく考えて……。それだけ、この女たちは信仰が深かった、信仰が立派だったという話ではありません。6節で天使が、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と言っているように、このふたりも、「かねて聞いていた」のに、その聞いていたことをすっかり忘れていたか、覚えていても信じていなかったからこそ、イエスの遺体があるはずもない墓を訪ねたのです。けれどもここでマタイが、このふたりは「墓を見に行った」のだと書いたのは、神が見るべきものを見せてくださった、ということです。すべての人よ、これを見なさい。最初の復活の朝、この墓において起こったことを、注意してよく見なさい。ぼんやり眺めているのではだめで、よく見て、よく考えなさい。
■そこで、このふたりのマリアがまず見せられたことは、まず2節にこう書いてあります。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
ここで天使が転がした石というのは、遺体を納めている墓の入口に、蓋をするように置かれた石のことであります。その石を、けれども主の天使がわきへ転がし、しかもその石の上に、どっしりと座り込んでしまったというのです。
その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった(3~4節)。
ふたりのマリアは、この様子をそれこそよく見て、おそらくぶるぶる震え上がりながらも、そこで神に見せつけられた事実は、ただこのふたりの婦人の生涯を励ますものとなったとか、そんな小さな話ではない、ここでこのふたりは、世界の歴史がひっくり返った、その姿を見たのであります。天使が、石を、動かし、その上に座ったのであります。
この「石」というのは、たいへん象徴的な意味を持っていると思います。マタイによる福音書に限らず、四つの福音書すべてが、この墓の入口の石が神の手によって取り除けられたことを伝えます。私どもを死の恐れの中に閉じ込めて、私どもの力ではどうしても動かすことのできない、死の石であります。本当の意味で、この石を動かすことができる方は、神以外にない。神の委託を受けた天使以外には、誰もこの石を動かすことはできなかった。けれども最初の復活の朝、その石は神の手によって転がされ、しかもそれが、天使の尻に敷かれてしまったというのは、まさに死の力が神の尻に敷かれてしまったということであり、二度とその死の石が立ち上がることはできなくなったということでしょう。その確かな神の命のご支配の中で、ふたりのマリアは「恐れるな」、怖がることはないのだと、天使の告げる約束を聴き取ることができました。5節以下。
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5~6節)。
よく見なさい。空っぽになった墓を、あなたがたは、よく見るのだ。これを見たならば、当然さらに、ふたりのマリアには新しい使命が課せられました。
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」(7節)。
あなたがたがここで見たこと、そして聞いたことを、伝えに行きなさい。ですからある人は、この女性たちのことを「最初の伝道者」と呼びました。それで8節では、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。伝道に生きる私ども教会の姿が、そのままに描かれていると言うべきであります。
■そのように、「恐れながらも大いに喜び」走り出したふたりの女性を出迎えてくださったのが、「おはよう」、「喜びなさい」という復活の主の挨拶でした。「喜びなさい」とおっしゃった主イエスですが、私が改めて思うことは、ここでいちばん喜んでおられたのは、主イエスご自身に他ならなかったと、そう思うのです。なぜかと言うと、この復活に先立つ十字架の死は、主イエスにとって、決して生易しいものではなかったからです。神が、死の石を動かしてくださったと申しましたが、けれどもこの死の石は、主イエスにとっては、こんな石、どうってことない、という話ではなかったのです。
主イエスが十字架につけられたとき、その最後の最後に、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。死の石に押しつぶされて、あるいは死の石に閉じ込められて、「神さま、助けて」とどんなに叫んでも、その大きな死の石をどんなにゆすっても叩いてもびくともしないという絶望の経験を、主はなさったのであります。「神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか。どうしてこの石は動かないのですか」という経験をなさった御子イエスを、父なる神が死者の中から引き上げてくださったとき、そのとき誰よりも確かな喜びを与えられ、慰めを与えられたのは、主イエスご自身であった。そのようなお方の、「喜びなさい」という挨拶は、他のいかなる慰めにもまさって、私どもを力強く支える喜びとなるのです。このふたりのマリアに象徴されるキリストの教会は、この喜びによって立つのです。
■今日何度も言及している、9節の「おはよう」、直訳すれば「喜びなさい」という主イエスの挨拶ですが、おそらくマタイによる福音書は、この言葉に特別な、またさまざまな思いを込めたと思います。なぜかと申しますと、これはギリシア語の日常の挨拶であったと言いましたが、実際に新約聖書でこの挨拶が使われることは、実はそれほど多くありません。マタイによる福音書全体で3回、それでも他の福音書に比べれば多い方です。その3回のうち、1回はこの箇所、あと2回はいずれも受難物語の中に出てきます。
ひとつは第26章49節。弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、主イエスを裏切って引き渡そうというときに、確実にイエスを捕らえるための合図として、「先生、こんばんは」と言って口づけをしたと書いてあります。「こんばんは」「先生、喜んでください」。考えられないほどの皮肉ですが、そのようにして「喜びなさい」という挨拶が、人間が神の愛を裏切る合図として用いられたと、マタイは書いています。
もうひとつは第27章29節。ピラトの兵士たちが、既に鞭で打たれてぼろぼろになっていた主イエスを、徹底的にいじめ抜いたという箇所です。主イエスに王様の格好をさせて、その前にひざまずいてみせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言ってからかったといいます。「万歳」というのも、同じ「喜びなさい」という言葉です。ここで多くの言葉を重ねる必要はないと思います。神の御子イエスを苦しめ、押しつぶした死の石というのは、実は私どもの罪の石であったかもしれないのです。
けれども、そのような私どもの罪の石、死の石が、神の手によって取り除けられて、そこから出てこられた主イエス・キリストが、今私どもにも、「おはよう」、「喜びなさい」と呼びかけてくださったことを思うとき……それは、私どもにただ死後の望みを見せてくれるというような話にとどまらないと思うのです。この復活の朝の、主の命の挨拶は、神が勝利者であることの確かなしるしであります。死の力を屈服させてくださった神の、勝利宣言のような挨拶であることに気づかされます。
主の日の礼拝において、私どもも、この命の主であるイエスの、命の挨拶の前に立たされます。この方の前にひざまずき、このお方の命をいただいて生きるのです。祈ります。
日曜日の朝、御子イエスの前にひざまずき、その御言葉をいただく礼拝の時を、改めて感謝いたします。御子イエスを死人の中から起こしてくださった父なる御神、今私どもにも、命への目覚めの挨拶を聞かせてください。死に勝つ喜びの中に、私どもを休らわせてくださるのは、ただあなただけです。半年前には誰も考えもしなかったような試練の中にある教会を、またこの世界を、御子の命によって支え、生かし、慰めてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン