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私は福音を恥としません

2025年2月9日

ローマの信徒への手紙 第1章8-17節
川崎 公平

主日礼拝

■先週の礼拝に引き続き、ローマの信徒への手紙第1章8節以下を読みました。私どもの聖書には「ローマ訪問の願い」という小見出しがついています。もともと伝道者パウロがこの手紙を書いたのには、はっきりとした動機がありました。いつか必ず、ローマに行きたい。ローマの教会を訪ねたい。けれどもその道が開かれない。その自分の思いを伝えるために、ひとまず手紙を書いたものが、今このように、私どものためにも書き伝えられているのです。

10節にこう書いてあります。「祈るときにはいつも、神の御心によって、あなたがたのところに行く道が開かれるようにと願っています」。これだけでも、パウロの強い思いが伝わってこないわけではないと思いますが、おそらく聖書協会共同訳は、大事な言葉をまるまる訳し忘れたのではないかと疑っています。皆さんの中に、まだ新共同訳聖書をお持ちの方があるかもしれません。新共同訳には「何とかしていつかは」という言葉があります。「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」。ちなみにその前に使っていた口語訳という翻訳では、「いつかは」「どうにかして」と訳されました。「いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるように」。かなり強い気持ちを表す言葉で、実はそれをうまい具合に日本語に移すのは難しいと思うほどなのですが、どうやら聖書協会共同訳は、それを丸ごと訳し忘れてしまったようです。それこそ「何とかしていつかは」訂正をお願いしたいと思うところですが……。

それほどまでにローマに行きたいとパウロが願った理由は何でしょうか。ひとつは、先週の礼拝でお話ししたことです。11節以下に書いてある通り、あなたがたに会って励まし合いたい、慰め合いたい。けれども実は、もうひとつ大切な理由がありました。それは、世界中に福音を告げ広めたいということです。14節以下にこう書いてあります。

私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

もともとパウロが「何とかして行きたい」と願ったのは、実はローマだけではなかったようです。この手紙の終わり近く、第15章22節でもう一度、ローマを訪ねたいのだけれどもそれがなかなかうまくいかない、という話をしながら、その箇所で初めて明らかになることは、パウロの本当の目的地はローマではなかったということです。ローマを経由して、最後にはイスパニアに行きたいのだと書いてあります。イスパニアというのは、その言葉の響きからもおわかりになるかと思いますが、スペインのことです。当時の人びとの知識から言えば、西の果てまで行きたい。この世界の端から端まで、神のくださる良い知らせを知らない人がひとりもいないように。私には、その責任があるのだと、14節では言うのです。

私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

責任というのは、決して軽い気持ちでは口にできない言葉だと思います。「私には、ローマにも行かなければならない責任があるのだ。だから、いつかは、どうにかして」。私どもは、この責任を知っているでしょうか。福音を、すべての人に告げ知らせなければならないという責任です。それとも、それはパウロだけが果たすべき責任であって、われわれにはそんな責任はないのでしょうか。そんなことはないと思います。

■パウロがそこまで書いたのには、はっきりとした理由がありました。そこで大切な意味を持つのが16節以下です。

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

この16節以下を読むときに、ひとつ大切なことがあります。先週も今週も、8節から17節までを続けて読みました。途中で切らずに、続けて読むことに大切な意味があると思うからです。けれども私どもの翻訳では15節までの段落と、16節、17節の段落をはっきりと分けました。理由ははっきりしていて、この16節、17節にローマの信徒への手紙の中心主題が書かれていると、誰もがそう考えるからです。そうであるに違いありません。しかしだからと言って、パウロが16節以下の段落を、突然違った心持ちで書いたとも思えないのです。パウロの気持ちからすれば、15節と16節の間には何の切れ目もない、ひと続きの文章です。

