イエス・キリスト、私たちの王
ローマの信徒への手紙 第6章1-14節
川崎 公平

主日礼拝
■主イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスの礼拝のために、先ほど讃美歌の107番を歌いました。クリスマスの讃美歌にはすばらしい歌がたくさんありますが、特にこの讃美歌107番は、私の最も好きなクリスマスの讃美歌のひとつです。ヨハン・ゼバスティアン・バッハが直接関わっている讃美歌というのは、実はあまり多くないのですが、その数少ないひとつでもあります。
「まぶねのかたえに われは立ちて」と歌います。今、主イエス・キリストの「まぶねのかたえに」立たせていただいている自分のことを静かに思うだけで、ジーンと来るものがあります。ただし、ただセンチメンタルになって感動しているだけでは何の意味もないと思います。「まぶねのかたえに われは立ちて」、主イエスがお生まれになった飼い葉桶の傍らに今立たせていただいて、そこで何を知るのか。何を思うのか。この飼い葉桶の意味を知っているがゆえに、その結果自分には何が起こるのか。そのことをよく考えなければ、ただ美しい歌に酔いしれているだけでは何の意味もないだろうと思うのです。
今朝は別にこの讃美歌について延々と語るつもりもないのですが、たとえば最後の第4節に、「とうときまずしさ 知りえしわがみは」とあります。幼子イエスのまぶねのかたえに立って、そこで当然問わなければならないこと、最後に問わなければならないことは、なぜこのお方はこんなに貧しいんだろう。なぜこんなに貧しくならなければならなかったんだろう。わたしのためだ。わたしたちのためだ。だからその貧しさは、貴いのです。しかしこのことについては、なお深く問わなければならないと思います。なぜこのお方は、わたしのために、貧しくならなければならなかったのでしょうか。なぜ最初のクリスマスの夜、このお方はほかのどこでもなく、馬小屋に生まれなければならなかったのでしょうか。そのことを、「まぶねのかたえに立って」、よく考えなければならないと思うのです。
■クリスマスの礼拝ですが、いつものように、ローマの信徒への手紙を読み続けます。今朝、特に集中して読みたいと思っている聖書の言葉は、まず5節であります。
私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
これだけでも、まことに豊かな内容を持つみ言葉で、果たして一度の礼拝でこの5節の言葉の意味を汲み尽くすことができるだろうかと思うほどですが、パウロはここで、たいへんイメージ豊かな表現を使っています。私どもの翻訳では、「私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば」と言うのですが、もう少し原文のイメージを生かして訳し直すと、わたしたちはキリストの死の姿に似て、「一緒に死の中に植えられたのだ」と言います。木を植えるように、草花を植えるように、わたしたちは、キリストと一緒に死の中に植えられた。翻訳としては「同じ状態になった」ということで問題ないのですが、「共に植えられた」と書いてあります。誰と誰が共に植えられたのか。わたしたちとキリストとが、共に植えられた。どこに植えられたのか。死の中に植えられた。それは既に4節に書いてある通り、私たちが洗礼を受けたときに起こった出来事を、このように表現しているのです。4節ではまず「私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」と言うのですが、5節ではそれを少し言い換えて、「わたしたちはキリストと一緒に死の中に植えられたのだ。そうであれば、復活についてもキリストと同じように育っていくでしょう」。そう言うのです。
「まぶねのかたえに われは立ちて」、まさにこのことを、よく考えなければならないと思うのです。どうしてこのお方は、こんな貧しい場所に産み落とされたんだろう。このお方は、死の中に植え付けられるように、天より降り、人となられたのだ。そして、もしわたしたちがただ死の中に植えられているというのではなくて、その死の中にキリストの命が一緒に植えられているのであれば、そこに既に、永遠の命の望みが生まれます。
■考えてみますと、人間というのは、実は最初から、死の中に植え付けられたような生活をしているのです。キリストと共に死に、とか、キリストと共に植えられ、などと言われると、妙にロマンチックな想像に誘われそうですが、冷静に考えてみればそんな呑気な話ではないので、実はすべての人間は、生まれたときから、死の中に植え付けられたような生活をしているのです。私がローマの信徒への手紙を説教するときに、必ず準備のときに熟読するのは、竹森満佐一という吉祥寺教会の牧師であった人の説教集です。この箇所の説教の中で、こういうことを言っています。
実は、すべての人間は、死の中に浸されたような生活をしているはずであります。この世に生まれて来た者は、だれも死から逃れることはできないのです。……人は毎日老いてゆくのです。人は毎日死に向かって走り続けていると申さねばならないでしょう。それは、自分の好き嫌いには関係のないことであります。だれも逃れることができないことであります。たとえていえば、どこにも出口のない箱の中に入れられて、坂の上から一本レールに乗せられて突き落とされるようなものであります。途中でとまることも降りることもできないのです。脱線ということはありえないのです。われわれは、こういう意味では、すでに死の中に浸りきっているのです。
強烈な言葉です。コメントも説明も必要ありません。われわれは、母親の胎から産み落とされたその瞬間から、坂を転げ落ちて暴走していく列車のごとく、ひたすら死に向かって走り続けているんだ。その意味で、最初から、死の中に植え付けられているんだ。ところがクリスマスの出来事が意味するところは何かというと、その死の現実の中に神のひとり子が飛び込んで来てくださって、共に死の中に植えられるように……あの飼い葉桶の貧しさは、そういう意味で、私どもにとってかけがえのない、「とうときまずしさ」なのです。
その貴さがよくわかったから、私どもも洗礼を受けたのです。洗礼を受けた今はもう、ひとりで死のトロッコに乗って転落していくんじゃない、キリストが一緒に死の中に植え付けられていてくださる。そのことを確信することができます。そのために、このお方は、馬小屋にお生まれになり、十字架につけられ、そして死人の中からお甦りになったのです。すべては、私どものためです。「私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう」。私どもは、生まれたその瞬間から、ひたすら死に向かって突進しているとしか思えない命を生きているのですが、「まぶねのかたえに われは立ちて」、このお方の貴き貧しさの前で、永遠の命の望みに立つことができるのです。
■この確かな望みの中で、この手紙は第6章9節でこのように力強く宣言します。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
ここで大切な意味を持つのは、「支配」という言葉です。ローマの信徒への手紙第6章を理解する上で、この「支配」という言葉が大切です。「死は、もはやキリストを支配しません」。言うまでもなく、昔も今も死はあるのです。死なない人間はいない。それはクリスマスの前も後も関係ないし、ついでに言えば、洗礼を受けても受けなくても死は存在するのです。存在はするのですけれども、もはや支配者ではない。それが大切です。支配と言えば、12節と14節にも「支配」という言葉が繰り返されます。
ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。
実を言うと、9節と12節と14節と、3回出てくる「支配する」という言葉は、聖書の原文のギリシア語ではすべてが同じではありません。そうは言っても、そんなに大きな違いはないかもしれません。9節と14節のほうには、「主人」を意味する言葉が使われています。「死は、もはやキリストに対して主人ではない」。「罪があなたがたの主人になることはありません」。それに対してその間の12節には「王」という言葉を含む動詞が使われています。「罪が、あなたがたの死ぬべき体の王様であってはなりません」。王と言おうが主人と言おうが、結局はだいたい同じことだろうと思います。ここでパウロが、自分の信仰をぶっつけるように語っていることは、「誰が支配者なのか。私たちの主は誰か。世界を支配する王は誰か」ということです。
死は、もはや、キリストの主人ではないし、死はもはやわたしたちを支配することもできない。かつては罪がわたしたちの体の支配者だったけれども、罪がわたしの王様だったけれども、今や罪は王位を追われたのだ。――そうしたら、何が変わるでしょうか。相変わらず死はあるのです。罪もあるのです。死なない人間はいないし、人間の罪はますます膨れ上がっているように見えるのですが、じゃあイエスさまが生まれる前と後と、何が変わったんだ。わたしが洗礼を受ける前と後と、何が変わったんだ。何も変わってないじゃないか。そうではありません。死はもはや支配者ではない。それは、世界を丸ごとひっくり返すような事態を意味すると言わなければなりません。
