救われた者の悲しみと痛み
ローマの信徒への手紙 第9章1-5節
川崎 公平

主日礼拝
■主の日の朝の礼拝において、伝道者パウロの書いたローマの信徒への手紙を読み続けてきました。今日から第9章を読み始めます。章の数で言えば第16章まであるこの手紙の、ようやく後半部分に入ったということになりますが、章の数だけでなく内容から言っても、ここから新しい部分が始まると言うことができます。何もかも完全に新しい、それまでの第8章までの部分とは異質であるとは考えないほうがよいと私は思っていますが、とにかく特別な部分であることは確かです。
何がどう「特別」なのでしょうか。パウロの手紙だけではありません、新約聖書全体、それどころか新旧両約、全聖書を探しても、こういうことはどこにも書いていない、そのくらい独特な、特別な部分が、第9章から第11章まで続きます。けっこう長い、しかもしばしばずいぶん複雑な議論をするので、皆さんも読みながらちょっとうんざりするかもしれない。けれどもパウロからしたら、むしろこの部分こそがいちばん書きたかったことかもしれません。結論を先取りするような言い方にもなるのですが、パウロの伝道者としての命が生きるか、死ぬか、そのすれすれの瀬戸際で語られた言葉が、この第9章から第11章であると言うことができると思います。
■そういうパウロの〈思い〉がよく現れているのが、今朝読みました第9章の最初の部分です。
私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています(1~3節)。
問題は、「きょうだいたち、つまり肉による同胞」のことです。より具体的に言えばイスラエルの救いです。「彼らが救われるためなら、わたしが代わりに呪われてもいい」。そのことを、第10章の最初のところでは、もう少し落ち着いた口調で言い直しています。「きょうだいたち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。
ここでパウロがしていることは、〈祈り〉です。「神よ、どうか彼らを救ってください。見捨てないでください」と、神に祈っているのです。今急に第10章に飛んだわけですが、実は第9章の最初のところにも、私どもの翻訳には現れていないのですが、「わたしは祈りました」という言葉が出てきます。第9章3節です。「私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよい」。そのあとが問題です。私どもの翻訳には「とさえ思っています」と書いてありますが、むしろここは、「と、わたしは祈りました」、「何度も祈りました」と訳すべきではないかと思います。
少し古いものですが、黒崎幸吉という無教会主義の聖書学者がいます。ひとりで新約聖書のすべての文書の注解書を書きました。簡潔なものですが、第9章3節についてこういう注釈を書いています。「これはパウロの仮定ではなくその真実の切願であった」。私はこれを読んで、「あれ、もしかして……自分はこれまで聖書を読み間違えていたのではないか」と気づかされました。仮定の話じゃない。事実、パウロはこのように祈ったのだ。つまり、もう少しかみ砕いて言うと、「家族の救いのためなら、同胞が救われるためなら、場合によっては、あくまで仮定の話ですが、わたしが代わりにキリストから離され、呪われても構いませんよ。いや、もちろん、あくまで仮定の話ですけどね」というのではなくて、「これはパウロの仮定ではなくその真実の切願であった」。パウロは、仮定ではなく事実として、こう祈ったのだ。「神よ、わたしを呪ってください」。
そういう聖書学者の説明に理解を正されて、私なりに3節を、改めて原文のギリシア語のニュアンスを生かして訳し直してみました。こういう文章です。「わたしは祈りました。何度も繰り返して祈りました。このわたしが呪われますように。キリストから離されますように。わたしの兄弟たちのために、肉におけるわたしの同胞のために」。私どもは、こういう祈りをしたことがあるでしょうか。家族のために、この国に住む日本人の救いのために、「神よ、わたしを代わりに呪ってください。わたしが代わりにキリストから離されますように」。強烈な祈りです。
今日は私の説教準備のプロセスを一部なぞるような話し方をしているわけですが……そんな折、もうひとつ、このような祈りの文章を見つけました。加藤常昭先生の『祈り』という、1年366日分の祈りを集めた書物です。4月12日の祈りとして、ローマの信徒への手紙第9章2節、3節に添えて、こういう祈りがあります。
主イエス・キリストの父なる御神、街を歩いても、電車に乗っても、たくさんの同胞に会います。こころが動きます。誰にでも声をかけたくなります。主イエスが、あなたを待っておられ、だから教会へ行きませんかと促したくなります。福音を聴きませんか。キリストの救いにあずかりませんか。……なぜ、こんなにも多くの日本人が、救われないままなのでしょうか。なぜ日本を救うべき、キリストの教会が、こんなにも無力なのでしょうか。パウロのように、たとえ自分があなたから見捨てられても、神よ、日本人を救ってくださいとの祈りが、私に欠けているからでしょうか。救いの神よ、日本を救ってください。キリストは日本の救い主です。世界の救い主です。救いのみわざのために、なお私を用いてください。主のみ名によって。アーメン
主旨はすぐにおわかりになったと思います。「神よ、わたしの同胞を救ってください。そのためなら、どうかわたしを呪ってください」。そういう祈りが欠けているから、教会に力がないのではないか。
■ただそこで、もうひとつ丁寧に考えなければならないことがあります。ここでパウロが論じ始めていることは、単に自分の家族が、自分の同胞が、という話を越えて、もっと深いものがあります。もっと深刻なものがあります。それが4節の「彼らはイスラエル人です」という、この問題です。パウロ自身がイスラエルでした。わかりやすく言えばユダヤ人です。それは、われわれが日本人であるということよりも、はるかに特別な意味を持ちました。何が特別かって、ユダヤ人、つまりイスラエルは、神さまから特別に愛されていた。それが4節以下にこう書いてあります。「彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」。神さまは、人類みんな、分け隔てなく愛してくださいますよ、という話とはちょっと違います。イスラエルだけが特別に選ばれて、特別に愛されたのです。これは、文句を言ってもしょうがない、神さまがお決めになった救いのご計画を、そのご計画通りになさったというだけの話です。
先週配付された8月の行事予定表をご覧になって、「え?」と思われた方もあるかもしれませんが、8月16日の説教題は「神のえこひいき」。第9章から第11章までは全聖書の中でも特別な部分だと申しましたが、その特別な主題のひとつが、「神のえこひいき」だと言ってもよいと思います。なぜ神はえこひいきをなさるのだろうか。その謎は思いのほか深いのです。そして、その神のえこひいきを最初にいただいて、その意味で特別に神に愛されたのが、イスラエルであったのです。そのことを考えますと、先ほど何の説明もなくいきなり「日本人の救いが」などという話を始めたのは少し乱暴であったかもしれません。ここでパウロが論じているのは、神から特別扱いされたイスラエルの救いです。
「子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです」。こんなにも愛されて、こんなにもえこひいきされて、だからこそキリストもまたユダヤ人のひとりとしてお生まれになったのですが、イスラエルはこのお方を受け入れませんでした。それどころか、このお方を憎み、このお方を十字架につけて殺しました。そして、そのイエス・キリストを礼拝する教会が生まれたときに、これを迫害したのです。
なぜそんな不思議な、また悲しいことが起こったのでしょうか。しかしパウロは、そういうユダヤ人の気持ちが誰よりもよくわかったと思います。パウロ自身が先頭に立って教会を迫害したのです。なぜそんなことをしたのか、その理由も4節からわかります。「彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです」。われわれだけが、神に愛されているのだと思っていたのに、実はそうではなくて、神の愛はさらに大きくすべての人に注がれるのだということを聞かされたときに、それは自分たちのアイデンティティをいたく傷つけられることでしかなかったのです。けれども、本当はそうではなくて、神の救いがすべての民に及ぶというまさにそのところで、イスラエルはイスラエルとして栄光に輝くはずであったのに、なぜそこで躓くのか。こんなに愛されているのに。あれだけ特別扱いされて、あれもこれも、全部神さまからいただいたのに。それなのに、どうして彼らは。パウロは、彼らの気持ちが誰よりもよくわかったと思います。だからこそ、それだけに、つらかったと思います。そこに生まれる祈りです。「神よ、なぜイスラエルが見捨てられるのですか。どうか、見捨てないでください。代わりに、わたしを呪ってください」。
■そのようなパウロの祈りから始まる特別な部分は、第9章から始まって第11章まで続くと申しました。この特別な部分を、おそらく私どもは来年の1月か2月くらいまで読み続けることになると思います。第9章、第10章、第11章と読み進める中で、かなり厳しい言葉も語られます。私どもを躓かせるような言葉にも出会うかもしれない。だからこそ、まずここで、この3つの章の最後の結論を確認しておかなければならないと思います。第11章の29節です。「神の賜物と招きは取り消されることがないからです」。これは、決定的な言葉です。繰り返しますが、この第9章から第11章というのは、聖書の中でもなかなか難解な、ある意味では読みにくい部分です。そうであっても、その最後の結論が第11章29節であることを、忘れないようにしたいと思います。「神の賜物と招きは取り消されることがないからです」。
なぜこれが決定的な言葉であるかというと、これはまた私ども自身の救いにも直接関わるからです。もしもです。それこそ、仮定の話です。もしも、神の約束があとから取り消されるようなものでしかなかったとしたら、今私どもがこのように礼拝をしていること自体が、無駄になってしまいます。私どもが今ここで礼拝をしているのも、その土台となる大前提は、神が私どもを愛してくださった、神がわたしを救ってくださったということです。神の愛を信じて、その神の愛が永遠であることを信じて、私どもは今このように礼拝をしているのですが、その神の愛が、実はいくらでもキャンセル可能なものであるとするならば、私どもの信仰生活のすべてが砂上の楼閣のようなものでしかない、ということになります。砂浜で、どんなに立派な砂のお城を作ってみても、次の日には跡形もない。神の救いが、そんな頼りないものであるはずがない。わたしの罪がどんなに大きくても、神の救いはもっと大きいのです。「神の賜物と招きは取り消されることがない」。たとえわたしが神に逆らい、神を呪うようなことさえあったとしても、神の愛が1ミリでも揺らぐことは絶対にない。
しかし、そうであるならば、だからこそますます、私どもは目の前の現実を冷静に見つめなければなりません。神は愛なのに、なぜ99パーセント以上の日本人がキリストの救いに心を開いてくれないのでしょうか。「なぜ、こんなにも多くの日本人が、救われないままなのでしょうか。なぜ日本を救うべき、キリストの教会が、こんなにも無力なのでしょうか」。神に愛されているということなら、ユダヤ人も日本人も同じです。ユダヤ人も異邦人もない。ギリシア人も日本人もない。だからこそ、今ここにも教会が生きているのです。「でも、それなら、なぜ。神よ、わたしを代わりに呪ってください。日本の人びとが救われるためなら」。そういうパウロの祈りを、私ども日本の教会の祈りとしなければならないと思うのです。
■この直前の、第8章の終わりにこういう言葉がありました。
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
この第8章と、新しく始まる第9章と、何の関係もないと考える人もいるようですが、そんなはずはないと私は思います。むしろ、この第8章の最後で、神の愛をたたえる言葉がクライマックスに達したところで、だからこそますます、パウロの悲しみと痛みは深まったのだと思います。どんなものも、キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない。人間のどんな不信仰も、どんな反逆も、神の愛からわたしたちを引き離すことはできない。「神の賜物と招きは取り消されることがないから」。その確信にしっかりと立って、だからこそまた深い痛みをもって、そこに同胞のための祈りが生まれるのです。「神よ、もしも『神は愛だ』とおっしゃるなら、あなたがイスラエルを見捨てるなんて、あり得ませんよね。それは約束が違いますよね?」「もしもそうであるならば、わたしを代わりに呪ってください」。私どもの教会もまた、同胞のために、具体的には日本人の救いのために、同じ祈りをしなければならないと思うのです。
■しかもそこで、もうひとつ大切なことに気づかされます。既に主イエス・キリストが、私どものためにまったく同じような祈りをしてくださったということです。今朝の説教の最初に申しました。「このわたしが呪われますように」というのは、仮定ではなく真実の祈りである。仮定の話じゃあ何の意味もない、事実パウロはこう祈ったのだ。なぜそうでなければならないかと言うと、主イエス・キリストがまず、仮定でなく事実として私どものために祈り、それどころか事実として私どものために呪われてくださったからです。パウロはガラテヤの信徒への手紙第3章13節にこう書きました。
キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたキリスト、まさしくそのように、神に呪われ、神に棄てられたキリストが、仮定ではなく事実として私どものために祈ってくださった祈りは、このようなものでありました。「神よ、どうか彼らを救ってください。見捨てないでください。そのためなら、どうか代わりにわたしを呪ってください」。「あなたを救うためなら、わたしはどんな犠牲もいとわないよ」。そんな主イエス・キリストの痛みと悲しみを知っているから、だからこそパウロもまた自分の同胞の救いのために、「私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります」と言うのです。
今朝の説教の題を、「救われた者の悲しみと痛み」としました。神に救われた者は、だからこそ、新しい悲しみと痛みを知るようになります。これは、逃れるわけにはいかないのです。十字架につけられたキリストが、わたしの救いのためにどんなに深い悲しみと痛みを背負い抜いてくださったか。そのためにキリストは、わたしに代わって神の呪いまでも身に受けてくださったのです。そのことを教えられた人間は、ただちに新しい悲しみと痛みを知るようになります。自分の隣人のために、家族のために、同胞のために。「神よ、夫の救いのために。子どもの救いのために。職場の仲間のために。彼らの救いのためなら、どうかわたしを代わりに呪ってください」。このような伝道者魂を、パウロから学び取ろう、というのは正確な言い方ではありません。十字架につけられたイエス・キリストから、この悲しみと痛みを学ぶのです。パウロもまた、「救われた者の悲しみを痛み」を知る者とされました。私どもの教会も、同じ道に立たせていただいています。お祈りをいたします。
神は、愛です。そのことを信じて礼拝をしている私どもは、その事実に反するような現実を目の当たりにしながら、深い悲しみと、絶え間ない痛みに耐えなければなりません。「なぜ、こんなにも多くの日本人が、救われないままなのでしょうか。なぜ日本を救うべき、キリストの教会が、こんなにも無力なのでしょうか。パウロのように、たとえ自分があなたから見捨てられても、神よ、日本人を救ってくださいとの祈りが、私に欠けているからでしょうか」。どうか今、救われた者の悲しみと痛みを新しく学び取らせてください。伝道と祈りに励ませてください。あらゆる機会を捉えて、どんなことがあっても取り消されることのないあなたの愛を、証ししていくことができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン








