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救い主の沈黙

2024年9月22日

マルコによる福音書 第15章1-20節
川崎 公平

主日礼拝

 

■主イエス・キリストが、ローマの総督ピラトによる裁判にかけられ、結果死刑の判決を受けるという聖書の記事を読みました。「あれ、この間もイエスさまの裁判の記事を読んだ気がするが」と思われる方もあるかもしれませんが、事実その通りで、既に第14章の53節以下に、ユダヤの最高法院における裁判の記事がありました。そこでも、「一同は、イエスは死刑にすべきだと決議した」(64節)と書いてあるのですが、当時ローマ帝国の占領地であったユダヤの国には、人を死刑にする権限がありませんでした。それで、その自分たちの決議に基づいて、改めてローマの権力に訴える必要があったということです。

マルコによる福音書は、このふたつの裁判をいずれも省略せずに、その成り行きを丁寧に伝えてくれるのですが、ふたつの裁判の記事に共通するたいへん印象深い点は、主イエスの沈黙であります。ありとあらゆるでたらめな悪口を言われながら、主イエスは沈黙を貫かれました。5節にも「しかし、ピラトが不思議に思うほどに、イエスはもう何もお答えにならなかった」と書いてあります。そして、少なくともマルコによる福音書の叙述に従うならば、主イエスはそこから十字架の上で息を引き取られるまで、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(34節)と叫ばれたほかは、遂に死ぬまで沈黙を貫かれました。その様子を見てピラトは「不思議に思った」と書いてあるのですが、むしろここは「驚いた」と訳したほうがよかったかもしれません。

今朝の説教の題を、「救い主の沈黙」としました。もちろん私が自分で考えた題であるわけですが、一週間、「救い主の沈黙」という説教題が貼り出されて、「本当にこの題でよかったかな」と、少しひるむところがありました。特に先週は、その説教の題を貼り出したその横に、「伝道月間」などと称して、面映ゆいほど素敵なポスターを掲示し始めました。私を含む3人の説教者の写真入りで……。私どもの教会は、何としてでも伝道したいと思っているのです。この町に住む人たちに向かって、どうかここに来て、わたしたちの言葉を聴いてください、いや、わたしたちの言葉というだけでは正確ではないので、どうか神の言葉を聴いてください。主イエス・キリストの言葉を聴いてください。そのために、3人の説教者が心を込めてお話をさせていただきます、とアピールしているその横に、「救い主の沈黙」。もし私どもの救い主が沈黙しておられるのであれば、教会もまた沈黙しなければならないのだろうか。もちろんそんなことはありません。

今朝は、この「救い主の沈黙」というひとつの主題に集中しながら、福音書を読み、礼拝をしたいと思います。

■まずいちばん根本的な問いとして、なぜ主イエスは黙っておられたのでしょうか。裁かれている人間にとって、とりわけ無実の罪で裁かれている人間にとって、いちばん大事なことは弁明することでしょう。けれどもここで主イエスは、人びとを驚かせるほどに黙っておられる。ひとつの単純な理由は、何を言っても無駄だからです。こういうものの言い方はどうも差し障りがあるかもしれませんが、事実として、この場で主イエスが何をおっしゃったとしても、まともに耳を傾ける人はいなかったに違いありません。

「救い主の沈黙」という言葉から、遠藤周作の『沈黙』という小説のことを連想される方も少なくないでしょう。なぜ神は沈黙しておられるのか。神よ、いつまで待たなければなりませんか、ということは、信仰者の永遠の問いであるかもしれませんし、遠藤周作のあの小説は、そのような問いに対して、ひとつの光を投げかけていると思います。念のために先回りして申しますが、私はここで、遠藤周作の小説を批判する意図はまったくありません。けれども、そこであわせてよく考えなければならないことがあると思います。神の沈黙という事柄をめぐって、人間がどんなに罪を犯しやすいか。そのことに気づいていなければならないと思うのです。

ある説教者が、『沈黙』という小説のことをそれとなく連想させながら、「それならば、逆に神が雄弁であられたら、われわれは納得するだろうか」と問いかけています。「神が、あらゆることを説明され、手を尽くして人間を説得されたら、人間は納得するだろうか。信仰がなければ、結果は同じことだ」と、そう言うのです。これはずいぶんきついものの言い方ですが、聖書を読めば読むほど、この説教者の主張の正しさが理解できるだろうと思います。事実神は、既にありとあらゆる手立てを尽くして、説明を尽くしておられるのです。旧約聖書のすべてが、その神の雄弁を証ししています。何よりも、主イエス・キリストという形で、神は十分な説明をしておられるのです。ところが人間は、ちっとも神を信じようとしないで、神の言われることをひとつも聞こうとしないで、それでいて時々思いついたように、神よ、なぜあなたは黙っておられるのかとわがままを言うのではないか。そう言いながら、この説教者は、沈黙の救い主の姿に注目させるのです。

■ここで主イエスは黙っておられる。主イエスが黙っておられるということは、神もまた語るのをおやめになったということです。これまでわれわれ人間に対して、心を尽くして、言葉を尽くして説明責任を果たしてこられた神が、ここではいったん語るのをやめておられる、かのように見えるのですが、実はその主イエスの沈黙の姿のうちに、どんなに深い神のみ旨が言い表されているか。そのことをよく考えてみれば、実はそれがどんなに恐ろしいことかと思うのですが、けれどもこのときの群衆はそのことに気づきもせずに、際限なく調子に乗り始めました。

私どもは、人が見ていないと思うと、ずいぶんでたらめなことをするものです。同じように、神はもちろんすべてを見ておられるし、すべてを知っておられるのですが、見ていても見ているだけで、結局神は何も言わない、神は沈黙しているのだ、ということになると、人間はその醜い本性をむき出しにするものです。

ことにここで見るに堪えない姿を露骨に現したのは、「群衆」と呼ばれる人びとです。「十字架につけろ」と声の限りに叫び続けたと書いてあります。彼らは、毎年囚人がひとり恩赦を受けて釈放されるということを知っていて、その上で、主イエスではなく殺人犯のバラバの命を助けてほしいと、一歩も譲ることなく叫び続けたというのです。「十字架につけろ。ただふつうに殺すだけでは足りない。十字架だ、十字架以外、あり得ない」と、叫び続けたこの群衆は、しかし考えてみると、いったい主イエスに何の恨みがあったのか、さっぱり意味がわからないのですが、11節には「祭司長たちは、バラバのほうを釈放してもらうように群衆を扇動した」と書いてあります。同じ群衆が、つい何日か前には、ろばの子に乗ってエルサレムに入って来られた主イエスを大喜びで歓迎したのです。その主イエスが、エルサレムに来られるや否や、神殿の境内で商売をしていた人たちを皆追い出されたときにも、祭司長たちや律法学者たちは明確な殺意を抱いたけれども、「群衆が皆その教えに心を打たれていたので、彼らはイエスを恐れた」(第11章18節)、それで手出しができなかったと書いてあります。その群衆が、しかしここでは、簡単に扇動されています。しかも福音書は、そういう書き方をしたからといって、決して群衆の責任を免除しているわけでもないのです。

愚かな群衆と書いて「衆愚」といういやな言葉がありますが、このような聖書の記事を読みますと、ただ「いやな言葉です」と言っているわけにもいきません。事実、群衆というのは愚かなものです。メディアが発達して、誰もがインターネットの恩恵にあずかるようになって、ふつうに考えればそのことによって、人間は昔に比べてずっと賢くなったはずだと思うのですが、むしろ、かえって、ますます〈群衆〉というものの愚かさは深まっていると言わなければなりません。簡単に扇動されて、「あいつが悪い。あの国が悪い。あの政治家が悪い。あの芸能人が悪い」。そう言って、群衆はますます激しく、「辞めればいいのに。いなくなればいいのに」。自分自身がその愚かな群衆のひとりだと気づかなければ、本当の意味で聖書を読んだことにはならないだろうと思います。

■福音書は、この「群衆」という言葉を神学的に用いていると思います。神学的という言い方はわかりにくいかもしれませんが、神のまなざしの中で、それと対峙されるひとつの対象として、「群衆」という言葉を使っています。特にこのマルコによる福音書だけが伝える印象深い光景があります。第3章7節以下です。

イエスは弟子たちと共に湖の方へ退かれた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が付いて行った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからも、おびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、御もとに来た。そこでイエスは、群衆に押し潰されないよう小舟を用意してほしい、と弟子たちに言われた。

主イエスを押し潰さんばかりに押し掛けた群衆と、ここで「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた群衆と、まったく別の人たちであるに違いないのですが、マルコは、それこそ「群衆」というものを、神学的に同じものとして扱っていると思います。

その関連でもうひとつ印象深い群衆の姿は、第6章34節です。あるとき主イエスがガリラヤ湖畔で、五千人の群衆を満腹にさせられた。そのときに要した食材は五つのパンと二匹の魚であったという有名な記事がありますが、その五千人の食事の奇跡に先立って、マルコによる福音書はこのような主イエスの心を伝えるのです。

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

主イエスを押し潰さんばかりに押し掛けた何千、何万という群衆には、飼い主がいませんでした。だからこそ、おびただしい群衆が主のもとに押し掛けたのです。群衆は、それと気づいてはいませんでしたが、本当の救い主を、本当の羊飼いを探し求めていたのです。ただお腹が空いていたのではありません。ただいいお話を聞きたかったというのでもないのです。飼い主を失った羊たちが、羊飼いの深い憐れみに触れたのです。あの五千人の食事は、そのひとつの証しでした。

羊たちは、しかし悲しいことに、最後までそのことに気づきませんでした。本当は呻くような思いで自分の飼い主を求めながら、その飢え渇きをぶっつけるようにして、沈黙の主イエスをなじるのです。「何なんだよ、お前は。救い主じゃなかったのかよ。あのときは、俺たちをお腹いっぱいにしてくれたじゃないか。また助けてくれよ。何とか言えよ、十字架につけて、ぶっ殺すぞ」。実に愚かな、そして実に悲しい羊たちの叫びをお聞きになりながら、主イエスはそこでも、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、ただ黙って十字架の死を受け入れていかれるのです。

■ここにもうひとり、バラバという忘れることのできない人物が出てきます。群衆は、主イエスよりも人殺しをしたバラバの命を助けてほしいと願ったというのです。「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の中に、バラバと言う男がいた」(7節)と書いてありますが、この暴動とか人殺しとかいうのは、ローマ帝国の支配に抵抗する一種の革命運動のようなものだったと理解されることがあります。そして群衆は、もともと主イエスに対しても、そういう意味での、ローマの支配からの解放というような救いを期待していたのだけれども、どうもイエスはそういう期待には答えてくれないようだ、まだバラバの方が救世主として見込みがある、ということであったのかもしれません。しかし福音書が伝えていることはもっと単純で、要するに群衆は、殺人犯よりも神の御子に死んでほしいと願った。ただそれだけの話です。飼い主のいない羊たちの愚かさは、ここに極まったと言わなければなりません。だがしかし、主イエスは黙って、バラバの身代わりになって、十字架の苦しみを引き受けてくださいました。そこで改めて気づかされます。このバラバという殺人犯が、どれほど神に重んじられていたか。主が身代わりになるほどの価値が、バラバにはあったのです。それがまさしく、私どもの姿、そのものではないでしょうか。そのことがわかったら、あの主イエスの沈黙は、バラバを救うための沈黙であり、また私どもを救うための沈黙であったと、悟らないわけにはいかないのです。

その意味では、主イエスの沈黙の意味というのは、最初に申しましたように、ただ「何を言っても無駄だから」ということだけではありません。沈黙のうちに、ひたすら神のみ旨に従順に従われたのです。もちろん生身の人間として、主イエスにだってたくさん言いたいことはあったでしょう。あのゲツセマネの祈りを思い起こしてみればよいのです。「父よ、どうかこの杯を取りのけてください」。「十字架だけは、絶対にいやです」。それはそうでしょう。もしも主イエスの立場に置かれたら、誰だって同じように考えるだろうと思います。言いたいことは、山ほどあったに違いないのです。「わたしは何も悪くありません。悪いのは群衆です。バラバが悪いんです。みんなが悪いんです。なぜわたしが十字架につかなければなりませんか」。けれどもそういう自己主張をすべて飲み込んで、主イエスがここで沈黙を守られたのは、罪人の身代わりとしての十字架という、神のみ旨を黙って受け入れておられたからにほかなりません。私どもに対する愛のゆえに、主はひたすら神のみ旨に従われたのです。

■ところで、今日読んだところで、ただ一か所、例外的に主イエスが沈黙を破られたところがあります。

ピラトがイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」とお答えになった(2節)。

これが、言ってみれば主イエスの最後の言葉となりました。それにしては不思議な言葉で、「何だ、これは」と言いたくなるところです。「お前はユダヤ人の王なのか」。「それは、あなたが言っていることだ」。謎のような言葉です。直訳すると、「あなたは言う」という文章ですが、かつて、この「あなたは言う」という言い方は、「あなたの言う通りです」、つまり、「おっしゃる通り、その通り」という強い肯定を意味するという学説が流行ったことがありますが、実際のところ何の根拠もなく、すっかり下火になりました。そして文脈からも、「おっしゃる通り」などという意味を読み取ることはできないだろうと思います。ここでひとつ明らかなことは、主イエスは答えを拒否しておられる。だからこそ、そののち完全に沈黙を守られたのです。「それは、あなたが言っていることだ」。もう少し別の訳し方をすると、「それを言うのは、あなただ」。わたしが真実の王なのか、そのことについて、わたしのほうから語るつもりはない。わたしは黙る。わたしが王かどうか、それは、あなたが言うべきことですよ。そう言って、われわれの答えを待っておられるのです。……「ピラトよ、あなたも、わたしを王と呼びたいのではないですか」。救い主の尊い沈黙の前に立たされて、本当は私どもが、「あなたこそわたしの王、わたしの救い主です」と言わなければならないのです。

たいへん不思議なことに、このマルコによる福音書において、ただひとり、真実の信仰告白に導かれた人のことが、第15章の終わりに出てきます。主イエスが十字架の上で、「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ、そして息を引き取られた主イエスのお姿を見て、あるローマの軍人が、「まことに、この人は神の子だった」と言うのです。思えば主イエスは、一度もご自分のことを神の子だとか、王だとか、われこそはキリストであるなどと言われたことはありませんでした。「それを言うのは、あなただ」。それに答えて、異邦人の軍人が言うのです。「まことに、この人は神の子だった」。10月13日の伝道礼拝で、改めてこのローマの百人隊長の物語を読みます。言うまでもなく、まだ信仰を言い表していない方々をここにお招きして、「まことに、この人こそ神の子」との信仰に導かれたいと願ってのことです。「主イエスよ、あなたこそ神の子、わたしの救い主です」。それを言うのは、あなただ。そう言ってごらん。もともと、私ども教会の伝道の言葉もまた、そのようにして生まれたものでしかないのです。

このようにして十字架につけられたお方を、神は死人の中から復活させられました。そのことによって、神はこの世に対して、決定的な発言をなさったのであります。神は決して沈黙しておられない。どんな雄弁家よりもはるかに雄弁に、ご自身の命の支配を主張されました。その神の命の発言に促されるように、教会もまた言葉を語り始めました。そのために、今ここにも鎌倉雪ノ下教会というひとつの教会が立てられているのです。その教会堂の前に、「救い主の沈黙」という文字を掲げながらも、実はその深い沈黙を通して、神がどんなに確かな発言を、この世界に向かってしてくださったか、その証しのために、教会は生かされています。今なお、人間の罪が神の言葉を封じ込めようとする、その現実は変わることがないのです。だからこそ、その人間の罪に打ち勝って、神の言葉が必ず勝利することを、あの主イエスの沈黙が既に勝利を収めたのだと、そのことを教会は証ししないわけにいかないのです。心をひとつに、祈りをひとつに集めて、伝道の志をみ前にささげたいと願います。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、あなたのみ子イエスこそ、私どもの主、私どもの救い主、そして私どもの王です。それを言い表さなければならないのは、あなたではありません。私ども自身です。あの群衆の愚かな姿を思うとき、自分自身の罪を思わないわけにはいきませんが、今はもうまことの羊飼いに救われているのですから、迷うことなくあなたを信じ、み子イエスを信じて立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン