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人間の究極の幸せ

2024年5月19日

マルコによる福音書 第12章38-44節
川崎 公平

聖霊降臨記念主日礼拝

聖霊降臨記念日、外国語で「ペンテコステ」と呼ぶこともあります。ペンテコステという言葉自体には、実は全然大した意味はなくて、「50番目」という意味のギリシア語です。主イエス・キリストがお甦りになってから50日目、主の弟子たちが集まっていたところに神の霊が注がれ、そこから教会の歴史は始まりました。そのことを記念する日曜日に、しかし今朝は特別な聖書の言葉を探すことなく、いつも通りマルコによる福音書の続きを読みました。ここには聖霊の「せ」の字も、教会の「き」の字も出てこないようですが、今朝の礼拝にこのような聖書の記事を与えられたことは、まさに神の導き以外の何ものでもないと、心から感謝しています。教会は、神の霊によって立ちます。神の霊によって生かされ、導かれる、この鎌倉雪ノ下教会であります。その教会の真実の姿を、この福音書の記事は実に印象深く物語ってくれていると思います。

■ひとりの貧しいやもめが、エルサレムの神殿の献金箱に、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスという額の小銭を入れたという話です。これがいったいどのくらいの額のお金であったのか、たとえば聖書の巻末の「度量衡及び通貨」という頁を開くと一応の説明がありますが、お金の単位についてはあまりあてにならないと、個人的には考えています。たとえば、2024年の百円の価値と100年前の百円の価値とでは、天地の違いがあるわけで、まして二千年前の1クァドランスがどのくらいの価値であったか、正確にわからないのはむしろ当然です。しかしそれにしても文脈からすぐにわかることは、他の人の献金に比べて際立って貧しかったということです。10円玉2枚とか、100円玉2枚とか、よくわかりませんが、わかっているのはそれが彼女の全財産であった。しかもこの女はやもめであったと言います。夫はもういない。特に古代の社会において、やもめというのは、孤児と並んで、最も貧しい存在であることを意味しました。経済的にも社会的にも、いちばん弱い。自分を支えてくれる存在は、どこにもいません。だからこそ、神以外に頼るものを持ちません。

教会とは、まさしくそういう存在ではないでしょうか。神の霊によって立つ教会、神の霊によって導かれる教会は、神以外に頼るべき力を持ちませんし、持ってはならないのです。そのような〈教会が〉――と言ってよいだろうと思います――ここではひとりのやもめの姿をとって、自分の持っている小銭2枚を、2枚とも神のみ手に投げ込んでしまいました。

それは、誰がどう見ても意味のある行動とは思えないのです。小銭2枚です。それはあまりにも小さな献金で、あまりにも小さな出来事で、誰の目にも留まらなかったことでしょう。けれどもただひとり、主イエス・キリストが、このやもめの礼拝の姿にじっと注目しながら激しく心を動かして、そしておそらく、万感の思いを込めて言われました。

「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。

どうか、このやもめの姿をよく見てほしい。このやもめのささげた献金を、よく見てほしい。今、私どものためにも、主イエスはそう言われるのです。「この人を見よ」。

しかし、いったい、私どもはこのような出来事から、何を学び取ればよいのでしょうか。一方から言えば、どうしたってこの福音書の記事は、私どもの心を戸惑わせるものがあると思います。小銭2枚しか持っていなかったのに、どうして2枚とも入れちゃったんだろう。たとえば1枚は残しておくとか……。いろいろ理屈をこねる前に、まずこの出来事に素直に驚くことが大切だろうと思います。しかも主イエスは明らかに、このやもめを弟子たちに紹介しながら、「あの人を見なさい」。「あなたも、あなたがたも、あのように生きるのだ。あのやもめのように、すべてを神にささげて生きるのだ」と言っておられると思います。「あなたがた教会は、このやもめのように生きるのだ」。それはしかし、いったい何を意味するのでしょうか。

■そのことを理解するために、先ほどは何だか前半の38節以下の段落をわざと無視したような形になりましたが、改めてその部分を読んでみたいと思います。38節以下の律法学者を批判する言葉と、41節以下の貧しいやもめの献金の記事は、明らかに深い関係にあります。言ってみれば、あのやもめと正反対の場所に立っているのが、ここで批判されている律法学者たちです。それは誰でもすぐにわかるだろうと思います。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる」。細かいことは抜きにしても、よくわかります。人にほめてもらう、評価してもらうことが生きる目的になっちゃいかん、という話です。しかもこういうことが、私どもの生活の中で切実な意味を持つことが多々あるだろうと思うのです。

