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愛とは、語りかけること

2024年12月24日

ヨハネによる福音書第1章1-5,14節
川崎 公平

クリスマス讃美礼拝

 

■先ほど聖書の中から、ヨハネによる福音書の最初のところを読みました。そのヨハネによる福音書のもう少しあとのところにこういう言葉があります(第3章16節)。これをもって皆さまへのクリスマスの祝福の挨拶といたします。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神のひとり子、イエス・キリストがお生まれになりました。それをここでは、「神は、その独り子イエスを、この世界にお与えになった」と言うのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。クリスマスとは、神の愛の出来事です。

先ほど読みましたヨハネによる福音書の最初の部分も、クリスマスの出来事を伝えます。ただ、私がこの聖書の箇所をクリスマスの礼拝で読むのは、おそらく初めてではないかと思います。ここには、クリスマスの場面に必ず出てくる天使たちも、羊飼いも、博士たちも出てきません。そもそもここには、イエス・キリストの名前すら出てこないじゃないかと思われるかもしれません。ただここでヨハネが伝えることは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。たいへん不思議な言葉です。いったい、「言」とは何でしょうか。ここでは、一切の説明を省略して結論だけ言うと、この「言」とは、愛のことです。「初めに愛があった。愛は神と共にあった。神は愛であった」。その愛が、最後の14節では、「言は肉となって」、つまり、愛が肉体化して、「私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。そう言われるのです。

皆さんの中である程度聖書に親しんでおられる方は、「初めに言があった」というこの「言」とは、イエス・キリストのことだと教えられてきた方が多いと思います。もちろんその通りです。今日読んだ聖書の「言」というところを、いちいち「キリスト」と言い換えて、「初めにキリストがおられた。キリストは神と共におられた」と読んでいっても何ら差し支えありませんし、事実その通りです。けれども、それならばなぜキリストのことを「言」と呼んでいるのか、そのことを問わなければならないでしょう。

なぜ「言」なのでしょうか。ある聖書の学者は、先ほど申しましたように、「この〈言〉とは、愛のことだ」と言います。最初に、言葉があったのだ。最後まで残るのも、言葉なのだ。この言葉とは、神の言葉、神の語りかけのことです。それをこの学者は、愛と言い換えてみせるのです。愛とは、語りかけること。それをそのまま、今日の私の話の題にさせていただきました。「愛とは、語りかけること」。ちなみにその学者は、「愛とは、語りかけること」と言ってすぐに、「ちなみに、憎しみは語りかけるのではなく、脅すのである」と、またたいへん印象深い言葉を添えています。愛は語りかける。それに対して、憎しみは脅す。それは決して、本物の言葉ではないということでしょう。

■私は、もう20年くらい昔にこの聖書の学者の言っていることを読みまして、その後、年を取れば取るほどその意味がわかってきたような気がします。まだ若いくせに偉そうな、と言われるかもしれませんが、本当にそう思うのです。「愛とは、語りかけること」。

個人的なことで恐縮ですが、ちょうどこのクリスマスの季節に私の父が亡くなりまして、この12月で3年になります。いろんな思い出がありますが、不思議なことに、いちばん鮮明に覚えているのは、父の声なのです。まだ私が実家で学生をやっていた頃、「おう、公平くーん(私の名前です)、元気かー」という、独特のノリで私の部屋に入ってきて、「どうだ、公平くん、最近、肩凝ってないか」と、頼んでもいないのにいきなり肩を揉み出したりしてくれたものです。

「愛とは、語りかけること」。愛は、黙っていられないのです。放っておけないのです。その神の愛を伝えようとして、ヨハネによる福音書はこう言うのです。「言は肉となって」、愛が肉となって、「私たちの間に宿った」。宿ったけれども、宿っただけで部屋にこもりっぱなしということでは意味がありません。神は、あなたに語りたいのです。神は、愛だからです。それをこのヨハネによる福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と、そう言うのです。

先ほど、自分の父親の話なんかしてしまいましたが、しかし、私どもが思い出すいろんな人の言葉は、必ずしも良い思い出ばかりではないだろうと思います。もしかしたら皆さんの中に、父親に対して、あるいは母親に対して、決してよい思い出を持っていない方がおられたら、それは逆に申し訳ないことだと思います。そうでなくても、「憎しみは語りかけるのではなく、脅すのだ」というのは、よくわかるのです。悲しいくらい、よくわかるのです。

