神が味方なら
ヨハネによる福音書 第16章4b-15節
嶋貫 佐地子

主日礼拝
主イエスが、聖霊のお話をしてくださっています。それは弟子たちとの最後の食事の席でした。その中で主イエスが何度も「去って行く」と言われます。「私は去って行く」。
主イエスが「去って行く」ということは、十字架にかかられることであって、そして復活されて、天に昇り、父なる神様のもとに行かれることです。でも、その「去って行く」ということに、ここでは何か特別な、重大な意味があるようなのです。聖霊のお話は、まるでそのこと無しには語られないような、そんなようなのです。
ヨハネによる福音書というのは、聖霊を「弁護者」と呼びます。それは主イエスがそう呼ばれたからです。こう言われています。
「私が去って行くのは、あなたがたのためになる」(16:7)。
なぜなら「私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」しかし「私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16:7)と主は言われました。
主イエスが「去って行く」ということは、聖霊が「来られる」ため、といわれるのです。
主はそのお方を「弁護者」パラクレートスと呼ばれました。パラクレートス。そのパラというのは「側へ」、そしてクレートスというのは「呼び出された」という意味です。傍らへ、そばへ、呼び出された人です。どうして呼び出されたのかというと、誰かが「助けて」と叫ぶからです。「助けてください」と叫ぶ人のところに、そのそばにやって来て、それで助けてくれる。そういう方です。そしてそれは法律的な「弁護者」でもあり、いつでも私どもの側に立って、味方に立ってくださる方です。そういう「味方」なのですね。
「味方」といえば、皆さまの中にはローマの信徒への手紙を思い出される方もおられるかもしれません。今、ちょうど、川﨑公平牧師がローマの信徒への手紙の第8章に入られようとしていますけれども、そこも聖霊について語られている重要な箇所です。その第8章の31節にそれらを総括するみたいにパウロが、これ以上何を言ったらいいか、こう言うしかないではないか、と言って神様の愛を讃えながら「神が味方なら」、というのです。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか?」
そこの原文から言いますと、「味方」という言葉が使われているわけではありません。神が私どもの「ために」、その「ために」居てくださる。いつでも私どもの側に立っていてくださる。そういう意味の言葉を「味方」と訳しています。神様がどんな場合にも私どもの「ために」、私どもの側に立っていてくださる。いつでもこっち側にいてくださる。その神が味方であるということの確かさを、パウロは、神がご自分の御子をさえ惜しまずに、死に渡されたというのです。神が私ども罪人のために、御子をさえ、惜しまなかった、と言っているのです。
私は去ってゆく、と主は言われました。
でもそのことは、地上において、主イエスがもう目には見えなくなるということでした。
私どもも、だれかが見えなくなるということの切なさを知っております。その喪失を知っております。その人がいなくなる、ということの苦しさを、多くの人が知っております。地面が揺らぐような、残された自分は、どうしたらいいか。その苦しさを知っております。
この時の弟子たちも、そうでした。だから、「どこへ行くのですか?」と、主に聞くこともできませんでした。それくらい、見えなくなるということは、私どもにとって恐ろしく、そしてとてもつらいことです。
でも主イエスが、そんな私どもの側に立っていてくださいました。その苦しさをわかっていてくださいました。だからこう言ってくださいました。「見なくなるだけだ」。
10節で、主イエスが「義についてとは」ということを言われていますが、「義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」と言われています。
「あなたがたがもはや私を見なくなること」。
「見なくなること」。ただ見えなくなって、そうやっていなくなるんじゃなくて、「見なくなる」。私はここに、少しというより大きな違いを感じました。もっと積極的な、ただ見えなくなるんじゃなくて、あなたがたは私を、見なくなるだけだ。それはこういうことだと思います。これは喪失ではない。
去り行くというのは、喪失ではない。
私が「去る」ということは、違う仕方で、「来る」ということだ。
もう目に見える仕方ではなくて、目に見ない仕方で、主イエスが私どもと共にいてくださる。それは聖霊によってであって。だから、これは喪失ではなく、倍増する恵みで、遠くなったのではなく、主が近くなったのです。
昔、加藤常昭先生がどこかでこんなことを言われていました。加藤先生がまだ少年だった時に、病弱だった加藤先生がお祈りをする。けれども、こんなふうに思った。「イエスさまは、お忙しいからなぁ」。イエスさまは、お忙しいから、ぼくのことなんか覚えていてもらえないかもしれない。世界中にイエスさまを待っている人たちがいるんだから、ぼくのお祈りは聴かれないかもしれない。そう思った。そういう切実な思いを持った。わかる気がしました。イエスさまはお忙しいから。
だからぼくのことなんか、私のことなんか、手が回らないかもしれない。でもそうしたら、ぼくとってイエスさまは、遠い存在です。
でもイエスさまはちっともそうじゃなかった。物理的じゃなかった。
主イエスがこの地上におられた時には、それはほんとうに、ほんのわずかな人たちだけが、主イエスを知っているだけでした。ユダヤの一地方で、限定されていたものでしたけれども、でもそのことがなぜか、すべての人間に当てはまることになったのです。
それは、主イエスが父のもとに「去って行って」くださったから、その代わりに聖霊が「来てくださった」から。そのことによって、すべての人に、主イエスが近くなったのです。
加藤先生という人は、映画でイエスさまの手が映るだけで、ドキドキしちゃう、そういう先生でしたけれども、イエスさまは遠いお方なんだという少年の心に、なぜそんな小さな少年のところに、主がおられたか。なぜ、高齢になって年を重ねて、目も見えなくなって、そういう人が、イエスさま、イエスさまと、すべてを打ち明けることができたのか、なぜ、その臨在がわかったのかといえば。主イエスご自身である聖霊が、ぼくの中にも来てくださったからです。私どものために神が存在していてくださる。こんなに、強い「味方」はいないでしょう。
その主イエスを信じる者は、聖霊を信じる者なのです。
それで、主イエスのお言葉に戻りたいと思いますが、主イエスがここで、その「弁護者」聖霊のお働きについて、大事なことを3つ、言われています。
1つ目は「罪について」。2つ目は「義について」、3つ目は「裁きについて」です。聖霊はそれらについての世の誤りを明らかにすると言われるのです。「罪」と「義」と「裁き」です。もしこれらのことを抜きにしたら、私どもの信仰生活というのは成り立たなくなってしまうでしょう。ただイエスさまが共にいてくださるというのでは身勝手なものになってしまいますし、救いの意味がよくわからなくなってしまいます。ですけれども聖霊が、これらのことについて、私どもに、よくわからせてくださるというのです。
では「罪について」とはなんでしょう?それは主イエスが9節ではっきりと言われています。「罪についてとは、彼らが私を信じないこと」。罪とは、主イエスを信じないこと。まことにシンプルですけれどもそうなのです。主イエスを信じないこと。でも聖霊が、そのことをすべての人にしみじみとわからせてくださって、悔い改めを必要としている人をですね、助けてくださる。そうやって主イエスを信じさせてくださる。
そしてそれにつながる3つ目の「裁きについて」。「裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである」と主は言われます。横行しているようにみえる世の支配が、実はほんとうは正しくなかったんだということは、もうすでに主イエスの十字架でわかっており、もうそれ自体で、すでに世は裁かれたんだと、そして、父のもとに戻られた主イエスの支配の勝利を、聖霊は告げてくださっています。
そして最後に真ん中の「義について」。主は「義についてとは」と。「私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」と言われましたが、これはいったい、どういうことなのでしょう?どうしてそれが義なのでしょう?
義というのは、難しいです。そう思われる方も多いのではないでしょうか。義というのは、「正しい」ということです。それも神様との関係が正しい、ということです。でもそれを人は、曲げてしまいました。それで自分ではもう、どうにもなりません。それを「正しく」直すには、主イエスが、十字架におかかりになって、神様との関係を直されなくてはなりませんでした。
でも、その義について、ある宣教師の方が、私にこう言ってくださいました。
義とは、こういうこと。
「You are right」。
義とされたとは、
神様があなたにこう言ってくださること。
You are right。
あなたは正しい。
それを聞いたとき、うれしかったです。
You are right。
でも、私どもにそれはないのは明らかです。それなのに、そう言ってくださる。
どうしてでしょう?
「義についてとは、あなたがたがもはや私を見なくなること」。私を見なくなることとは、主イエスが去って行くこと。主イエスが十字架と復活を経て、父のもとに行かれること。それが「義」だ、というのです。
ですから、これはキリストの義です。これは「主イエスの義」です。
今、受難週祈祷会の奨励の準備をされている方たちがおられますけれども、十字架上での7つの言葉を準備してくださっていますが、あの十字架の上で、あの十字架の上で、
天から神様が言われたのです。
You are right。
間違った人は、私どものために死に渡されるなんてことはしません。この方が正しいから、この方が正しい方であるから、だから、唯一の正しい父のもとに上げられたのです。
この方が正しいから、
死から勝利を与えられ、復活させられ、父のもとに行かれたのです。
その正しさを、私どもはいただいたんです。
私どもはその主を信じることで、義とされる。その主を、身にまとうことで、義とされるのです。
主イエスの、その正しさによって、神様から、私どもはこういわれるのです。
You are right。
それほどまでに、三位一体の神は私どもの側に立っていてくださるのです。
何もかも惜しまず、神様は徹底的に、私どもの味方でいてくださるのです。
聖霊はそれを私どもに告げてくださいます。神はあなたの味方であると。
最後に
主イエスが「私が去って行くのは
あなたがたのためになる」と言ってくださいましたが、そうだったんだ、と、
「私が去って行く」のは「あなたがたのためになる」とは私どもが義とされることだったんだ、と。身に余る幸いをいただいたのだと、心より感謝の思いをささげたいと思います。
天の父なる神様
「私が去って行くのは
あなたがたのためになる」。私どもが義とされるために、そしてそれはもう「そうなった」と、もう、そうなったんだと、主の声を聖霊によって、いつも告げてください。
主の御名によって祈ります。アーメン