2025年という1年が過ぎようとしています。こういうことをクリスマスの礼拝に言ってしまうと、ただでさえ礼拝出席者が少なくなる来週の年末の礼拝がさらに少なくなってしまうかもしれませんが……来週ももう一度、2025年最後の礼拝がありますから、お忘れなく。しかしきっと皆さんも、クリスマスの喧騒の中で、ふっと寂しいような、悲しいような気持ちに誘われることもあるだろうと思います。ああ、1年が終わるんだな。この1年、こんなことがあった。あんなことがあった。それは個人の生活のレベルの話だけではないだろうと思います。大げさなようですが、世界レベルの話として――ブレーキも出入口もない箱のような列車に閉じ込められて、ひたすら坂道を転がり落ちて行くなんて話を聞かされて、なるほどうまいこと言うな、という感想もあるかもしれませんが、そんな話、とても穏やかな気持ちで聞くことなんかできないという人だっているだろうと思います。繰り返しますが、ひとりひとりの生活の話だけではないと思うのです。もしかしたら、この世界が丸ごと、ブレーキのないトロッコのように暴走しているんじゃないか。死の中に植えられ、ひたすら死に向かって育っていくようなこの世界なのではないか。罪の中に植えられ、ひたすら罪に向かって育っていくようなこの世界なのではないか。
けれどもそんな世界の中に、ひとりの幼子が生まれました。このお方は、わたしたちと共に死の中に植えられたのだ。しかもそのお方が、遂に死に負けることなく、死に打ち勝って、お甦りになった。伝道者パウロは、その事実を力強く指し示すのです。「死は、もはやキリストを支配しません」。このお方は、死人の中から復活させられたのだ。だから、死はもはや支配者ではない。もう二度と、死が支配者になることはない。そのことを確かめるためのクリスマスでなかったら、私どものクリスマスの祝いには、何の意味もないのです。
今、「まぶねのかたえに立って」、静かに思うのです。なぜこのお方は、こんなに貧しいんだろう。その貧しさは、ただつつましいとか清貧とかいう話ではないのであって、死の中に植えられたような貧しさであったのです。ところが、遂に死はキリストを支配することができませんでした。主がお生まれになった直後に、ヘロデという王が幼子イエスを殺そうとしましたが、できませんでした。十字架がキリストを殺そうとしましたが、できませんでした。私どもの罪が、このお方を殺そうとしたのですが、いや、事実殺したのですが、できませんでした。「死は、もはやキリストを支配できません」。死はもはや支配者ではない。イエス・キリストこそ、わたしたちの王、世界の王です。
■そのイエス・キリストの命の支配の中で作られる、私どもの新しい生活です。そこにまた戦いが生まれます。罪との戦いです。先ほども読みましたが、12節にはこう書いてあります。
ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
話はたいへん具体的です。それはきっと、皆さんも牧師の説教なんか聞かなくたって、体験的に知っておられることだと思います。私どもの毎日の生活は、罪との戦いです。しかもその戦いというのは、正直に言えば、罪と戦い、罪に勝ち続ける生活というよりは、罪と戦い、罪に負け続ける生活だという実感のほうが強いかもしれません。
このあたりの、罪との戦いという話は、それこそ来週の礼拝でも同じ聖書箇所を読んで、改めて丁寧に取り上げたいと思っているのですが、それにしてもどうしてもきちんと言っておかなければならないと思いますことは、ここでパウロは、「もう罪を犯すな」と言うのではなくて、「罪に支配させてはならない」と言っています。つまり、罪は罪として依然としてあるのだけれども、もはや支配者ではない。……でも、それって、何がどう違うんだ、と言いたくなっている方が多いかもしれません。「罪は存在するけれども、支配者ではないんだ」なんて、そんな屁理屈を聞かされても困る。罪の支配というのは本当に強いのです。罪が依然としてある限り、その支配も容易に退けることはできないのではないか。そう思うのです。
主の祈りという祈りの最後に、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りがあります。「試み」というのは、もう少し日常的な日本語に言い換えれば、「誘惑」と言ってもよいのです。「わたしたちを誘惑に遭わせないで、悪より救い出してください」。しかし、私どもはこの祈りを本気で祈れるでしょうか。わたしにはこういう誘惑がある。こういう罪の誘惑がある。多くの場合、それは世界中の誰にも知られたくないことです。家族にも親友にも秘密です。「神さま、わたしにはこういう誘惑があります。あなただけがご存じです。そこから救い出してください」と、声に出して祈ることが既に難しい。私どもは、実は、結局、罪の誘惑に負けたいのです。罪を犯したくないけど、つい負けてしまうのではなくて、私どもは罪を犯したいから、罪を犯すのです。だからこそ、誘惑なのです。ところがパウロはそんな私どもに言うのです。「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させてはなりません。体の欲望に従ってはなりません」。いや、それは難しいよ、と、多くの人がここでひるんでしまうだろうと思います。
本日、雪ノ下通信12月号を発行しました。先々週、12月7日にも同じローマの信徒への手紙第6章1節以下を説教した、その要旨を載せました。その最後のほうに書いたことですが、この12節を読むときに、ひとつ気をつけないといけない。少しややこしい話で恐縮なのですが、ギリシア語の動詞の命令法には二人称の命令と三人称の命令があって、ここで使われているのは三人称の命令なのです。つまり、もし仮に12節が二人称の命令、つまり「あなた」に対する命令だとしたら、こういうことになります。「あなたは、自分の体を罪に支配させてはなりません。あなたは、体の欲望に従ってはなりません」。ところが12節は、そんなことを言ってはいないのです。三人称の命令です。具体的には「罪」に対して命令している。「罪は、あなたがたの死ぬべき体を支配してはならない」。「罪よ、この人たちの体を支配するな。あなたはもう支配者ではないのだから、引き下がれ」。そのように、罪に向かって命令してくださる神が生きておられるということ自体が、私どもにとって大きな励ましなのです。
しかしそれにしても、その罪が支配してはならないものが何かというと、「あなたがたの死ぬべき体」と言われます。それは考えてみれば、とても厳しい、また悲しい話です。「罪よ、この人たちの体を支配するな」。「この人の体は、死ぬべき体なのだ」。文字通り、わが身を顧みて思うのです。この世に生まれ落ちたその瞬間から、死の中に植え付けられているような、私どものこの体なのです。死ぬべき体。罪を犯しやすい体。けれども、忘れてはなりません。まさしくそのような死ぬべき体を持ったひとりの人間として、イエス・キリストはお生まれになったのです。それが、クリスマスの意味です。私どもと共に、死の中に植えられてくださったのです。
ヘブライ人への手紙第4章の15節に、こういう言葉があります。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです」。この「試練」というのも、「誘惑」とも訳すことのできる言葉です。主イエス・キリストは、死の中に植え付けられたような体をお持ちになったのです。その体は、決して特別な体ではありませんでした。私どもとまったく同じ、生身の体をお持ちになりました。その体は、どうしても欲望を伴うのです。食欲、性欲、睡眠欲。イエスさまにも性欲はあったと思いますよ。「罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです」。あらゆる誘惑に遭われたのです。だからこそ、私たちの弱さに同情できない方ではない、というのです。それこそが、クリスマスの意味です。
ところがそのキリストを、死は支配することができませんでした。罪も支配することができませんでした。もし、私どもに希望が残されているとすれば、私どもの体が、このお方と同じ場所に植えられているということでしかないのです。この望みの始まりがクリスマスであり、この望みの保証がキリストの十字架と復活です。それは、私どもひとりひとりの望みというだけでは足りません、この世界全体の望みが、このお方にかかっているのです。お祈りをいたします。
今、私どもも、御子イエスのまぶねのかたえに立ちて、あなたの恵みを静かに思います。私どもの罪を思います。私どもを支配しようとする、死の力を思います。「死はキリストを支配しません」と、この望みの言葉を固く保つ教会であらせてください。その望みの中で、今共に命の食卓を囲みます。自分自身についても、私どもの家族、隣人についても、またこの世界についても、あなたは望みを捨てておられないのですから、私どもも同じ望みの中に立たせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン








