今この世界で起こっていること
マルコによる福音書 第16章9-20節
川崎 公平
主日礼拝
■2年あまり、礼拝でマルコによる福音書を読み続けてきて、今朝ようやくこれを読み終えることになります。今日読みました第16章の9節以下は、〔 〕に囲まれています。その〔 〕の部分は、もともとのマルコ福音書にはなかった、という話を先週も先々週もいたしました。マルコ福音書を学問的に研究しようとする学者たちは、その学問が真剣であればあるほど、今日読みました第16章9節以下を正面から取り上げようとしません。そして、そういう学者たちからしたら、私どもの使っている聖書に「結び」という小見出しがついていることも、もしかしたら気に入らないかもしれません。なぜかと言うと、もともとマルコによる福音書は最初から第16章8節で結ばれていたので、9節以下は「結び」ではなくて「加筆」である。たいへん口の悪いある学者は、この9節以下の部分に「蛇足」という見出しを付けました。私どもはもちろん、蛇足などとは決して考えません。もっとも、私も「結び」というよりは「加筆」と言ったほうがよいのではないか、と思います。先週も先々週も申し上げたことを念のために繰り返しますが、加筆だろうと何だろうと聖書は聖書、神の言葉として読むべきものです。その上で、むしろ私どもが積極的な意味で尋ねなければならないことは、なぜ第16章8節で終わっていた福音書に、加筆しなければならなかったか、ということです。
8節にはこう書いてありました。「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。私は思うのですが、この福音書の結びの言葉は、たいへんすぐれたものです。キリストの復活という出来事に触れた人間が正気を失い、恐ろしさのあまり誰にも何も言えなかったというのは、むしろ当然のことです。気軽に噂話を楽しむような気分で口にすることができるような話ではないのです。
けれども、このような結びを読んだあと、私どもは当然尋ねたくなります。「それで、どうなったの?」どうもならないはずがありません。なぜかと言うと、今ここに教会が生きているからです。教会の歴史というのは、これをさかのぼると、キリストの復活にたどり着く。キリストの復活以外の場所に教会の歴史の起源を見出すことはできません。つまり、ここで震え上がって逃げ出した女たちが、しかしやがてある時、誰かにこの出来事を伝えてくれたから、教会の歴史は始まったのです。先ほど、「それで、どうなったの?」と言って見せましたが、それは8節までだと物語としていかにも中途半端だから、ということではなくて、もっと根本的な問いは、なぜここに教会が生きているのかということです。今私どもが教会に生かされているからこそ、キリストの復活に引き続いて「それで、どうなったの?」という問いが不可欠になってくるのです。それは決して蛇足ではありません。加筆ではあるでしょう。けれどもそれは、教会の命がかかった、必然的な加筆であると言わなければなりません。
福音書のひとつを書いたルカという人は、やはりキリストの降誕から復活までを描いた福音書を書くだけでは話が完結しないと考えて、第二巻として使徒言行録を書きました。教会の歴史であります。それもまた、今申しましたように、信仰の立場から言って必然的なことであったと言わなければなりません。キリストの復活という出来事は、必ず教会の歴史を生み出さないわけにはいきませんでした。ルカが使徒言行録を書いたような、そういう教会的な試みが、使徒言行録より小さい形で、教会のあちこちで起こっていたと想像することは間違っていないと思います。そのひとつが、マルコ福音書に対する加筆という形で、今私どもの手にも伝えられているのです。
■そこで、今朝読みました第16章9節以下であります。今朝の説教の題を「今この世界で起こっていること」といたしました。私どもの教会では、週報にその日の説教の題を載せません。説教を聴く際に、最初から「今日の説教はこういう題の話なんだな」と先入観を持って聴いていただきたくないからです。今後もその原則を変える予定はありませんが、しかし本日に限って言えば、私は、ひと月前に決めた自分の説教題に励まされながら、説教の準備をすることができました。「今この世界で起こっていること」。今朝皆さんと一緒に、心を込めて学び取らなければならないことも、このことだと思うのです。今、この世界で、何が起こっているのでしょうか。
そのことを学ぶために大前提となることが、主イエス・キリストの復活という出来事です。キリストの復活という出来事は、人の目には世界の片隅で起こったことでしかないかもしれませんが、本当は、世界を丸ごと新しくするほどの出来事であった。私どもはそう信じているはずです。いや、既にクリスマスがそのような出来事であったと言わなければなりません。神のみ子キリストがこの世に人としてお生まれになって、それ以降私どもは、新しいまなざしで世界を見ることができるようになりました。この世界は、神に愛されている世界なのです。キリストの復活は、その決定的な証しとなりました。そうであるならば、キリストの復活ののち、この世界が新しくならないはずがないのです。が、どう新しくなったのでしょうか。皆さんは、今この世界が新しくなった、その新しさをどこに見出しておられるでしょうか。
■この福音書の加筆部分が伝えることは、9節以下でマグダラのマリアに主イエスが現れてくださったこと、さらに12節以下でふたりの弟子に主イエスが出会ってくださったことです。そのいずれの記事についても、私どもの使っている聖書には、他の福音書にも並行する記事があることが教えられています。ヨハネによる福音書第20章に、マグダラのマリアに主イエスが現れてくださったこと、またルカによる福音書第24章に、ふたりの弟子がエマオという村に向かって歩いている途中、お甦りになった主イエスが一緒に歩いてくださって、しかもそのときにはそれと気づかず、主イエスのお姿が見えなくなってから、ああ、あれはイエスさまだと気づいたという、たいへん興味深い記事があります。マルコによる福音書に加筆をした人たちも、おそらくそのあたりの話を要約して、ここに書いたのでしょう。けれどもよく読むと、単なる要約ではありません。
この9節以下、12節以下の記事で印象深いことは、「彼らは信じなかった」という言葉が繰り返されることです。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たと聞いても、信じなかった(10、11節)。
この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった(13節)。
私はしみじみ思うのですが、本当に、これこそが「今この世界で起こっていること」です。「キリストはお甦りになった」とどんなに一所懸命伝えようとしても、「彼らは信じなかった」。「彼らは二人の言うことを信じなかった」。それが今この世界で起こっていること、教会がこの世界で経験していることです。
ところがこれに14節が続くのです。「その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。マグダラのマリアが語っても信じない。ふたりの弟子が語っても信じない。それで最後に主イエスご自身が現れたのは何のためであったかというと、「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」。なぜ信じなかったのか。なぜそんなに心が頑ななのか。そう言って、「おとがめになった」という翻訳は、もちろんそれでよいと思いますが、原文ではもっときつい言い方です。
これと同じ言葉がマルコによる福音書ではもう一回だけ、第15章32節に出てきます。主イエスが十字架につけられたとき、「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った」。それと同じ言葉が、ここでは主イエスを主語として使われています。私どもの不信仰は、主イエスに罵られても仕方のないものなのです。それにしてもきつい言葉です。今も主イエスは、この世界に対して、その不信仰を罵っておられるのでしょうか。それが、今この世界で起こっていることであるとするならば、教会はこの主のみ心に対して、どういう態度を取るべきでしょうか。
■なぜ不信仰はあるのでしょうか。なぜ信じることができないのでしょうか。14節では、ただ「不信仰」と言わずに、「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と言います。心が頑ななのです。もとの言葉にさかのぼって理解するならば、心がからからに乾燥して、かちかちに固まってしまっている。そのような乾き切った心の状態を、既に10節では、「泣き悲しんでいる」とも言います。「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このことを知らせた」のですが、その泣き悲しんでいる心はあまりにも頑なで、かちかちに乾き切っていて、どうしてもマリアの告げる復活の慰めを受け入れようとはしなかったというのです。
私は思うのですが、これがまさに、今この世界で起こっていることではないでしょうか。泣き悲しんでいるこの世界であると思うのです。その悲しみのために、ますます頑なになっているこの世界であり、人間たちであると思うのです。そのような、世界の頑固な悲しみに向かって、「キリストは甦られた」なんてことを教会が発言しても……いやいや、そんな言葉で世界を救えるかと、既に教会自身が思い込んでいないでしょうか。教会自身が、既に不信仰に負けてしまってはいないでしょうか。
しかし事実、キリストの復活によって、この世界は新しくなったのです。その新しさのしるしは、何と言っても、教会が立っているということです。少し飛びますが、17節の最後のところには「新しい言葉を語る」という主の約束がありました。あなたがたは、新しい言葉を語るのだ。教会に委ねられた復活の福音の言葉は、それ自体が新しいのです。けれども、もし教会自身が不信仰に負けて、この新しい言葉を語るのをやめたら、たちまちこの世界は古くなる。復活の命の新しさではなく、滅びの古さに後戻りすることになるのです。
■14節をもう一度丁寧に読んでみると、こう書いてあります。「その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。ここも注意して読まなければならないところだと思います。主イエスがおとがめになった不信仰とは、ただ復活を信じなかったということではないのです。イエスご自身が不信仰な弟子たちの前に現れて、「なぜ、このわたしを信じないのか」と言われたのではないのです。そうではなくて、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。「わたしのことを、マリアが語っただろう。ふたりの弟子が、わたしの甦りのことを伝えただろう。それなのに、なぜあの人たちの言葉を信じなかったか」。私は、この主イエスの叱責の言葉は、厳しいけれども、また他方から言えば、私ども教会にとって、こんなに励ましに満ちた話はないだろうと思うのです。
今も教会は、キリストの復活のことを語り続けます。その教会の言葉が、どんなに世の不信仰に跳ね返されることがあっても、主イエスは私ども教会の〈言葉〉を重んじてくださるのです。「なぜこの人たちの言葉を信じなかったのか」。そのように、主イエスが不信仰な人たちをとがめられたと言われるのですが、これは究極的には、世の終わりに再び主が来てくださる、いわゆる再臨の時に起こることでしょう。
主が再び来られるとき、もしかしたら、皆さんのよく知っている人が、主イエスに叱られている姿を見ることになるかもしれません。「あなたの奥さんは鎌倉雪ノ下教会の教会員だろう。奥さんから、わたしの甦りについて話を聞いたことがあるだろう。それなのにどうしてお前は、一緒に教会に行ってみようと思わなかったんだ」と、皆さんの旦那さんを叱ってくださるかもしれません。「お前は鎌倉雪ノ下教会で川﨑牧師の説教を聴いたことがあるだろう。それなのに、なぜ洗礼を受けなかったか」と、主イエスが誰かのことを罵ってくださるかもしれません。その様子を見て、私がニヤニヤしながら、ざまあ見ろ、などと考えたりしたら、主イエスはさっと振り返って、「お前の説教が悪かったからだ。なぜこの人にわかるような言葉で説教しなかったのか」と、叱られるかもしれません。だからこそ、教会は再び主が来てくださることを信じて、ますます伝道に励まないわけにはいかないのです。
■しかし今の話は、少しばかり皆さんをミスリードするところがあったかもしれません。ここで不信仰をなじられているのは、どこかの求道者というのではありません。主イエスのいちばん近くにいたはずの弟子たちです。もっと言えば、ここで叱られている弟子たちというのは、今教会として生かされているわれわれ自身のことであり、その代表者は牧師であると言っても差し支えないだろうと思います。きっと皆さんもお認めくださるだろうと思いますが、私ども教会というのは、実はどこまで行っても不信仰なのです。そうでしょう。教会生活を何十年と続けていたって、信仰がない人間の代表者、それは自分のことだと、皆どこかでそう思っているのです。
ところがこの福音書の記事でたいへん興味深いことは、ここで主イエスは弟子たちの不信仰を叱って、「出直して来い」と、言ってみれば再教育を求めることはなさらず、不信仰な弟子たちを、不信仰なまま、伝道者として遣わされたということです。なぜかと言うと、彼らの不信仰が克服される道は、ただ主イエスの復活を語り続ける以外になかったからだと思います。「わたしはまだまだ信仰が足りないから、全然立派なクリスチャンじゃないから、伝道なんて、そんな、とんでもない」。それは、伝道する筋道としては大いに間違っています。キリストのことを語り続ける。「このお方はお甦りになったのだ」と、そのことを伝え続ける。そのこと以外に、私どもの不信仰が癒される道はないのです。
だからこそ20節では、「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き……」と、そう言われるのです。この言葉を書き加えた人は、主イエスに心から感謝しながら、この言葉を書いたと思います。くどいようですが、これこそが今この世界で起こっていることだと確信して、この言葉を書いたと思うのです。「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた」。けれども、自分たちは決してひとりではない。「主も弟子たちと共に働き」。本当にそうだ。今、イエスさまが一緒に働いていてくださる。この世界で一緒に生きて、働いていてくださる。これまではよくわからなかったけれども、今はよくわかる。イエスさまが、一緒にいてくださるんだ。そこに不信仰に勝つ道が開かれていったし、今私どもも、その教会の歴史の一部を担わせていただいているのです。
■そこでもう一度、その教会の務めを主イエスご自身の言葉によって確認し直したいと思います。15節です。「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』」。これが、教会のなすべき務めです。ただそこで、多くの人がややこしい議論をすることがあります。なぜここで「すべての造られたものに」と言われているのでしょうか。「すべての人に伝えなさい。すべての国に伝えなさい」。それならわかる。けれども、「すべての造られたものに」とは、どういうことだろう。海とか山とか、そのへんの虫に向かって「イエスさまは復活されましたよ」。そんなことして何の意味があるか。
本日をもってマルコ福音書を読み終えるわけですが、新年からローマの信徒への手紙を読み始めます。この「すべての造られたものに」という言葉を読んですぐに思い起こすのは、ローマの信徒への手紙第8章20節以下です。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
強烈な言葉ではないでしょうか。「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻」いていると書いてあります。決して大げさなことではないと、私は思います。聖書はただ、今この世界で起こっていることを、そのまま正確に描写しているだけです。けれども教会は、言ってみれば、その被造物全体の呻きに立ち向かうようにして、復活の福音を告げるのです。
既に主イエスが、ご自分の伝道の初めにこう言われました。マルコ福音書の最初にこう書いてあります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(第1章15節)。「神の国は近づいた」というのは、「神の支配が近づいた」、神が世界の支配者でいてくださるということです。その神の支配に服するのは、もちろん人間だけではありません。すべての被造物が、神のご支配のもとにあります。「時は満ち、神の国は近づいた」。それが今この世界で起こっていることです。教会は、その福音を全被造物に向かって証しし続けるのです。「神の支配が、近づいたのだ」。
18節に書いてあることは、そのひとつの姿でしょう。「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。これもまた神のご支配を反映するひとつのしるしでしかありません。しかし私どもに与えられている神のご支配のしるしのうち、最も大切なことは蛇をつかんだり毒を飲んだりすることではなく、「信じて洗礼を受ける者は救われる」(16節)、このことであります。そこでもう一度、ローマの信徒への手紙第8章を読んでみたいと思います。15節以下にこう書いてあります。ここには洗礼という言葉はひとつも出てきませんが、洗礼の話であることは明らかです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
洗礼を受けて、神の霊を受けた人は、神を「アッバ、父よ」と呼ぶようになると言います。それが具体的には洗礼を受けるということです。来週の主礼拝で、3名の方が洗礼を受けます。そのようなときにも、私どもはよく知っておかなければなりません。ローマの信徒への手紙第8章19節にはこう書いてあります。「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」。それが、先ほど読みました、被造物全体の呻きの内容だと言うのです。私どもは気づいていたでしょうか。今この世界が、どんなに苦しみ、どんなに呻いているか。その被造物世界の呻きとは、神の子の出現を待ち望む呻きであったというのです。
私どもも心して、今この世界で起こっていることを正しく見つめ直したいと思います。キリストの復活は、すべての被造物が呻きながら待ち望んでいたことであったのです。そしてそれと並んで、ひとりの人がキリストを信じ、洗礼を受けるということもまた、全被造物が呻くほどに待ち望んでいることだと、そう言うのです。
泣き悲しんでいるこの世界です。悲しみの中で、ますます頑なになっているこの世界だと思うのです。けれども教会に委ねられた福音の言葉は、この世界の呻きに答え、この世界の喜びに仕えるための言葉である。主が再び来てくださるその日まで、その確信に立ち続けたいと心から願います。お祈りをいたします。
私どもも、泣き悲しんでいます。心が頑なになってしまいます。あなたのみ子キリストがお甦りになったのに、そしてそのことを、いろんな人が一所懸命伝えてくれたのに、たいへん申し訳ないことです。必要ならばもう一度新しく、私どもの不信仰を厳しく叱るキリストのみ声を聴かせてください。ただあなたの霊を受けて、あなたを父と呼ぶ喜びの声を上げさせてください。この地上に立てられているあなたの教会が、不信仰に負けることなく、すべての造られたものに命の望みを語り続けることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン