あなたの死ぬべき体をも
ローマの信徒への手紙 第8章1-11節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第8章に入りまして、今朝もその最初の部分、1節から11節までを読みました。先週も先々週も同じ箇所を読んだわけで、今日で3回目ということになります。たいへん豊かな内容を持つ部分で、本当はあと2回でも3回でもこの箇所で説教ができるはずだと思うのですが、来週のイースターの礼拝から次の部分に進みたいと考えています。今朝は特に、6節のみ言葉を中心に礼拝をしたいと思います。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
何となくわかったような、でも実はよく考えるとひとつもわからないような、不思議な深みを持った言葉だと思います。
肉と霊についてはまたあとで考えたいと思いますけれども、まずここで大切な意味を持つのは、「思い」と訳されている言葉です。直前の5節にも、同じ言葉の動詞形があって、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います」。この「思い」とか「思う」という言葉は、何と言いましょうか、少し特別な言葉で、たとえばひとつの説明をすると、ぼんやりした思いではない。かと言って、難しい数学の問題に取り組んで、頭をフル回転させているというのともまた違う。もっと深い、私どもの根本的な心の向きとでも言うべきでしょうか。
この言葉について、私がなぜかよく覚えている説明があります。かつてこの教会の牧師であった加藤常昭先生が、マルコによる福音書を最初から最後まで説教されたものが書物になっています。そのマルコ福音書の第8章33節に、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」という主イエスの言葉があります。弟子のペトロが厳しく叱られた言葉です。「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」。その場合の「思う」とはどういうことだろうか。少し加藤先生の言葉を引用します。
ひとつのことを思い続ける。自分の考えがいつも同じ方向を向くような思いを抱くということです。私どもが町を歩いている、鎌倉の海岸に立っている、ぼんやりしながらふっと自分の心に気づいた時に、自分の心はどこを向いているか。
そういうときに、自分の心は神のことを思っているのか。神のことを思わず、人のことを思っているのか。自分の心の根本的な向きが、どこに向かっているのか。
この加藤先生の説教が、今でも心に残っているのは、これを読んだとき、ちょっとぎくりとしたという理由があるかもしれません。「私どもが町を歩いている、鎌倉の海岸に立っている、ぼんやりしながらふっと自分の心に気づいた時に、自分の心はどこを向いているか」。あるいはむしろ、いきなり誰かからひょいと声をかけられて、「今、何を考えていましたか?」と聞かれたら、どういうことになるか。「お金のことを考えていました」。「人の悪口を言っていました」。「情欲を抱いて他人の妻を見ていました」。「過去の栄光に浸っていました」。いろんなことを私どもの心は思うのですが、その私どもの思いの向きが、根本的にどうなっているか。神のことを思っているのか、人のことを思っているのか。
そのことについて、このローマの信徒への手紙第8章では、私どもの心の向きというのは、根本的にふたつの方向しかない。ひとつは肉の思いであり、それはすなわち死の道だ。もうひとつは霊の思いであり、それは命と平和の道だ。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」。そう言うのです。
しかもそれは決して、「さあ、あなたはどちらを選びますか」という話ではないのです。9節には、「しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります」と書いてあります。この言葉については先週の礼拝でも触れました。むしろこれは、「しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているのだから、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります」と訳したほうがよいところです。事実、あなたがたの内には、神の霊が住んでいてくださるのだ。そうであるならば、その人は、心の向きが根本的に変わるのです。どんなときにも! それこそ「私どもが町を歩いている、鎌倉の海岸に立っている、ぼんやりしながらふっと自分の心に気づいた時に、自分の心はどこを向いているか」。ふと気づくと、自分の心は命に向かっている。平和に向かっている。それがどんな場合でも。特別な不幸に見舞われたとしても、家族の葬りをしなければならないときにも、あるいは誰かと難しい関係になってしまったというときにも、けれどもふと気づくと、自分の心は、やっぱり命と平和のほうを向いているのです。根本的に。
ここに、神に救われて生きる者の幸いは極まるのです。いつも、心のいちばん深いところでは、命と平和を見つめているのです。
■ここに「平和」という言葉が出てきます。「霊の思いは命と平和です」。神の霊を与えられ、神の霊に導かれて生きる人間は、その心がいつも平和を見つめている。しかしまたこの言葉は「平安」と訳すこともできる言葉です。「平和」と訳すべきか、「平安」と訳すべきか、場合によっては議論にならないでもありませんが、やはりここは「平和」と訳すべきだろうと思います。「霊の思いは命と平安」でも悪くないような気もしますが、ここはどうしても「平和」と訳したい。なぜかと言うと、平和の反対は不和だからです。もっとわかりやすく言えば、喧嘩しているか、していないか。敵か味方か。ここでの平和とか平安というのは、ただ心が穏やかであるか、乱れているか、心臓がドキドキしていないか、という種類の話ではないのです。
このローマの信徒への手紙は既に第5章において、「神の敵」という言い方をしています。われわれは、神の敵だったんだ。ところが、私どもがまだ神の敵であったときでさえ、「御子の死によって和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(第5章10節)。なぜ神の敵であったのか。私どもが罪を犯していたからです。その場合の罪というのは、ただあれやこれやの悪いことをするということではなくて、根本的に私の心の向きが、「神のことを思わず、人のことを思っている」。それをロマ書では、「神の敵」と呼ぶのです。
こういうことを考えるときに、私が必ずと言ってよいほど思い起こすのは、森有正という人の言葉です。哲学者というか、むしろ神学者と呼んでもよいと私は思うのですが、あるところで「アブラハムの生涯」という講演をなさいました。その中でこういうことを言っています。
人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしてしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。
これは、一度聞いたら忘れることのできない言葉だと思います。あまりにも強烈で、逆においそれと説教の中で紹介しにくいとさえ思う言葉です。けれども私は、大げさでも何でもなく、ほとんど毎週礼拝のたびに、この森有正の言葉を思い出します。神さまの前に出ると、よくわかるのです。人間というものは誰でも、それぞれに、この「心の一隅」を持っている。自分だけが知っている秘密の部分です。問題は、その秘密の場所がいちばん汚いんです。親にも先生にも言えない。妻にも言えない、夫にも言えない、親友にも言えない。いちばん恥ずかしいところだから。その「心の一隅」、われわれはそこで神にお会いするんだ。それ以外の場所では、神さまは会ってくださらない。
そのことが本当によくわかったとき、きっと私どもは、この手紙の第5章が語る「神の敵」という、たいへん強烈な言葉の意味が理解できるようになるのだと思います。「わたしは、神の敵なんだ」。そのことを知って、絶望しようということではありません。まさにそのような「心の一隅」で、わたしのほうから神さまを見つめるなんて到底できないというところで、むしろ神がわたしを見つめてくださる。「敵であったときでさえ、御子の死によって和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。だからこそ、私どものほうからも、いつも心は神のほうを向いているのです。「神さま、神さま」。どんなに醜い心であったとしても、いやむしろだからこそ、「神さま、神さま」と神の名を呼ばないわけにはいきません。神の与えてくださる命と平和を、まっすぐに見つめるのです。そういう、根本的な心の向きを与えられるのです。
■今朝は6節の言葉に集中すると最初に申しましたが、だからと言ってその続きを読まないわけにはいきません。その次の7節では「なぜなら」と言います。なぜ肉の思いは死で、霊の思いは命と平和なのか、その理由を読まないわけにはいかないでしょう。ところがそこには、またしても難しそうな話が続きます。「なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです」。なぜここに律法なんて話が始まるのでしょうか。
実は既に3節にも、この律法という言葉が出てきました。「律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました」。律法って、何でしょう。そのことについては、既に第7章を読んだときにも丁寧に学びました。律法とは、人間が勝手に考え出したものではありません。神さまからいただいたものです。その代表は、毎週礼拝の最初に唱えている十戒です。「わたしはあなたの神だ。わたしがあなたをエジプトの奴隷状態から救い出したんだ」。そのような十戒を毎週唱えながら、私どもは繰り返し、神の愛を確かめるのです。「このように、わたしがあなたを愛したのだから、あなたはこのように生きるんだ。わたしだけが、あなたの神なんだ」。それは言い換えれば、神に愛されて、神との間に平和を得ている人間がどういう生活をするか、という話です。律法とはもともと、命と平和を見出すための道しるべでしかありません。
けれども問題は、「律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったこと」があると書いてあります。「律法が肉により弱くなる」というのも不思議な表現ですが、ある人はこの3節を言い換えて、「人間の罪が律法を弱体化させたのだ」と言いました。神との間に平和を作るはずの律法が、それが人間の手にかかると、変なものに変わってしまいます。その結果、律法にはできなくなってしまったことがある。何ができなかったのでしょうか。どんなに一所懸命律法を守っても、命が見つからないのです。平和が見つからないのです。
先ほど、森有正の言葉を紹介しましたけれども、私どもは皆、他人に知らせることのできない心の一隅を持っていると、そう言われると、私どもはまずいろんな悪いことを考えるでしょう。殺したり、姦淫したり、盗んだり。ところが、律法を大事にする人たちというのは、そういう掟はひと通り守るのです。この手紙を書いた伝道者パウロなどはその代表選手のようなものですけれども、パウロは別の手紙で、「私は律法の義については非の打ちどころがなかった」と言い切っています。事実その通りだったのでしょう。神の律法に照らし合わせて、完璧な人生を送ってきた。けれども問題は、人間というのは、自分が正しければ正しいほど、むしろ深刻な罪を犯すのです。
森有正の「心の一隅」という言葉にこだわるようですけれども、私個人のことを考えてみても、自分のいちばん汚いところ、自分でも死にたくなるくらいうんざりすることはたくさんあるのですが、私の内にある律法主義者の罪・ファリサイ派の罪は、どうしようもないほどだと思います。それは、繰り返しますが、最初はあくまでも「心の一隅」なのです。「どうしてこの人、こんな簡単なことがわからないんだろう」。「どうして時間を守れないんだろう」。「どうしてあの人、あんなに愛がないんだろう」。「どうしてこの人、こんなに心が狭いんだろう」。そう思っている自分が実はいちばん心が狭いのですが、自分が正しければ正しいほど、いつの間にか、その「心の一隅」が、態度に出る。顔に出る。言葉に出る。行いに出る。……
そこでふっと気づくのです。「私どもが町を歩いている、鎌倉の海岸に立っている、ぼんやりしながらふっと自分の心に気づいた時に、自分の心はどこを向いているか」。命と平和を見つめているのか。それとも、死を見つめているのか。この手紙を書いたパウロという人は、そのことが誰よりもよく理解できたのかもしれません。一所懸命律法を守ろうとすればするほど、けれども自分の思いは命を見つめていないじゃないか。平和を見出していないじゃないか。そんな私どものために、御子キリストは死んでくださったのだ。
そのことを3節はさらにこう語っていきます。「律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです」。
■今日から受難週が始まります。明日月曜日から金曜日まで、主の苦しみを覚えて、毎日祈祷会をいたします。一度でもいい、二度でもいい、ぜひこの祈祷会に出席して、教会の仲間たちと共に聖書の言葉のもとに立つという、受難週の心を大切にしていただきたいと、心から願っています。その中心に立つのは、主が十字架につけられたという、このひとつの事実です。人間が、神のひとり子イエスを十字架につけたのです。それはしかし、いかにも悪そうな、誰がどう見ても極悪人というような人たちが、よってたかってイエスさまをいじめたという話ではないのです。むしろ当時の社会で、考えられる限りいちばん正しい生活をしていた人たちが、神の律法の名において主イエスを裁いたのです。
それをローマの信徒への手紙は「肉」と呼んでいる。その場合の「肉」とは、いわゆる肉欲、性欲というような話とは何の関係もありません。肉体的な健康だけでなく、精神的にも豊かな生活をしなければいけませんよ、などという話でもないのです。肉とは何か。さらに進んで8節を読むと、こう書いてあります。「肉の内にある者は、神に喜ばれることができません」。何気ない言葉ですが、悲しくなってくるくらい深い意味を持つ言葉だと思います。
「肉の内にある者は、神に喜ばれることができません」。あるいは別の翻訳をすると、「肉の内にある者は、神を喜ばせることができません」。口語訳、さらにその前の文語訳など、古くはそう訳されました。そこでまたふっと、自分の心を見つめるのです。「町を歩いている、鎌倉の海岸に立っている、ぼんやりしながらふっと自分の心に気づいた時に、自分の心はどこを向いているか」。神に喜ばれたいのか、あるいは神を喜ばせたいのか。それとも、そうではなくて、自分を喜ばせたいのか。ある聖書学者は、この「肉」という言葉を説明して、「自己中心主義」と言い換えて見せました。「ああ、そうか、そういうことか」と、その見事な解釈に驚きさえ覚えました。「肉」とは、自己中心的な生き方のことだ。なぜかと言えば、肉にある者は自分を喜ばせることしか考えないのです。神に喜ばれるかどうか、そんなことはどうでもいいのです。自分を喜ばせたい。いつだって「自分が、自分が、自分が」。そうやって自分を喜ばせるために、殺したり、姦淫したり、盗んだり、隣人について偽証したり。けれどもまた、ただ自分を喜ばせたいがために、「どうしてあの人はあんなに愛がないんだろう」。「どうしてあの人は、あんなに心が狭いんだろう」。「どうしてあの人は……」、「どうしてあの人は……」。いかにも自分がいちばん正しいような顔をしながら、結局は、自分を喜ばせたいだけなのです。「肉の思いは、死です」。本当に、そうなんです。
けれども、そんな私どもが、キリストの十字架の前に立たされます。そう言えば、ローマの信徒への手紙の第15章3節にも、「キリストもご自身を喜ばせようとはなさいませんでした」と書いてあります。このお方が十字架につけられたのは、自分を喜ばせるためではなかったのです。そんなの当たり前だろう、と思われるかもしれませんが、私どもはこのお方の前に立ちながら、どうしようもなく悲しくなってきます。いつまでたっても、自分を喜ばせたい、そんな私どもなのです。そんな「心の一隅」をも包み隠さず、私どもは主の十字架の前に立ちます。「あなたの心は、どこを向いているんだい」と、主イエスのみ声が聞こえるかのようです。けれども、そのみ声が聞こえたとき、既に私どもは、肉の中にはおりません。神の霊が、あるいは9節の後半の表現で言い直せば「キリストの霊」が、私どもの心の向きを根本から変えてくださるのです。
町を歩きながら、ぼんやり海を眺めながら、あるいは台所に立ちながら、ふと気づくと、自分の思いは命に向かっている。神との平和を見つめている。主の十字架の前に立ちながら、いつの間にか、私の願いは、神に喜ばれること、それだけだ。そのような受難週の歩みを神の霊が造ってくださるようにと、祈りをひとつに集めたいと願います。お祈りをいたします。
私どもの罪のために十字架につけられた、み子イエスのお姿を仰ぎつつ、今ここでも、あなたの聖霊が私どもの心の一隅に住まいを定めていてくださることを信じます。いつまでたっても、自分を喜ばせること、ただそのことばかりを求めている私どもが、命を見つめることができますように。平和を見つめることができますように。主イエスよ、どうかあなたの霊を、私どもの心にお与えください。主のみ名によって祈り願います。アーメン