40節には、「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とあります。ここに既に「やもめ」という言葉が出てきます。「やもめの家を食い物にし」というのは、当時の律法学者たちが、貧しいやもめからさらに厳しく不当な仕方でお金を搾り取っていたという話ではありません。おそらくその正反対で、律法学者たちは誰よりも貧しいやもめたちを助けたと思います。律法学者、すなわち聖書の学者です。旧約聖書の律法は、貧しいやもめを助けるようにと繰り返し教えます。その律法を教える先生たちが、物心両面において貧しいやもめたちを助けなかったはずはない。身銭を切って施しをし、家を訪ねて慰めの言葉をかけ、聖書のみ言葉を教えて祈りをしただろうと思います。ところが問題は、その祈りが「見せかけの長い祈り」になってしまったということです。そのするところは、すべて人に見せるための見世物でしかない。その意味で、「やもめの家を食い物にし」たと言われるのです。そういう律法学者の心の闇を、しかも私どもは、どこかでよく理解しているのです。

■こういう〈律法学者の罪〉を犯さないように、少しでもその罪から離れることができるように、私どもの教会もそれなりの工夫をしております。そのひとつの工夫は、皆さんの献金について、いっさい報告しないということです。そのことについては、2ヶ月ほど前に礼拝後の報告の時間を割いて少し丁寧に説明したことがありました。たとえば、教会の財政のいちばんの中心は、黄色い封筒でささげる月定献金です。どんなに少額でも構いませんから、これは決して怠ってほしくない。すべての教会員の責任であると考えています。けれども、この月定献金を誰がしているか、誰がしていないか、ましてその額について、牧師も長老も誰も知りません。知っているのは2、3名の会計担当者だけです。その理由はすぐにおわかりいただけると思いますが、人の目を気にしながら献金をしていただきたくないからです。ただ神に対する責任だけを考えて、信仰者らしい自由の中で献金をしてほしいと考えるからです。

こういう鎌倉雪ノ下教会のやり方は、他の教会よりも徹底しているかもしれません。他の多くの教会では、金額は公にしない、けれども献金をした人の氏名は週報なんかに印刷したりします。私どもの教会では、それも絶対にしない。それは一方では、自分の献金について誰にも知られないから気が楽だ、という感想もあるかもしれませんが、その反対に、一所懸命献金しているのに何だか報われない、という感情だって生まれるかもしれません。

この教会堂を建てて、今年でちょうど40年になります。その40年前にも何億円という献金がささげられましたが、誰が献金したか、ましていくら献金したか、当時の牧師の加藤常昭先生も遂に知ることはありませんでした。そのことについて、ちょっとした行き違いが起きたことがあるそうです。鎌倉雪ノ下教会の外部からも多くの献金がありました。それらの献金についても、会計担当者は秘密を守りました。それで、どうやら結構な額の献金をしたらしい人が、ある集まりで加藤先生に会った。そうしたら当然、あれだけの献金をしたのだから、「このたびはありがとうございます」と、ひと言くらい挨拶があるだろうと思ったのに、加藤先生は誰が献金してくれたか一切知りませんから、当然その人がした献金のことも無視された形になりました。「え? 何で?」 結構、一所懸命献金したのに。それとも、私の出した献金くらいじゃあ、挨拶する価値もないってことですか?……とまで言ったかどうか知りませんが、こういうところに私どもの心の闇が見え隠れするかもしれません。

献金の話は、ほんの一例にすぎません。こういうことは、生活のありとあらゆる場面で問題になることです。少し前のところで学びましたように、神の掟は愛に尽きます。すべてを尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するのです、が、現実には甘いことばかりではありません。愛には、必ず苦労がつきものだからです。苦労しない程度までなら愛しますよ、というのは愛でも何でもないでしょう。けれども私どもがしばしばつまずくのは、その愛の労苦に何の報いもないときです。何の手ごたえも感じることができないとき、私どもはなかなか愛の労苦に耐えることができません。

ここで主イエスに厳しく非難されている律法学者もまた、要するに、愛の手ごたえを求めたのです。人から返ってくる、愛の手ごたえに慰めを見出していたのです。そういう律法学者の罪、私どもの心の深みにひそむ貪欲の罪は、どうしようもなく果てしないものがあると思います。伝道者パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰ第13章において、「愛がなければ、すべては無に等しい」と言いました。「たとえ全財産を人のために分け与えても、誇ろうとして自分の命を捨てたとしても、愛がなければ、何の意味もない」と言うのです。本当は愛もないのに、それなのに全財産をささげることがあり得るというのは、ずいぶん激しい言葉ですが、真実でしょう。いやむしろ、自分の命を捨てるほどの愛を注いだのに、誰からも何の感謝の言葉もない、挨拶のひとつすらない、ということになったら、かえってますます私どもの貪欲の罪は激しく燃え上がるだろうと思います。

■こういう私どもの罪が癒やされる道があるとしたら、いったいそれをどこに見つけることができるでしょうか。途方に暮れるほかないと言うべきかもしれませんし、誤解を恐れず言えば、主イエスご自身、ほとんど絶望しておられたのではないかと思うのです。だからこそ、このお方は十字架につけられなければなりませんでした。ところが、です。ここで主イエスは、ひとりの貧しいやもめの姿を見つめて、そして弟子たちに言いました。「あの貧しいやもめを見なさい。あれが、本当の礼拝だ。あのやもめこそが、真実の教会の姿なんだ」。主はどんなにお喜びになったことでしょうか。

ひとつこの場面で不思議なことがあります。「イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」と41節に書いてあります。しかも主イエスは、誰がいくら献金していたか、すべてお見通しであったらしい。それは、まあ、神の御子キリストですから、そのくらいのことはわかって当然だと言うべきでしょう。しかしもっと本質的に難しいことは、なぜここで主イエスは、人びとの献金の額なんかに目を光らせておられたのだろうか。決して主イエスは、何となく、たまたま、ぼんやりと人びとの献金の姿を眺めていたわけではありません。明確な目的意識を持って、というよりも切実な危機意識を持って、神殿の献金箱を、そこに献金を入れる人びとの姿を見つめておられたと思います。

そのことは、第11章の最初からの話をよく考えればすぐにわかることだと思います。主イエスの地上での最後の一週間、主は都エルサレムにお入りになり、その翌日まず何をなさったかというと、神殿の境内に入り、「祈りの家を強盗の巣にするな」という、たいへん激しい言葉でもって、神殿の中で商売をしていた人びとを皆追い出してしまわれました。ここは神の神殿ではないか。神の家は祈りの家であるはずなのに、真実の祈りが聞こえないではないか。そのような神の御子の飢え渇きを象徴するように、実のなっていなかったいちじくの木を枯れさせてしまわれました。飢えるような思いで、「なぜここに実りがないのか。見せかけの祈りは聞こえる。見せかけの愛のわざも、見せかけの献金も、ごまんとささげられている。けれども、本物の祈りはひとつも聞こえないじゃないか」。そのような悲しみの中で、主イエスは41節にあるように、「献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」。

■今も主イエスは、この鎌倉雪ノ下教会を見つめておられると思います。私どもの教会が、いつも〈主のまなざし〉の中にあるということは、何にも替えがたい慰めです。というよりも、教会に与えられている慰めというのは、〈主が見ていてくださる〉という、このひとつのことに尽きるのだと思います。この福音書の記事が語るのも、まさしく〈主のまなざし〉です。それ以外ではありません。

その主のまなざしの中で、むしろ今ますます深い戸惑いの中に放り込まれたような思いになった人がいたとしても、不思議ではありません。この貧しいやもめこそが、本物の礼拝をしたんだ。本物の献金をしたんだ。あるいは、本物の祈りをしたんだ。しかし、そうであるならば、いったい私自身は、何をどうしたらいいんだろう。依然として戸惑いは深まるばかりなのです。なぜかと言うと、あのやもめは貧しい中から、自分の持っているものすべてをささげた。それが主イエスの目に留まった。主イエスの心を動かした。それはわかるんだけれども……しかしそれならば、私どもも全財産をささげなければならないのでしょうか。「そうです、全財産をささげるのでなければ、本物の献金にはなりません」などと牧師が話し始めたら、そういう危ない教会からは早く逃げた方がよいかもしれません。それなら、ここで主イエスがほめておられる本物の献金って何だ。本物の礼拝とは何か、あるいは本物の教会とは何か。そこが結局わかりにくい。これは、決して簡単な問いではないと思います。

そこでたとえば、こういうことを考えてみてもよいと思います。この聖書の言葉について、学者がいろいろ解説をしてくれている文章を読むと、ほとんど必ずこういう説明が出てきます。実はこの物語は、聖書独自のものではない。仏教にも、ユダヤ教にも、似たような物語がある。珍しいものでも何でもない。たとえば仏教にこういう言い伝えがあるそうです。貧しい女性が、自分の所有する全財産、すなわち銅貨2枚をささげた(こんな細かいところまで同じです!)。人の心をよく知る僧侶が、彼女のささげ物を公にしたところ、国王はこの女性を妃として召し抱えた、というのです。この物語を紹介しているある牧師がひと言コメントを添えて、「この物語によって、貧富の間の境界線は、ますます固定化されることになる」と言っています。結局金持ちになるのが幸せなのだというこの世の秩序が、ますます固定化されるだけではないか。

