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奇跡の向こう側

2025年8月24日

ヨハネによる福音書 第6章1-15節
柳沼 大輝

主日礼拝

 

私たちはときに神に対して「奇跡」を求めます。自分がいま祈り求めているものを目に見えるかたちで示してほしいと神に願います。そうであれば、もっと神様の愛を近くに感じることができるのに、神の願い、御心を深く知ることができるのにと考えます。

しかし本当にそうでしょうか。いまここで目に見える仕方で偉大な「奇跡」が起こったとしたら、そのようなかたちで、自分の必要が満たされたとしたら、私たちは本当に神様の願いを知ることができるでしょうか。

本日の聖書の箇所は「奇跡」の場面であります。この「五千人の給食」と呼ばれる偉大な奇跡は、本日、お読みしているヨハネによる福音書以外にも、マタイ、マルコ、ルカと4つの福音書すべてが記録している「奇跡」の物語であります。それほどこの「奇跡」は偉大であり、それを目撃した人々に「衝撃」を与えたのでありましょう。

それでは、この偉大な「奇跡」を目の当たりにした者たちはこの「奇跡」に込められた主イエスの本当の願いを知ることができたのでしょうか。残念ながら、その答えは否であります。

物語の中盤、6節にはこう記されております。「ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」。主イエス・キリストがここで「奇跡」を起こされたのは、単なる「偶然」ではなかったということであります。主イエスはこのときそこに集まった何千人もの人々に食べ物を与えようとはっきりと考えておられました。

しかし、それだけではないのです。主イエスはただそこにいる人々を「満腹」にさせようとだけ考えられたのではありませんでした。

最後15節を見てみますと「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた」とあります。人々は偉大な「奇跡」を目の当たりにして、主イエスを自分たちの「必要」を満たしてくれる、自分たちの「飢え」を満たしてくれる偉大な「王」にしようとしたのです。しかしその人々の行動は主イエスをまた独り山に退かせる結果となってしまいました。人々は主イエスの願いを知ることができなかったのであります。

この前に描かれている「奇跡」の場面が輝かしいのに比べると、この「結末」は少々寂し過ぎるような気がしないでもありません。

しかしこの輝かしい「奇跡」の場面と、「結末」の寂しさとの対比が私たちに大切なことを示しています。それはつまり主イエスが人々に食べ物を与え養われたとき、主イエスは人々にもっと何か別の反応を期待しておられたということです。

養われた人々の方は主イエスを「王」にしようとしましたが、このことは主イエスが願っておられることとは違うことでありました。主イエスの願いと人々の願いとがここですれ違いを起こしているわけであります。

さて、いま「すれ違い」という言葉を使いましたが、主イエスを「王」にしようとした人々の願いと主イエスご自身の願いとの間には、食い違いがあるということです。けれどもこの「食い違い」「すれ違い」というのは少し丁寧に考える必要があります。

同じヨハネによる福音書をずっと読み進めていって、第18章に辿り着きますと、そこには主イエスが総督ポンテオ・ピラトから尋問を受ける場面が出て来ます。そこで主イエスは「私の国は、この世のものではない」(36節)と言われた、と伝え記されています。そしてこの言葉からすれば、主イエスは「自分は王だ」と言っている、とそう読めるわけであります。「私の国」と言えるのは、自分が「王」であるからに違いありません。そこでピラトが「それでは、やはり王なのか」(37節)と言うと、主イエスは「私が王だとは、あなたが言っていることだ」とお答えになりました。

この答えがいったいどういう意味であるのかについては、解釈が難しいところでありますが、おそらくある学者が言っているようにここで主イエスは敢えて曖昧な答えをしていると読むのがよいでありましょう。別の言い方をすれば、ピラトの答えは必ずしも間違っているわけではないということです。やはり主イエスは「王」なのであります。

このことを踏まえて、第6章に戻って、人々の反応を見てみますと、人々が主イエスを「王」にしようとしたというのもまったくの的外れではなかったということになります。ちょうどピラトが主イエスを「王」と呼んだのがまったくの間違いではなかったのと同じことです。けれども、主イエスはピラトの言葉をよしとされたのでもなければ、けっして人々の願いをよしとされたわけでもありませんでした。

繰り返しますが、もちろんピラトも人々も完全に間違ったわけではありません。けれどもそこに「ズレ」があるのです。そしてその「ズレ」を主イエスは受け入れられないのです。この「ズレ」を大目に見るわけにはいかなかったのです。この「ズレ」を、そのまま放置していたのであれば、大変なことになってしまうからであります。そこで主イエスは、再び独り山に退かれました。

主イエスが「奇跡」を通じて伝えようとしておられたことと、人々が「奇跡」を通じて受け止めたこととの間にはこういうわけで微妙な、しかしとても大きな「違い」がありました。

もっともこれは別に珍しい話ではありません。私たちの言葉にしてみても、通じると思って語ったのにとんでもない「誤解」をされるということがよくあります。そのために深刻な問題になることもあれば、それこそ笑い話になって伝えられることもあるでしょう。ただ本日の聖書の箇所が、私たちが普段、経験するような言葉の行き違いと異なっていることがあるとすれば、ここで「奇跡」が絡んでいるということだと言ってよいでありましょう。言い換えれば、「奇跡」をどう受け止めるかがここで大切な鍵になってくるわけであります。

それではいったい「奇跡」とは何でありましょうか。ちょうど手元にあった国語辞典で「奇跡」という言葉を引いてみますと「ありそうもない不思議な出来事」と書いてありました。「ありそうもない不思議な出来事」、それが「奇跡」だと言うのです。

たしかに本日の箇所で、主イエスがわずかばかりのパンと魚とを増やされて、何千人もの人々に十分なほどに食べさせられたという「出来事」は「ありそうもない不思議な出来事」だと言ってよいでありましょう。

しかしご存じのように聖書には数多くの「奇跡」が記されています。主イエスがなされた「奇跡」だけでもその数は少なくありませんし、新約聖書だけでなく、旧約聖書にもたくさんの「奇跡」が語り記されております。それではこの「奇跡」というものを私たちはどのように考え、「奇跡」というものと、どのように向き合っていったらよいのでありましょうか。

多くの者たちが「奇跡」などあり得ないと考えます。いくら祈り願っても自分たちが望んでいるように「病気が治るわけではない」「悲しみが消えるわけではない」。そのように「奇跡」など起きないのだから、聖書に書いてある「奇跡」は、単なる作り話だと考える。またある人は、聖書に書いてあるのだからと、信仰の思いでどこか疑いがあるとしても、それでも無理やり信じようとする。けれども「奇跡」との向き合い方は、こういった考え方しかないのでありましょうか。

先ほど、私たちが聖書から聴いたのは主イエスが「奇跡」を通じて語ろうとしておられたことと人々が「奇跡」を通じて受け止めたこととの間には微妙な、しかしとても重大な「ズレ」があったということでありました。主イエスが「奇跡」を通して語られたことが人々には上手く伝わらなかったということであります。

本日の箇所の14節、あるいは、2節にも出て来る言葉でありますが、ヨハネによる福音書は「奇跡」を「しるし」と呼びます。「しるし」とは何か。「しるし」というのは「自分とは違う」何か別のものを指し示すものであります。

そうすると本当に大切なものは「奇跡」そのものというよりも「奇跡」が指し示そうとしているものであると言わなければなりません。主イエスが「奇跡」を通じて伝えようとしたことの方が、「奇跡」そのものよりもはるかに大切なのです。「奇跡」は「奇跡」だから大切なのではありません。そうではなくて「奇跡」はもっと大切な何かを伝えようとしているから大切なのです。もしその大切なことを聴き逃しているのであれば、そのことに気づかないのであれば、どれほど熱心に「奇跡」について語ろうと、考えようと、それは空しいことでしかないのであります。

「ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)。主イエスは「奇跡」を起こそうとされただけではなくて、その「奇跡」を通して、はっきりと「あること」を伝えようと心を決めておられました。

ですから、ここで私たちも心を決めなければならないでしょう。主イエスが「奇跡」を通して、何を語ろうとしておられるのか聴き取りたいのであります。そうでなければ、私たちは「奇跡」という「出来事」にだけ心を奪われて、結局、主イエス・キリストというお方を「誤解」してしまうことになるでありましょう。そうやって主イエスが避けようとされたあの微妙な、しかしとんでもない結果を招く「ズレ」が私たちの信仰に入り込んで来てしまうことになるでありましょう。

そして、もしそういうことになるとするならば、主イエスは私たちに対しても、この15節にあるように独り寂しく退かれることになるのかもしれません。しかし、もちろんけっしてそのようになっていいはずがないのであります。

それでは、ここで主イエスがこの「奇跡」を通して、私たちに語っておられることとはいったい何でありましょうか。ある意味でそれはとても「シンプル」であります。

それらは大きく二つありますが、一つは神様が与えてくださる恵みの豊かさであります。あるいは、神様はまことに恵み深いということです。

主イエスはまさにこの恵みの豊かさをはっきりと伝えるために弟子たちと言葉を交わされます。まず5節でフィリポに「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とお尋ねになります。そしてこれに対してフィリポは7節で「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」とそのように答えるわけです。「一デナリオン」とは一日分の労働賃金であります。たとえ二百日分の賃金でパンを買ったとしても、間に合わないというわけです。つまりとても無理だというわけであります。

そして、さらに8節でアンデレが言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」(9節)。アンデレが言っているのも、フィリポとほとんど同じことです。そんなのとても無理です。私たちの力ではどうにもなりません。そう言っているのであります。

けれども、実はそのことが神様の恵みの豊かさをはっきりと示すために、あるいは、知るために必要なことであったのです。そのためにこの弟子たちとのやり取りがあるのです。そのうえで、主イエスは11節にある通り、パンも魚も欲しいだけ分け与えるのです。そうすると人々は12節によれば「満腹」し、さらにパン切れを集めると13節にあるように十二の籠がいっぱいになるほどであった、つまり余るほどであったというのです。

主イエスは、私たちに豊かな溢れるほどの恵みを与えてくださる。私たちがこの「奇跡」を通して聴き取らなければならないことの一つがこのことであります。

そしてさらにもう一つのことがあります。このように私たちを恵みで満たしてくださる主イエスとはいったいどのような方なのかということです。あるいは、どうして主イエスはそのように私たちを満たしてくださるのか、そのように振舞われるということです。

10節に「その場所には草が多かった」とあります。その後に男たちはそこに「座った」とありますから、遠足か何かの情景を思い浮かべる方もあるでしょう。草がたくさんで座るのに都合がよかった。そのような感じに読めます。けれども、もしその程度のことであれば、わざわざそんなことを書く必要もないでしょう。そこでもう少し詳しく見てみますと、ここで使われている「草」という言葉は、もとの言葉では「牧草」という意味を持っていることが分かります。そして、そこから少し発展をして「牧場」という意味もここにあるのであります。

そのことと、先ほどの溢れるばかりの恵みということを合わせて考えてみるときに、おそらく、あの詩編第23篇のみことばを思い浮かべられる方があるでしょう。詩編の第23篇はこのように歌っています。

主は私の羊飼い。
私は乏しいことがない。(1節)
主は私を緑の野に伏させ
憩いの汀に伴われる。(2節)

そしてこの詩編は少し後でこのようにも歌っています。

私を苦しめる者の前で
あなたは私に食卓を整えられる。
私の頭に油を注ぎ
私の杯を満たされる。(5節)

主イエスは私たちに食卓を整えてくださる。私たちの杯を満たし溢れさせてくださる。そして、主イエスはまた私たちを「緑の野」に伏させ、休ませてくださる。この古くから愛されてきた詩編に歌われていること、それがまさに本日の聖書の箇所に記されている、このヨハネによる福音書の箇所が記している、主イエスの「奇跡」において起こっていることであります。

つまり主イエスは人々が満たされるまで、いや、それ以上に養ってくださる。主イエスは人々を草の上に座らせ、休ませてくださる方として描かれているのです。ということは、この方こそが、主イエス・キリストこそが私たちの羊飼い、そう、「私の羊飼い」であられるということであります。主イエス・キリストこそが、私たちを養い生かしてくださる方、まことの神様なのだということです。裏返せば、それは、私たちはこの主イエス・キリストによって養われる「羊」だということでもあります。これこそが、主イエスが「奇跡」を通して語ろうとしておられたもう一つのことであります。

「ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)。主イエスこそが、私たちを養ってくださる神であられる、それも豊かに、溢れるばかりに、私たちを恵みで満たしてくださる神様であられるということ、主イエスはここで「奇跡」を通してそのことを伝えようとしておられました。

もし主イエスを「王」と呼ぼうとするならば、「王」にしようとするならば、それは、単に自分たちの必要を満たしてくれるだけの、自分たちを「満腹」にしてくれるだけの「肉」の「王」ではありえないのです。もっと豊かにもっと恵み深く、自分たちを養う、私たちを生かす神、主イエスがピラトに言った「私の国」、つまり「神の国」の「王」でなければならないのであります。人々はそのことを分かっていなければなりませんでした。しかし、彼らはそのことを理解することができませんでした。その結果、主イエスは彼らから離れて距離を取らなければなりませんでした。

しかし私たちは「奇跡」そのものではなくて、「奇跡の向こう側」にあるもの、つまり「奇跡」を通して主イエスが語られたこと、そのものにしっかりと耳を傾けます。そうやって、私たちは主イエスのもとに留まり続けるのです。私たちの羊飼いである主イエス・キリストのもとにいてこそ、私たちは本当に生き、くつろぎ、満たされることができるのです。

そして、その場所こそが、この「礼拝」の場であります。自分たちが祈り願っているような、目に見えるような「奇跡」は起こらないかもしれない。苦しみは苦しみのままで、悲しみは悲しみのままで、いまも、私の目の前にあるかもしれない。しかし主イエスが本日の箇所で「奇跡」を通して人々に語ろうとしたことが、今日、ここでもまさに起ころうとしているのであります。「命のパン」である主イエスご自身がみことばを語られ、罪の赦しを宣言し、私の魂を生き返らせてくださる。復活の主が「生きよ」と語りかけ、またここから立ち上がらせてくださる。あなたを生かしたい、あなたを恵みで満たしたい、これが羊飼いなる主イエス・キリストの本当の願いであります。

本日は旧約聖書の箇所として、詩編第23篇ではなく、イザヤ書第40章のところをお読みしました。この11節の言葉、それはあの詩編に歌われていたことと同じことであると言ってよいでありましょう。

主は羊飼いのようにその群れを飼い
その腕に小羊を集めて、懐に抱き
乳を飲ませる羊を導く。

主イエス・キリストに導かれ、その懐に抱かれる。そして主の羊として、神のものとして生きていく。それこそが、私たちにとっての本当の「幸い」であり、その「幸い」は主イエス・キリストにおいてこそあるのであります。

 

 主イエス・キリストの父なる御神、今日もあなたに招かれて私たちはあなたの御前に憩い、命を与えられております。目に見えるような偉大な奇跡は起こらないかもしれない。しかしもっと偉大なことが、たしかな救いの出来事がすでにここに起きております。弱く脆いはずの私がいまここにあなたによって生かされております。それはここに赦しがあるからです。あなたの命があるからです。そうでなければ、私はすでにどこかで倒れ、飢え乾き、空しさに苛まれていたでありましょう。しかしいま、私はここに生きている。生かされている。主よ、溢れるばかりの恵みをありがとうございます。私はこの命の終わりまであなたのもとで生きて参ります。ここに私の喜びが、唯一の慰めがあるのです。この願い、救い主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン

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