言葉の上でもそれははっきりしていて、これも私どもの翻訳では省略されてしまったのですが、16節の最初のところには「なぜならば」という接続詞があります。「私は世界中の人に責任がある。ローマにいるあなたがたにも福音を告げ知らせたい。それはなぜかと言うと、私は福音を恥としないからだ」と言うのです。実は16節の最初だけではありません。16節から17節にかけて3回も「なぜならば」という言葉が繰り返されています。なぜ私はローマに行きたいのか。「なぜならば」「なぜならば」「なぜならば」と、畳みかけるように文章を重ねるパウロの言葉には、非常に熱いものがあります。

そこで、14節から16節を私なりに訳し直してみます。「私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。なぜかというと、私は福音を恥としないからです。それはなぜかというと、福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。なぜかというと、なぜ福音はすべての人の力なのかというと」、さらに17節に続いていくわけですが、そのあたりは改めて再来週の礼拝で考えてみたいと思います。

いずれにしても主旨はご理解いただけたと思います。なぜパウロはローマに行きたいのか。福音の力を知るからこその、責任があるからです。私どもは、福音の力を知っているでしょうか。すべての人に、救いをもたらす神の力です。もしその力を知っているなら、そこにはただちにまた、伝道の責任が生じるのです。すべての人に福音を告げ知らせる責任です。自分の目の前に、病気で苦しんでいる人がいる。死にそうになっている人がいる。ところが実は、この薬を飲みさえすれば治る。自分が今その薬を持っている。さあ、どうする。「どうぞこれをお飲みなさい」と教えてあげる責任が生じるでしょう。目の前に苦しんでいる人がいるのに、実は特効薬を隠し持っていたことがあとでばれたら、重大な責任を問われるに違いありません。

■ただ、皆さんは、今私が話して見せた安直な譬えを聞いて、そう簡単には説得されなかったと思います。特効薬とか言われても、何か騙されているような気がする。そうだと思います。福音というものは、「この薬を飲めば治りますよ」という話とは違った性質を持つからです。

その福音の特質を見事に言い表した言葉が、「私は福音を恥としません」という、この不思議な言い回しであると思うのです。なぜこんな言い方をしなければならなかったのでしょうか。「私は福音を誇りとします」という言い方では足りないのでしょうか。実際、このところをそのように訳してみせた注解書もないわけではありません。しかしそれなら、最初からそう書けばよいのです。なぜパウロはここで、「私は福音を恥じない」という、妙な言い回しをしたのでしょうか。

先週一週間、例によって今朝の説教の題が教会堂の前に貼り出されました。「私は福音を恥としません」。こんな言葉を読んで、道行く人は何を思うだろうかと思いました。逆に、「え? 何か恥ずかしいことでもあるんですか?」ということにもなりかねない。しかし、わかる人にはわかると思います。福音を恥じたくなる思いを、少なくとも日本に生きるキリスト者はどこかでよく理解していると思うのです。毎週日曜日に教会に行っていることを、すべての人に隠すことはないかもしれないけれども、あの人には言いにくいな。あなた、日曜日には教会に行っているらしいけど、いったい何しに行くの? もしも誰かにそう聞かれたら、「私が教会に行くのは、福音を聞きに行くためです」と、そう答えていただきたい。余計なことは言わなくていいのです。教会に行くと、よい知らせを聞くことができるから。その福音は、すべての人を救う神の力だから。それだけ、答えればよいのです。けれどもそれは、どうも言いにくいなあ。少なくとも、あの人とあの人には言いにくいなあ。「福音を恥じる」という心の動きが、そのようにして始まるのです。

主イエスご自身も、そのような私どもの心をよくご存じでした。ある時主イエスは、弟子たちだけではありません、そこにいた群衆を皆呼び寄せて言われました。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」。わたしに従いなさい。けれども、前もって知っておくがよい。わたしに従う者は、必ず十字架を負うことになる。いったい、その十字架って何だろう。続けて主はこうも言われました。「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は(つまり、福音を恥じる者は)、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。主イエスが、どんなに深い悲しみを込めてこのようなことをお語りになったかと思うのです。「主イエスよ、あなたに従います」と言いながら、その当人が実は主イエスのことを恥じている。そのみ言葉を恥じている。福音を恥じている。そういうことが起こる「罪深いこの時代」であり、この教会でもあることを、主もまたよく知っておられたのです。なぜそんな事態が生じるのでしょうか。

■パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ第1章23節にこう書いています。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」。けれどもそれは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」だと言います。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(同22節)。けれどもわれわれは、ただひたすらに十字架につけられたキリストだけを宣べ伝える。ここに神の力があり、神の知恵があるからだ。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」というのは、古今東西変わることのない真理です。私どもも、伝道したいと願っているのです。そしてそのときに、私どもがよく考えなければならないひとつのことは、いったい現代の日本人は何を求めているのだろうか。何に悩んでいるのだろうか。何を喜びとしているのだろうか。そういうことについて、教会は無知であってはなりません。だがしかし他方から言えば、人間の求めることは、結局いつも同じなのです。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」。

「キリスト教を信じたら、儲かりますか?」と聞かれたら、「うーん、たぶん、お金は儲からないと思いますよ」と答えるほかないでしょう。「キリスト教を信じたら、笑顔になれますか?」「うーん、たぶんね……」。「キリスト教を信じたら、幸せの秘訣を知ることができますか?」「うーん、まあ、期待通りではないかもしれないけどね……」。けれどもそこで教会は言うのです。いや、実はそんなことより、もっとすばらしい知らせがあるんです。あなたのための、良い知らせです。どうか聞いてください。神のひとり子が、あなたのために死んでくださったのです。あなたが罪から救われるためです。そのお方が、神の力によって復活させられたんです。どうです、すばらしいでしょう。……それを聞いて、ある人はつまずき、ある人は馬鹿にするだろうと、パウロは言うのです。

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです(コリントの信徒への手紙Ⅰ第1章22~25節)。

同じことを、ここでもパウロは言うのです。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」。

■ある神学者が、「私は福音を恥としません」という言葉をこのように言い換えて見せました。「私は福音が勝利するために思い煩わない」。その言葉を読んだときの自分の感情を、ひと言で説明することはできません。励まされたと言うべきか、感謝という言葉では全然足りないし、むしろ恥ずかしくなったと言うべきか、とにかくさまざまな思いを巡らさずにおれませんでした。「私は福音が勝利するために思い煩わない」。ひとつ確かなことは、パウロは福音の力を信じていたということです。私ども教会は、キリストの福音をお預かりしています。その福音とは、神の力です。福音自身が力を持っているのですから、福音が勝利するために思い煩うことなんかひとつもないし、まして福音を恥じることもないのです。

私どもが、実はよく知っていることがあります。世の中、結局最後は力なのです。どんな理屈をこねてみたって、どんなに美しい理念や理想を語ってみたって、最後は力の強い人が笑うのです。そして、力のない者はどうしたって思い煩いが絶えないし、結局辱められるほかないのです。この世の中、結局は力なのです。しかし、その最後の力を持っておられるのが神だとしたら、どうでしょうか。その神の力が、悪い知らせではなくて、良い知らせとして届いているのだとしたら、そしてそれが私どもの手に預けられているのだとしたら、どういうことになるでしょうか。

主イエスの一番弟子のペトロも一度は主を恥じました。「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は」、いったいどういうことになるだろうか、という主の言葉を最前列で聞いていたはずのペトロが、それでもいちばん肝心な時に主イエスのことを恥じました。「お前もあのイエスとかいうガリラヤ人の一味だろう」と言われて、呪いの言葉まで口にしながら、「あんな人のことは知らない」としらを切り通しました。そんなペトロが、それでも主イエスの福音を信じるようにさせていただいたのは、しるしを見たからではありません。何かの知恵をつけたからではありません。神の力の前に立たされたからです。復活の主の前に立たされて、神の力を突き付けられて、ペトロは福音のために再び立つことができました。

この手紙を書いたパウロも、同じだったと思うのです。復活のキリストの前に立たされて、その光に打ち倒されたところから、パウロの人生はまったく新しくなりました。自分は、死人の中から甦られた方から遣わされているのである。その力を知っていれば、この世界でどんなに偉い人に睨まれたって、思い煩うことはありません。どんなに頭の良さそうな人に見下されたって、恥じることはありません。福音は、すべての人に救いをもたらす神の力なのですから、それほどの力を、神からお預かりしていることを恥じるなどということは、考えられないことです。

■それほどの神の力をお預かりしている人間が、傲慢になることはありません。怠け者になることもありません。かえって深い責任を感じながら、「何とかして、いつかきっと」、あの人にも福音を伝えることができるようにと、願わずにはおれなくなるのです。そのようなパウロの思いの深さをよく伝えてくれているのが、14節のこの表現です。

私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。

福音は、16節に書いてある通り、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」なのですから、すべての人にその福音を伝える責任がある。しかしここでは単に「すべての人」ではなくて、「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも」と言っています。この場合の「ギリシア人」というのは、国籍がギリシアにあるという意味ではなくて、「ギリシア語を話す人」ということです。当時は、ギリシア語ができるということが教養ある人間として重要な意味を持ちました。ですから、当時のローマ帝国の第一公用語はもちろんラテン語であったわけですが、そんなローマ人にとっても、少しでも高級なことを書いたり話したりしようと思ったら、そこはラテン語よりも、ギリシア語のほうがよいだろう、という感覚がありました。したがって、ギリシア語を話せないということは、それだけで人間として低級であるという風潮がありました。そういう事情を象徴的に伝えてくれるのが、そのあとの「未開の人」という言葉で、原文ではバルバロイbarbaroiです。英語のバーバリアンbarbarianの語源、要するに野蛮人です。しかしもともとの意味は「ギリシア語を話せない人」、それをギリシア語で「バルバル人」と呼んだのです。「バルバル」というのは、日本語の「英語ペラペラ」というのと同じことで、ニュアンスは真逆なのですが、「バルバル人どもがバルバルしゃべりやがって、野蛮人の言葉はわけがわからん」というところから、「バルバロイ」という悪口が生まれたわけです。

ところがパウロはここで、そういうあってはらならない差別がある現実を受け止めながら、だからこそ自分には福音伝道の責任があると言っているのです。一方にはギリシア人がおり、他方にはバルバロイがいる。かと思えば、一方にはユダヤ人がおり、また一方には異邦人がいる。先週も先々週も同じ話をしましたが、決して大きくないローマの教会の内部にさえ、野菜しか食べない人と何でも食べる人がおり、そこには差別があり、区別があり、言葉が通じない現実があったのです。だから福音を伝えないと。そのことによってすべての差別も区別も消えるという望みを、パウロは望み見ていたと思います。

だからパウロは、ガラテヤの信徒への手紙第3章でもこう言いました。あなたがたは、キリストにあずかる洗礼を受けたではないか。あなたがたは皆、キリストにあってひとつなのだ。だから、ユダヤ人もギリシア人もない。奴隷も自由人もない。男も女もない。あなたがたは、キリストにあってひとつなのだ。

西の果てから、東の果てまで、本当の意味で人間がひとつになることができるなら。そのために、教会は神から良い知らせをお預かりしています。すべての人に救いをもたらす神の力です。「何とかして、いつかきっと」、あの人にも良い知らせを届けることができるように。神の力が及ぶように。聖なる責任を与えられたパウロという人は、本当に祝福されていたと思います。私どもも等しく、その責任の中に巻き込まれているのです。お祈りをいたします。

 

今私どもも、お甦りになったキリストの前に立たされて、あなたの力を知ります。すべての人に救いをもたらす、神の力です。最後の力を持っておられるのは、ただ神おひとりです。ですから、私どもも、あなたが勝利するために思い煩いません。あなたの言葉を恥じるこの世界の中にあって、聖なる責任にしっかりと立つ者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

 

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