偽物の言葉ばかり溢れかえっているこの世界だと思うのです。本物の言葉を聞きたい。そのことを渇望しているこの世界だと思うのです。しかしだからこそ、そんな私どもの世界のために、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。もう一度申します、愛とは、語りかけることです。この世界は、神に愛され、神の言葉を聴くために造られた世界なのです。そして今ここでも、その神の愛、そのものである言葉を聴くための礼拝を共にしているのです。

■「万物は言によって成った」と書いてあります。聖書という大きな書物の最初にあるのは、創世記という文書です。その名のごとく、神が天地万物を造られたというところから、話が始まります。そこでひとつ興味深いことは、それこそここに書いてある通り、「万物は言によって成った」。たとえば、創世記の最初にこう書いてあります。「神は言われた。『光あれ』。すると光があった」。そのあとも同じように、空があれと神が言われれば空が造られ、海があれと神が言われると、また海が造られる。「万物は言によって成った」。しかし私はあるとき、ふと妙な疑問を抱いた。なぜわざわざ「光あれ」なんて言われるのだろう。いちいちもったいぶらないで、黙って造れば? しかし事実として、神は言葉によって天地万物を造られたのです。愛によって、語りかけることによって、皆さんをお造りになったのです。

言葉は、語りかけるものです。言葉は、それを聞いて受け止める存在を求めます。それが、ここにおられる皆さんひとりひとりです。「万物は、愛によって成った」。皆さんひとりひとりが、神に造られた存在です。憎しみの脅しの言葉を聴くために生まれた人などひとりもおりません。すべての人は、神の愛の語りかけを聴くために生まれたのです。

■そのために、神の言そのものであるイエス・キリストが肉となって、私たちの間に宿った。永遠に、宿ってくださるのです。私にとって、今思えば本当に大切な父の存在でしたが、しかし言うまでもなく、父は死んだのです。あの父の声の記憶が、肉となって私の中に永遠に宿る、なんてことは言えません。私どもの命には限りがあり、力にも限りがあり、したがって、私どもの愛にも限りがあると言わなければなりません。けれども、だからこそ、そんな私どもを生かすために、神のみ子が「私たちの間に宿った」。それがクリスマスの意味です。

ここに「宿った」という言葉が出てきます。実はこの言葉が、聖書の世界ではたいへん大切な意味を持ちます。別の訳し方をすると「テントを張る」という意味の言葉です。なぜテントが聖書において大切な意味を持つかというと、旧約聖書の最初は創世記、その次に出エジプト記というのがあります。神の民イスラエルがエジプトでの奴隷状態から解放されて、出エジプトという出来事を経験したのち、けれどもイスラエルは、40年間、荒れ野でテント生活を続けました。そのときに神に命じられたことは、ただ自分たちが宿るためのテントを張るだけでなく、神の幕屋を作ることでした。神もまた、テント住まいをなさった。そこで印象深いことは、その神の幕屋の前に、常夜灯を灯すことが命じられたということです。

40年の荒れ野でのテント生活、たいへんだったと思います。立派な町に住んでいるわけではない、城壁に囲まれているわけではない。夜中に武装集団の不意打ちでも受けたりしたら、ひとたまりもなかったでしょう。そういう生活をしながら、しかし神の民は、自分たちの住む場所の真ん中に神の幕屋を立て、そこにひと晩中ともし火を絶やさなかったというのです。不意に夜中に目を覚まして、ああ、われわれは闇に包まれていると思っても、神の幕屋には、決して消えることのないともし火が燃え続けている。ああ、神も共に宿っていてくださるのだ。

まさしくそのように、イエス・キリストが皆さんの間に宿ってくださった。今も、共に宿っていてくださるのです。皆さんがいつどんなときも、どんな闇の中に立つときにも、振り仰ぐと確かな光が輝いているのです。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(5節)。イエス・キリストが、皆さんと共にいてくださるのです。神は愛だから、そして愛とは、語りかけることですから、今ここでも、神は皆さんに語りかけてくださるのです。

最後にもう一度、最初に引用した言葉をもって、クリスマスの祝福の挨拶といたします。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

この神の確かな語りかけが皆さんの心にとどまり、神の愛がいつも皆さんと共にありますように。お祈りをいたします。

 

父なる御神、この世界は、あなたの愛によって造られたものです。どんなときにも、そのことを信じ抜くことができますように。憎しみばかりが支配しているようなこの世界になっていることを、それが実は、私どもひとりひとりの罪の責任によるものであることを、悲しく、また申し訳なく思います。どうか今、闇の中で光を仰ぎ続けたイスラエルのごとく、今共におられ、また語りかけてくださる主イエス・キリストの恵みに気づかせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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