しかしそうすると、それに対して、この聖書の記事は、何を言おうとしているのでしょうか。貧しいやもめは、今紹介した仏教の話とは違って、ますます貧しいままなのです。しかも主イエスはこのやもめの献金をほめてくださいましたが、弟子たちにそれを伝えただけで、やもめ本人は遂に最後まで、自分に対する最高の評価を聞かされないまま、ますます貧しくなった生活の中に戻って行っただけなのです。「そうか、ここまで徹底的に自分に厳しくしなければならないのか」という話であるならば、きっと私どもには絶望しか残らないだろうと思います。誰もそこまで自分に厳しくすることはできないからです。

■しかしそうすると、主イエスはいったい、この貧しいやもめの何に心を動かされたのでしょうか。主イエスのお言葉の最後に、「この人は、乏しい中から、すべてをささげた」とありますが、この「乏しい中から」というのは、貧しいけれどもとにかく少しは持っていた、というニュアンスではありません。まったくゼロである。むしろマイナスである。欠乏そのもの、貧しさそのものを投げ入れた、と言ってもよいだろうと思います。「ささげる」というよりも、「投げる」という言葉が使われています。自分の貧しさ、自分の乏しさそのものを、神のみ手に投げ入れた。主のみ手に委ねた。

何を投げ入れたかというと、「生活費を全部」と書いてあります。「生活費」でも別に間違いではありませんけれども、もともとの言葉の意味は、「命のすべて」、あるいは「彼女の生活のすべて」、そう訳した方がよかったかもしれません。貧しさそのものである、この人の命をまるごと、神の手に投げ入れたのです。

最初に申しましたように、やもめというのは、当時の社会においていちばん弱い存在です。幸いにして旧約聖書の教えが生きていましたから、いろんな人が彼女を支えたでしょう。誰よりも律法学者のような人たちが、いい顔をしながら、うまいこと言いながら、時に長ーいお祈りをしてくれたりしながら、一所懸命彼女の生活を支えたでしょう。けれどもこのやもめは知っておりました。本当の助けは神から来る。だから、このやもめの祈りは、いつもひとつでした。「神よ、わたしの命を、貧しさそのものであるわたしの命を、あなたのみ手に委ねます」。

教会とは、そのような存在だと思うのです。神の霊によって立つ教会は、いかなる人間の豊かさによっても立つことはありません。既に主イエスご自身が、「心の貧しい人々は、幸いである」と言われました。貧しさそのもの、乏しさそのものである私どものすべてを、しかし神の霊が生かします。神の命が支えます。「あなたは、幸いである」との主のみ声が聞こえます。その祝福が本当によくわかったら、私どももまた、自分の命のすべてを、そのまま神のみ手の中に投げ入れる幸せを、ますます深く学んでいくことができるでしょう。そこに、教会が立つのです。

■今朝の礼拝の最初に、詩編第31篇をご一緒に読みました。私はこの詩編を読みながら、本当に大げさでも何でもなく、これこそあの貧しいやもめの祈り、そのものではないかと思いました。それがまた、私どもの祈りにもなっていることを、心から感謝してこの詩編を受け止め直したいと思います。このような祈りであります。

主よ、あなたのもとに逃れます。
私がとこしえに恥を受けることが
ないようにしてください。
あなたの正義によって私を救い出してください。
私に耳を傾け
急いで私を助け出してください。
私のために、砦の大岩、
救いの城になってください。
あなたこそわが岩、わが城。
御名のゆえに、私を導き、伴ってください。
彼らが仕掛けた網から私を引き出してください。
あなたこそ、わが砦。
主よ、まことの神よ
私の霊を御手に委ねます。
あなたは私を贖われた。 (2~6節)

「主よ、まことの神よ/私の霊を御手に委ねます」。まことに、あの貧しいやもめの祈り、また私ども教会に与えられた祈りであります。お祈りをいたします。

 

主よ、今私どもも、自分の命そのものをあなたのみ手に委ねます。私どもの貧しさが、どんなに貧しくても、あなたがいてくださいます。教会とは、赦された罪人の集まりだと何度も教えられておりますが、その罪がどんなにどうしようもなく深くても、神よ、あなたが私どもの救い、わが岩、わが砦でいてくださいます。見せかけの祈りを捨てて、ただあなたに救われた者として、あなたの愛の中にまっすぐに立たせてください。心の貧しい私どもは、本当に幸せです。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン