あなたの人生の意味
ヨハネによる福音書 第9章1-12節
柳沼 大輝
主日礼拝
ここにいる皆さんは自分のことを「どんな存在」だと思っていますか。もし誰かに自分のことを一言で言い表してくださいと言われたら、皆さんならどのように自分のことを表現するでしょうか。きっといきなりそんなことを聞かれても返答に困ってしまうという方が少なくないかと思います。しかし、興味深いことに聖書のなかには、とりわけ、今日、お読みしているヨハネによる福音書という書物のなかには、主イエスがはっきりと御自分のことを私は〇〇だと宣言する場面が多く記されています。「私は命のパンです」(6:35)、「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)。
突然、この言葉だけを抜き出して聞かされてもいったい何のことを言っているのかさっぱりわからないでしょう。しかしヨハネによる福音書は、いや、聖書は、この主イエスの宣言を大切にしてきました。私は道だ、私は真理だ、私は命だ、と宣言してくださる主イエスの言葉を信じて、その後に従っていくとき、人は救われるのだと聖書は証しするのです。
今、取り上げた言葉の他に主イエスが御自分を言い表した言葉に「世の光」というものがあります。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(8:12)この言葉は、本日、説教の前にお読みした箇所の少し前で、主イエスがユダヤ人たちに向けて語られた言葉であります。「私はこの世の闇を照らす光なのだ。私の後についてくる者はもはや暗闇の中を歩むようなことはないのだ。だからあなたがたは私に従いなさい!」
そう宣言なされた主イエスがある日、道端でひとりの盲人と出会われました。その盲人はずっと光のない暗闇の中を歩んできました。今日、私たちに与えられている聖書の箇所は、その盲人と主イエスとの出会いの場面であります。盲人はこの主イエスとの出会いを通して大きく変えられていきました。まさに主イエスに従い、命の光を持ち、神の業を現わす者とされていきました。今日の御言葉、ヨハネによる福音書第9章1節以下には、その盲人と世の光である主イエスとの出会いの物語が記されています。
冒頭1節において、主イエスは通りすがりに生まれつき目の見えない盲人を見かけられたとあります。私たちが手にしている日本語の聖書ではただ「見かけられた」という言葉が使用されていますが、聖書の元の言葉をたどってみると、これは、ただちらっと横目でその人を見かけたという意味の言葉ではありません。なんかあそこにひとりで道に座っているかわいそうな男がいるなぐらいで終わってはいないのです。ここで、主イエスはこの盲人に御自分の意識を向けられて、主のまなざしでしっかりと彼のことを見つめて、彼に心を注がれています。
そんな主イエスが目を向けられているこの盲人に対して、2節で弟子たちは主イエスにこう問います。「先生、この人が目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」この弟子たちの問いにはこのひとりの盲人に対して律法の視点からあなたはどのようにお考えですかという弟子たちの純粋な疑問が込められています。
この当時、ユダヤ社会では、病気や障碍はすべて罪に対する正当な罰であると考えられていました。旧約聖書を見てみますと「罪」の所在を本人に置くのか、それとも両親、先祖に置くのか、それぞれ両方の立場を支持する記述があります。そこで弟子たちはこの盲人の障碍は誰かの罪が原因であるということを前提として、それではその罪の責任はこの盲人にあるのか、それとも彼の両親にあるのか、誰に由来するものであるのかということを主イエスに問うているのです。
このような原因があって結果があるという思想を「因果応報」と言います。この考え方は、その当時、ユダヤ教だけではなく、古代社会全般で広く浸透していた思想でありました。しかしこの因果応報の思想は、何も古代社会だけに限定されたものではありません。この考え方は現代を生きる私たちにも大きな影響を与えています。いまでは病気や障碍が何かの罪の結果であると考える人は殆どいなくなりました。それでも私たちは何か苦難や災難を経験するとき、その原因をどこかに求めようとします。この事故はどうして起こったのだろうか。どうして私は病気になったのだろうか。どうして私の大切なあの人が死ななければならなかったのだろうか。どうして、どうして、どうして…。
このように私たちは、この苦しみには、この試練にはいったい何の原因があるのかということを必死になって追求します。きっとその方が苦しみを受け止めやすいからでしょう。私たちはいま目の前にしているこの苦しみに、この試練に何かしらのはっきりとした答えがほしいのです。
私も目に先天性の視覚障害を持って生まれきました。そのことで幼い頃からとても苦労しました。ものを書くのも読むのも、昔から人の倍の時間と労力がかかります。私はこのことにいつももどかしさを感じながら生きてきました。この目さえ見えていればもっと上手くやれるのに。もっと自由に何でもできるのに。そんなある日、私は両親に「どうして私の目は悪いのだろうか」「どうして私は障碍を持って生まれてきたのだろうか」そのような怒りの感情をぶつけてしまったことがありました。両親は言いました。「ごめんね」。私はそのときの両親を裁いてしまった思い、両親を傷つけてしまった自らの弱さをいまでも忘れることができません。
私たちは生きていくなかで何か上手くいかないことに遭遇するとき、人生の壁にぶち当たるとき、そこに自らを納得させてくれるような都合の良い原因を求めようとします。原因を求めて、いや原因を無理に作り上げてでも、誰かのことを裁こうとします。私の人生が上手くいかないのは、お前が悪いのだ、あの人のせいだ、そう言って、行き場のない怒りや悲しみの感情を誰かにぶつけようとします。
しかしこんなことをいくら続けていても、私たちの心は一向に晴れることはありません。たくさんの人を裁いて、たくさんの人を傷つけて、ときにそんな愛のない自分を赦すことができず、自分のことすら嫌いになってしまうのが仕舞いでしょう。原因があって結果がある、この因果応報の思想は一見わかりやすそうに見えますが、私たちを苦しみから救い出してはくれません。たくさんの人を裁き続け、そして最後は、自分自身さえボロボロに傷つけてしまうことになります。
私たちはこうやって苦しみに原因を求め続ける限り、その苦しみから立ち上がることはできません。その暗闇の中から一歩を踏み出すことはできません。しかし私たちはいつもこの弟子たちのように自らの苦しみに、あるいは誰かの苦しみに、勝手に何かの原因を求めて、誰かのことを裁いて傷つけてしまいます。
そのような「原因」を求める弟子たちの問いに対して、主イエスは3節でこう答えました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
ここには、盲人の障碍に対して「原因」ではなく、「意味」を与えようとされる主イエスの姿があります。その意味とはまさに神の業、神の栄光がこの人に現れるというものでありました。主イエスは続けて4.5節でこのように言われます。「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」これは、暗闇に光を与える、世の光である自分が十字架につけられて殺される前に、私は自分を遣わされた父である神の業を行わねばならないということを意味しています。
主イエスはそのように宣言された後、6節で地面に唾を吐き、土をこねて盲人の目に塗り、遣わされた者という意味の名を持つシロアムという池に行って洗いなさいと盲人に命じました。この命令は主イエスが父から遣わされた者であるということを象徴的に表している言葉です。盲人が主イエスの言葉に従って、池の水で土を洗い流すと見事に神の業が彼に現れて、彼の目は、はっきり見えるようにされました。
この盲人は生まれつき自らの目で光を見ることができませんでした。しかしそれだけでありません。弟子たちの問いからもわかるように当時、障碍を持った者は罪人だと言われて共同体から締め出されてきました。彼はずっと肉体的にも、そして、人との関係においても、仲間たちから罪人だと蔑まれ、拒絶され、独りぼっちで暗闇の中に座り続けてきたのです。
私たちはこの盲人とは違って自由に目でものを見ることができます。自分のことを理解してくれる友人だっているかもしれません。しかし私たちもこの盲人と同じかもしれない。神を知らなければ、深い暗闇の中に留まり続けてしまうことになるのかもしれない。神を見ることができず、自分の人生に原因を捜し続け、心に深い渇きを覚え、ときに苦しみに、悲しみに涙し、心打ちひしがれそうな、そのような人生の惨酷な日々を歩んできた方がこのなかにいるかもしれない。いや、程度はひとそれぞれであっても「どうして私の人生はこうなんだよ」「どうして私だけが、あるいはあの人がこんなに苦しまなければならないのだよ」そう言って、いまも苦しみの中でもがき苦しんでいるという方がここにいるかもしれない、
主イエスは、いまそんなあなたのもとに来て、目を留めてくださっています。あなたの心に触れて、神を見ることができずにいるあなたの閉じた目を、心の目を開いてくだろうとしています。神はいまこの礼拝を通してあなたに出会おうとされている。
「神と出会う」。誤解を恐れずに申し上げますが、神と出会うということは、いままで神を見ることができずに、苦しみに原因を求めて、たくさんの人を裁き、たくさんの人を傷つけてきてしまった自らの罪深さに気付かされることかもしれません。自分の汚さ、自分の醜さをこれでもかというほど見せつけられて、自分の罪の大きさに打ちのめされそうになることかもしれません。そういった意味では、神と出会うこと、それは痛み、苦しみを伴うことであります。
しかしそれだけではない。私たちは神を知るとき、神と出会うとき、罪で凝り固まった私の心を優しく溶かしてくれる神の大きな愛に触れられます。不思議と心に平安が与えられます。そして私たちは神を見る者とされていく。これが「神の業」です。
この神の業は、私たちが願ったからと言って与えられるようなものではありません。この盲人は自分から「見えるようにしてほしい」としきりに乞い願って、主イエスに懇願したわけではありませんでした。主イエスが自らこの盲人に神の業を現わそうと決意されて、彼に目を留めて、盲人の目を癒されたのです。私たちの人生もまさにそうであります。私たちが神を求める以前から、神は私たちに目を留めて、心を向けて、神を見ることができなった私たちの罪を赦してくださった。暗闇の中から私たちを救い出してくださった。さまよいもがき苦しんでいる私たちの困難や苦難に「原因」ではなく、その苦しみから立ち上がる「意味」を与えてくださろうとしている。
主イエスと出会い、神の業が現わされたこの盲人は、まだ主イエスが神の子であるということを知りませんでした。目が開かれてからまだ自分の目で主イエスの姿を見ることはできていません。しかし、彼はこのとき、たしかに大きく変えられていました。8節以下を見ると、近所の人々や以前に彼が物乞いをしていた姿を目にしていた人々は、池から帰ってきた彼の姿を見て「その人だ」という人もいれば「いや違う。似ているだけだ」という人もいて、本人が「私がそうです」と証言して初めてこの人があの盲人であるとわかったほどです。私たちも神の業が現されるとき、この盲人のようにたしかに変えられます。神に触れられ、心の目が開かれて、新しい生き方が与えられます。
私自身、高校生の時に目の障碍のせいで望んでいた進路が経たれ、人生に行き詰ったとき、父親が通っていた教会に通い始めました。そんなときある友人からこのようなことを言われました。「最近、雰囲気が変わった。なんか以前よりも生き生きしている」あのとき私はまだ本当の意味で主イエスを信じてはいませんでした。心のどこかで「神などいない」と神の存在を疑っていました。けれども、神はあのとき、私に神の業をたしかに現わしてくださっていたのです。私が神を求める以前から神を信じる以前からたしかに私に働きかけて、私を大きく変えてくださっていたのです。
その当時、私が抱えていた問題は最後までこの盲人のように目に見えるかたちで解決されることはありませんでした。しかし、神はあのとき礼拝を通して、そこで語られた神の言葉を通して、私に言葉では表現できない、けれどもたしかにそこにあった、その苦しみから立ち上がる希望と、そしてそこから新しい一歩を踏み出す勇気を与えてくださいました。
主イエスによって神の業が現わされ、目が見えるにされたこの盲人は本日の箇所の直後の場面13節以下で主イエスが癒しの業をなされたのが安息日であったことからファリサイ派の人々のところに連れていかれて事情を聞かれます。彼は初め自分を癒してくれた人物が神の子であるとは知りませんでした。しかしファリサイ派の人々から問われていくうちに、最後には「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです」(9:33)と主イエスが父なる神から遣わされた方であることをはっきりと証言します。その後、35節以下で再び、主イエスと出会った彼は主に語りかけます。「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが」。そして最後には、こう述べる。「主よ、信じます」と。そう言って自らの神を求める思い、うちなる叫び、神への信仰を告白し、彼は神を信じる者とされました。そしてこの盲人は、いままで自分を支配していた暗闇の中から立ち上がり、神の業を現わす者とされていきました。
この盲人の姿は神に見出され、礼拝の場へと招かれ、葛藤や戸惑いを抱えながらもそれでもここに何かがある、ここに自分を生かす何かがあると、神を求める者とされた、十字架の御前に立たされ、自らの罪を悔い改めて「主よ、信じます」と神への信仰を告白する者とされていった、まさにキリストの教会に生きる者たちの姿を思わせます。
いまはまだ神のことがわからない、心から主イエスのことを信じることができないという方がこの場におられるでしょう。しかし「池に行って洗いなさい」という主イエスの言葉に従ったこの盲人は、このとき、それが主の言葉だとすぐにわかったから従ったのではありません。すぐにこの方が主イエスだとわかったわけではないのです。この言葉にはたしかな力があると感じたから、この言葉がなくては自分は生きていけないと思ったから、彼は主の言葉を信じたのです。主の言葉に従ったのです。
残念ながら、私たちも完全に主イエスのことを理解することはできません。神の子とは誰だと問われたら、この盲人のように「イエスという方」くらいにしか言えないかもしれない。しかしそれでもここに私の救いがあるのだと、主の言葉に自らの身を委ねるとき、私たちは変えられます。自らを支配している罪の縄目から解き放たれます。神を信じる者として、新たな歩みをなしていく者とされていきます。そして、私の人生にたしかな意味が与えられる。
本日の説教題を「あなたの人生の意味」と付けました。その意味とはいったい何でしょうか。それはもうすでに主イエスの言葉によって私たちに示されています。主イエスは4節で「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る」と言われました。ここで主語が私ではなく、私たちであるのは私たちにも神の業を現わす歩みが与えられているからです。
先ほど、取り上げた人々からいったいお前は誰だと問われたとき、盲人が答えた「私がそうです」という言葉、これは、実は聖書の元の言葉では「エゴ―・エイミ」という言葉で、本来ならば、神が自分はここにいるのだ。あなたと共にいるのだと宣言される言葉であります。この言葉を主イエスと出会った、主に救われた者が証言している。主に従う者は主の言葉を語る者とされていくのです。そのようにして神の業を現す者とされていくのです。
本日、新約聖書と共にお読みした旧約聖書イザヤ書第29章にはこうあります。
「その日には 耳の聞こえない者が書物の言葉を聞き取り 見えなかった者の目は暗黒と闇から解かれて見えるようになる。へりくだる者たちは主によって前にも増して喜び 貧しい人々はイスラエルの聖なる方によって喜び踊る。」(29:18-19)
その日、それは主イエスが再び、この世に来てくださる終末のときであります。終末のとき、神の光を見ることができなかった者たちも神の救いを見る者とされていきます。いま、暗闇の中を歩む者たちも光の中を歩む者とされていきます。悲しみ涙する者たちも喜び踊る者とされていきます。しかし、終末の途上にあるこの世界には未だ暗闇があります。悲しみがあります。争いがあります。苦しみがあります。涙があります。主イエスを見ることができず、苦しみに原因を捜し続けて、暗闇の中でもがき苦しんでいる者たちがいます。罪の中に留まり、誰かのことを裁いて、自分のことすら傷つけしまう者たちがいます。
私たちは今日、主イエスと出会いました。今日ここで主の言葉を聴きました。今度は私たちが暗闇の中に座っている人々に主イエスの存在、福音を証言していくことができます。私をそこから立ち上がらせたあの十字架と復活の言葉を悩み苦しむ誰かに伝えていくことができます。それは、何も直接的に聖書の言葉を伝えることだけではない。喜んでいまを生きること、どうして、と言わざるを得ない苦しみの中で、疑いや迷いの中で、それでも主の言葉に信頼し、その言葉に従って生きてみること、私たちはその自らの生き方一つを通して、十字架の御前で罪を悔い改め、新しい命に生きる喜びを証しすることができる。教会に生きる喜びを、礼拝に生きる喜びを証言することができる。ここに道があるのだ。真理があるのだ。命があるのだ。主がいまここに共にいてくださるのだ。その真実な主の言葉を証言していくことができる、
その日、終末のときには、すべての者の目が開かれ、すべての者がいまも生きて、私たちと共にいてくださる世の光である主イエスに出会うと言います。その終わりのとき、希望のときを目指して、この世界に神の業が現れるため、神の言葉を、救いの出来事を証言していくのが教会の使命であります。あなたもいま主に呼ばれている。招かれている。「あなたがいまここにいるのは、生かされているのはあなたに神の業が現れるため」。だからいま共々にここから立ち上がって、ここから遣わされて、新たな歩みをなしていきたい。
初めに皆さんにあなたは「どんな存在」でしょうかと問いました。その答えはもうすでにここにあります。そうです。私たちは「世の光」です、
世の光である主イエス・キリストの父なる御神、
ときに悲しみに涙し、苦しみに原因を求めてしまう私たちであります。他者を裁き、平気で誰かのことを傷つけてしまう私たちであります。
しかしあなたがそんな私たちを見つめて、憐れみ、この私の罪を赦してくださいました。
あなたと出会い、あなたの愛に触れられ、あなたに生かされ、あなたが私たちに生きる意味を与えてくださいました。神様、ありがとうございます。
今度は、私が神の業を現す者として、あなたを証しする者として光の中を歩むことができますように。
そのために今日も、あなたが私たちの目をたしかに開いてください。あなたを見つめさせてください。私は「あなたを信じたいのです」。
この願いと感謝、我らの救い主イエス・キリストの御名によって祈り捧げます。アーメン