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知りぬく愛

2024年12月29日

ヨハネによる福音書 第13章31-38節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

主イエスとペトロの関係をなんと言ったらいいてしょう。それはたぶん、主イエスと私どもの関係のように、とてもひと言では言い難いです。でももし、ほんとうにひと言で言うなら愛です。

ペトロは、弟子たちの中でも自分みたいな人です。いつも何かをやってしまい、いつも自分の気持ちが先立って余計なことを言ってしまい、その都度、主の眼光にあたって、幾度叱られたことでしょう。こんなにも、指の先まで主を見つめているのに、毎日主に従いたいと願っているのに、でも自分の考えることや、することは、意にそぐわないことばかりです。
そうやって、苦しいほど主を思っているのに、うまくいかない自分。死にますというのに、死ねない自分。泣いちゃう自分。

でもそのたびに、主がペトロになさることは、真実の愛でした。植村正久先生という人がいました。鎌倉雪ノ下教会の最初の礼拝で説教をなさった先生でいらして、また日本伝道を導かれました。説教においては、ヨハネ福音書の復活のところを何度も説教されたと伺っています。特に主が復活をなさって、ガリラヤの湖に帰った弟子たちのところに、ご自分を現された時の説教は秀逸で、忘れることができません。弟子たちはまだ主とはわからない方のお言葉で夜明けの湖に舟を出しました。でも湖に立っておられる主の声を聴いただけで、ヨハネが「主だ!」というと、ペトロもそれを知って、舟から湖に飛び込み、主のもとへ、泳ぎます。
その時に植村先生が、ペトロは片時も早く「主の謦咳に接したいと思ったからであろう」、というのです。主の謦咳に接し、とは主にお目にかかるという意味ですけれども、でも私はその謦咳という表現にほんとうに胸を打たれました。謦咳とは咳払いです。おほん、というものです。

主を裏切って、主を知らないと言って、主のお傍からいなくなったペトロです。そのまま主は十字架におつきなって、暗い故郷の湖に意気消沈して帰っていたペトロが、明け方、復活の光が射したとき、「主だ!」とわかった途端に、主のもとへ泳いでゆくのです。がむしゃらに泳いでいくのです。顔を上げて、ただ主だけを目がけて、泳いでいきながら、湖の岸辺に立っておられる主が、それで、謦咳。
おほん。

なんとも、ゆるしに満ちた、そのお姿を想像して拝見することができます。朝の湖で、主と自分の、二人だけにわかるこの関係です。もう何も言わないでもわかったのです。
主がすべてを知っておられる。

自分のどうしようもない惨めさや、……悲しみを、主が知っていてくださる。もう捨て去りたい自分を、主がお捨てにならなかった。

もし復活された主が、ここに来てくださらなかったら、もし主の復活そのものがなかったら、おそらく自分はもういなくなっていたでしょう。たとえ生きていても、生きている実感がなかったことしょう。でもそんな自分に、主が会いに来てくださって、それで、おほん!

そういったことが、私どもにも、わが身に沁みるのです。

今日は、それに先立つ最後の晩餐の席で、主がペトロにペトロの否認を予告されたところです。食事の席からユダが出て行き、弟子たちが11人になった時に、主が、「今や」ご自分が栄光を受ける時が来たと言われました。ヨハネ福音書では十字架は栄光を指します。そしてそれによって「父が栄光をお受けになった」(13:31)とも言われました。父が栄光を「お受けになった」と「そうなった」と言われているのは、父である神様がその十字架で栄光を表す、その時が、今や、来たのだ。と言われたのです。

そうして主はこれから別れの説教をなさいます。長い説教です。愛の説教です。そこには私どもの生涯に残る御言葉が詰まっています。そしてその語り始めも愛でした。互いに愛し合うようにと言われました。それも「私があなたがたを愛したように」(13:34)と言われました。私があなたがたを愛したように、同じように、あなたがたも愛してゆくのだと言われました。そうすれば「あなたがたが私の弟子であることを皆が知るであろう」(13:35)。周りの人たちが知ってゆくだろう。あなたたちはあの人の弟子なんですねということが、あなたがたの愛の在り方で、知ってゆくだろう、と言われました。

でもどうも、ペトロはそれを聞いていなかったようです。聞いていたと思いますけれども、そんなことよりも、となってしまったようです。そんなことよりも、主が「私が行く所にあなたがたは来ることができない」(13:33)。と、はっきりと言われたので、そっちのほうがペトロをいっぱいにして、それでペトロは言いました。
「主よ、どこへ行かれるのですか?」(13:36)

主よ、どこへ行かれるのですか?
お一人で、どこへ行かれるのですか?

それはペトロだけじゃなく、ほかの弟子たちもみんな思っていたことでしょう。死の予感があったのです。みんなこわかったのです。それでペトロは、ほとんどこみ上げて聞いたのだと思うのです。主よ、どこへ行かれるのですか?どうして、私たちはそこへ行くことができないのですか?どうして今すぐ、ついて行くことができないのですか? それで、そんなことはありません。主よ、私は、命を捨てます!と言ったのです。「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。

でもペトロは、主から言われてしまうのです。
「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(13:38)。

果たしてその通りになりました。

主イエスのほうが、ずっとペトロを知っておられたのであります。主イエスのほうが、自分よりも自分のことをよくわかっておられたのです。愛はその人のことをよく知っていることです。その人のことを、よくわかっていることです。だから主は厳しく言われました。
「命を捨てるというのか。」(13:38)

あなたは私のために命を捨てるというのか。

確かに今は、それはできないのです。ペトロは主を知らないと言うのです。でもこれは何も、あなたにはできない。単にそう言われているわけではないのです。事実、こののち教会の迫害時にペトロは殉教し十字架につきます。主のために死ぬのです。だからそうではなく、ここで言われているのは、今、あなたはそれがどうやって起こるか、わかっていないからです。

命を捨てると、言ったのは、復活がわかっていないからです。死ぬことしか考えていないからです。どこへ行かれるのですか?というのも、主が死なれることしか考えていないからです。主が死なれるなら、一緒にとしか考えていないからです。死んで終わりだと思ってるからです。でも主はこれから、その死を命に変えられるのです。それで父の所に行かれるのです。その命の道を通されるのです。そのために、そこへ行かれるのに、それがわかってないからです。すなわち、主の愛がわかっていないのです。主の愛がほんとうにはわかっていないのです。

でもそんな私どもを、主のほうはよく知っておられます。先ほど読みました詩編には、そういうことが書かれてあります。主は知っておられるというのです。詩編第139篇です。

「主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。」……「遠くから私の思いを理解される。」……「私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」………

そしてたとえ私が「闇は私を覆い隠せ」と言っても、たとえ私が「私を囲む光は夜になれ」と言っても、たとえ私がもうすべてが闇になれと言っても、しかし主よ「闇もあなたには闇とはならない」のです。そしてたとえ私が「あなたを知らない」と言っても、そうして私があなたとの関係を絶とうとしても、でもそれも、主よ、あなたがご存じなのです。

私どもが何を考えているか、朝起きて何を考えているか、座るのも立つのもご存じのあなたが、私どもが繰り返し、挫折して、思いもしない所であなたを知らないかのようにふるまっても、その闇もあなたには闇とはならず、あなたがご存じだから、あなたが私をご存じだから、すべてをわかっておられるから贖えたのであります。

主が、私をぜんぶ知っておられるから、だから私を、贖うことがおできになったのです。

おおまかに、こういう人だろうというだけではそれはできないのです。その人をよくわかっていないとできないのです。その点、神であるお方なら、一切をよくおわかりであるから、かつ人となられた主であるから、そのいっさいを引き受けて、私の代わりになることがおできになったのです。

主に知られているとは、
それほどに、主の贖いの意味をもつのです。だからそれに気づくことが大事なのです。

もったいないことに、このときペトロが、聞き逃してしまったことは他にもありました。主はペトロに、「あとで」と言われたのです。

「今」あなたは付いて来ることはできないが(13:36)。あなたは、私の行く所に、今はついて来ることはできないが、十字架にも、今はついて来ることはできないが、しかし「後で」。
「後で付いて来ることになる」(13:36) 。主はそう言われたのです。今は、しかし、あとで。あとであなたはついてくるんだ。

ですから、主がペトロにここで言われたことは、ただの将来の予告ではなかったのです。私はあなたを贖う、ということと、あなたは必ず立ち直るという、主のご意思の、主の確信の「あとで」、なのです。

 

それで、復活の朝であります。

復活の朝、湖でペトロは主のもとに泳ぎました。そして、主の謦咳に接し。

その時、こんなにも弱い自分を、こんなにも苦しい自分を。しかし、主よ、あなたが知っておられる。それがわかったのです。主が自分のすべてを知っていてくださることが、わかったのです。主の愛をほんとうに知ったのです。

そうしたら、主のほうから、
ペトロに愛を問われました。シモン、
私を愛しているか?

するとペトロは答えました。
「はい、主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存じです。」(21:15)

あなたがご存じです。私がどれほどあなたを愛しているかも、あなたが知っておられます。なぜなら、あなたが私にその愛をくださったからです。

主はそれをお聞きになりたかったと思います。「あとで」と言われたのは、きっとこの時を待っておられたのだと思うのです。愛は、一時の感情ではなく、消え去るものでもなく、シモン・ペトロ、あなたの愛は、私の中にあり、

私が知っている。

それがあなたの、これからの、
生きるにも死ぬにも確かなことになるのだ。

ペトロという人が、私どもとそっくりなのは、下手な生き方ばかりでなく、主を愛するこの愛を主からいただいたことであって、いわば、主に真実に愛された人はこうなる、という見本なのだと思います。

あのとき主が「周りの皆が、あなたがたが私の弟子であることを、知るであろう」と言われましたが、私どもも、そんな主の弟子であることを、主に真実に愛されている者であることを、周りの人にも、知らせたいものであります。

 

天の父なる神様、
あなたの愛を知るものとしてください。
主の御名によって祈ります。アーメン

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