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心の痛手

2024年9月15日

ヨハネによる福音書 第13章21-30節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

「夜であった」(13:30)。

と記されています。
夜であった。

福音書の中でも、こんなに悲しい描写は、他に無いだろうと思います。
ユダが出て行った。「夜であった。」
なぜ出て行ったのかといえば、主を裏切るためです。

一人の弟子が夜の闇の中に消えて行った。
主イエスの地上でのご生涯も、終わりに近い。

 

このヨハネ福音書は「光の福音書」とも言われておりまして、主イエスを「光」と呼ぶのです。それは、この第一章の初めから言われておりました。第一章の4節と5節です。

「この命は人の光であった。」(1:4)

主イエスは人間の光であった。そして

「光は闇の中で輝いている。」(1:5)

 

けれども、闇は光の対局であって、光を憎んでいて、光を殺したいとまで思っている。しかし、「闇は光に勝たなかった」(1:5)とそこに書いてあります。闇は光に勝たなかった。
この「勝たなかった」というのは以前の新共同訳では「闇は光を理解しなかった」と訳されておりました。闇は光を理解しなかった、受け入れなかった。それは、元はつかまえることができないという言葉ですが。闇は光をつかまえることができない。とらえることができない。そうして闇は光を阻止したいと思っていたけれども、しかし、その戦いにおいて「闇は光に勝たなかった」。どうしたって阻止できなかった。どうしたって、勝たなかった。

それで、それはどうしてかといいますと、
この第13章で言われているところの主の愛を、主イエスの「愛の光」を、最終的に、闇は阻止できなかった、と言うことであります。

ユダが出て行った。けれども、それを止められなかったのは、阻止できなかったのは、ほんとうは、闇のほうだったのだということが、それは十字架のあとで、私どももわかってくるようになるのです。

この食事の席はもうその夜が深まっていたかもしれません。それにしても、ユダが出て行ったということについて、他の弟子たちは、それが裏切るためであったということが、わからなかったようです。どうしてだろうと、皆さんも、
思われると思います。なぜなんだろう。

主イエスがはっきりと「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」(13:21)と言われましたのに、そしてそれを主は「証しして」(13:21)言われたとありますけれども、主は断言なさった。それで、弟子たちのうちの一人が主イエスに「主よ、それは誰のことですか?」と尋ねますと、主が、
「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」(13:26)と言われ、そのパン切れをシモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。そのうえ、主がユダに「しようとしていることを、今すぐするがよい」(13:27)と言われたので、それでユダが出て行った。 それなのに、弟子たちは「なぜユダにこう言われたのかわからなかった」(13:28)とあります。 ユダが出て行ったのは、ある人は、ユダが金入れを預かっていたので、この過越の祭りに必要なものを買いなさいと主が言われたのだと思いましたし、また、こんなお祭りの時にも食べ物がない、貧しい人たちのために、これで何か施すようにと、主が言われたのだと思っていた、とありますけれども。どうして、ユダだとわからなかったのだろう。

主イエスが「あなたがたのうちに」と言われた時には、お互いに顔を見合わせて、それは誰かとさぐった、ということが言われておりますが、それと、仲間のうちの一人のユダがつながらなかった。どうしてだろう。
どうして弟子たちはこんなに鈍感なのだろう。

当然ユダはわかっていたと思いますけれども、主イエスとユダの二人だけがわかっている。その夜の深みから、他の弟子たちが引き離されているみたいに、彼らは、主がなぜ、これをここで断言されたのかもよくわかっていないのです。

ただなんとなく過越の、祝いの席だけれども、いつもとは違う雰囲気は、感じとったかもしれません。ついさっきは主イエスが、自分たちの足を洗ってくださいました。まだ、そのたらいがそこにあったかもしれませんけれども。その時の、主イエスのお顔をみても、ものすごく惹かれる思いと、何かひどく緊張する、そういうことは感じとったと思います。そこに主イエスが、「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」とおっしゃった。
とっさに彼らは顔を見合わせて、誰かの顔を見たのでしょう。そこで、この人か?と、やり始める前に、もしかしたら、相手の目の方が先に自分を刺したかもしれません。逆にお前か?と、聴こえたかもしれません。

でも誰も、それにはっきりとは、そうではないと言えなかったのではないかと思います。自分でもよくわからない。自分のこともよくわからない。誰も、自分が光の内にあるとは言いきれない。やっぱりそこでも
「闇は光を理解しなかった」。のではないかと思います。何が起きているのかよくわからない。そういう意味ではみんな、闇に包まれていたのかもしれません。

その中で一人の弟子が、促されて、主イエスの胸元に寄りかかり「主よ、誰のことですか?」と尋ねました。胸というのは、当時の食事の座り方で、その時は今の私どものように椅子に座るようではなく、横たわって食べるものでした。ちょうど体の左側を下にして横たわると、右手が使えるようになり、そしてそのようにして座りますと、隣の人がちょうど、自分の前にいる。その前にいる、ここでいうと、一人の弟子が少し体を後ろに倒しますと、ちょうど、主イエスの胸元に寄りかかるようになります。そうして一人の弟子が、主イエスに尋ねました。お心をお聞かせください。もしかしたら、主の胸の音まで聴こえたかもしれない、と言った人がいますけれども、そうだったかもしれません。

主イエスの胸の鼓動が聴こえた。これを言われる時に主が「心を騒がせ」(13:21)とありますが、主イエスのお心がこの時に、ぶるぶると震えておられた。高鳴っておられた。「このうちの一人が私を裏切ろうとしている」と、言われた時にも、主のお心が震えておられた。「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われる時にも、主のお心が震えてる。ドクドクと音を立てておられる。

それはこの前の第12章で主が、「今、私は心騒ぐ」(12:27)と言われたところでも、同じでした。そこは、「ヨハネ福音書のゲツセマネ」と、呼ばれるところですけれども、ご自分の「時」をお知りになった主イエスが、そんな苦しみを弟子たちの前にお見せになった。

さらに第11章では、ラザロが死んで人々が泣き悲しんでいるのをご覧になった主イエスが、同じように、心を「騒がせ」(11:33)、「どこに葬ったのか」(11:34)と、憤りをもって、言われ、そして「涙を流された」(11:35)。

いずれも、死に対して、そして人の罪に対して、主イエスのお心がぶるぶると震え、そして、主イエスのそれに打ち勝つ愛が騒いでいる。

闇の力に対して主の愛が戦っておられる。
憤りをもって戦っておられる。

この食卓の中心は主の、その愛に、尽きます。
初めにありましたけれども。主が、「この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを」悟られたときに「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(13:1)とあります。最後まで。その愛がここでユダに対して戦っている。

この最後までの愛は、全うされる、成し遂げられる、という愛で、それはご自分に至るまでの愛でもあって。罪と死に打ち勝つ、ご自分に至るまでの、神に属する愛であります。

その愛が、しかし、今、裏切られる。
どんなにその痛手が深いか。

ユダがどうして主イエスを裏切ったのか、ということはここには書いてありません。「サタンが入った」(13:27)とありますけれども、裏切る心を抱かせていた(13:2)と前にもありますけれども、何もないところにつけ込まれはしません。ユダはほんとうはこうだったと、想像することはできるかもしれませんけれども、ユダについては何もわかりません。でも主イエスがユダを選ばれた時から、ユダはその思いを持っていた(6:71)と、第6章にかかれてあります。
その時には、主が「あなたがた12人は、私が選んだのではないか」と、ある意味、嗚咽されていて、それで、「その中の一人は悪魔だ」(6:70)とさえ、言われている。

ですからそれはずっとわかっていたことでした。この弟子を取った時から、それはずっと、つきまとっていたことでした。でも、弟子を取るという時から、つきまとっているということは、弟子ならば、誰にも、言えます。
誰でも、この闇は知っています。私どももまたその闇を知る者のうちの一人です。その闇は、主を裏切るということです。それが主を、十字架に引き渡した。
けれども、それをわかって、それでも主はこの人を愛し、ユダを愛した。裏切るのを承知で愛した。

そうして初めから、主は、この人の闇の力と戦っておられた。震えるほどの憤りをもって、戦っておられたのです。

だから本当は、主は、ここでユダに「やめろ」と、言うことはおできになったでしょう。そんなことはやめろと。そっちのほうが簡単です。でも、それは絶対にない。父なる神の御心はそうではない。このユダの裏切りによって神の御心が行われる。それで、神の愛が全うされるのです。
主イエスの心は引き裂かれたと思いますが、さらに闇の力は主イエスにも、だったら十字架をやめたらいいじゃないかと、これを放棄せよと、言ったかもしれませんけれども。でも、それは、もはや、この愛の敵ではなかった。
そして主は
「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われました。

 

『沈黙』という小説の中に、その最後で、踏み絵を踏まなければならない司祭に、踏み絵の中のキリストが「踏め」と言われますけれども、私はそれに近いと思います。

その中で言われているのは、私はこのために来たのだということでした。あなたたちに踏まれるために私は来たのだということでした。

この「今すぐするがよい」というのを、ある聖書の翻訳では「早くしてしまえ」、と、いうふうに訳されておりました。

早くしてしまえ。それで、それは本来は、最後の「ユダは出て行った。夜であった」、それにすぐ続いていたかもしれないと、注がついておりました。もしそうであった場合、そうすると、主の命令ですぐにユダが出て行った。他の何も聞かないでその言葉だけを持って出て行った。
すると余計に、「夜であった。」
その夜に響いてきます。

早くしてしまえ。

 

ここに、裏切られた愛の勝利があると思うのです。

闇は光に勝たなかった。
そのとおりに。十字架は誰も阻止できなかった。
この愛の光が、闇に勝つのであります。

 

天の父なる神様、
あなたが最終的にお決めになったのはこのことであったと、とらえさせてください。この光の中に、ずっといさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン