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弱さの中に神の力が

2024年3月24日

コリントの信徒への手紙二 第12章1-10節
中村 慎太

主日礼拝

私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」

主なる神さまが、伝道者パウロに語った言葉です。パウロはこの言葉によってイエスさまを伝える生き方を続けました。

この主が語られた言葉の中に、弱さという言葉があります。

弱さ、とは、何でしょうか。私たち教会に集められた者にとって、キリスト者にとって、弱さとは何か。

弱さの反対は、強さです。人はつい、強さを求めるものでもあります。肉体による強さ、知識による強さ、あるいは、金による強さ、権力による強さ。そして、私たちは自分の長所を求めていく。何ができたらいいな、とか、何かに長けることで、誰かより優れていたい、とか。

その一方で、私たちは、弱さは、隠したくなる。自分にある弱さを見つけることは、あまりできない。まして、自分の弱さを誇ることなど、そうないと思うのです。

しかし、聖書は伝えるのです。弱さを誇ろうではないか、と。パウロが、自分の弱さを誇り、そのように伝えているのです。

この聖書の言葉で、弱さと訳されている語があります。その語は、聖書で何度も、24回用いられる語です。時にはそれは、病気、と訳されることもある語です。そして、伝道者パウロが書いた手紙において、12回も出てくる。

彼自身が、自らが弱かった時のことを振り返り、それを告白するのです。あの時は私たちは弱っていた、しかし、主によって励まされたのだ、などというように、書き記しています。

パウロという信仰者にとって、弱さは伝道のテーマでもあったはずです。

特にコリントの信徒へ書いた手紙の中では、8回もこの弱さという言葉を書き記している。それに意味はあるのでしょうか。

コリント教会は、伝道者パウロがイエスさまのことを伝えた教会です。当時経済的にも栄えていた都市です。しかし、そのコリント教会にも問題はあった。神さま以外の何かを誇り、自らの何かを誇ってしまうことです。

そんなコリント教会の仲間を時に正し、励ますために、パウロは手紙を書いていた。

今日読んだ聖書も、パウロに与えられた神さまからの幻と掲示についての話でした。もしかしたら、コリント教会においても、そのような神さまからの幻や啓示を受けて、それを誇るような話があったのかもしれません。しかし、その経験を誇ること以上に、大切なことがある、とパウロは手紙を書き記していくのです。

1節から5節。

ここを読んで、まず興味を持つことは、パウロがある人の体験を書いていて、それが誰か書かれていないということです。だから、私たちは、最初聖書を読んだ時、これはだれのことを話しているのだろう、と疑問に感じざるを得ない。

その内容は、主から与えられた幻であり、啓示です。天に、しかも第3の天ですから、父なる神さまのいらっしゃる天の最も高い所、楽園と言えるところにまで、ひきあげていただいたという経験です。

ここまで丁寧に読んでいけば、これはパウロ自身の体験だったと、読み解くことになります。パウロは自身の経験を、敢えて他の人の話として、三人称で話していた。

そのような幻を与えられて、主のみ国を示されたパウロは、その素晴らしい経験を他の人に誇るために用いることができるかもしれません。しかし、彼はそれをしません。

もしかしたら、コリント教会に、パウロと同じように与えられた神さまからの幻の経験を、誇る者がいたのかもしれません。しかし、それを誇ること以上に、私たちは誇るものがあるではないか、むしろ私たちは弱さを誇ろうではないか、と、パウロは言葉を続けます。そのために、敢えて自分ではない誰かの体験として、幻を語ったのです。その後で、パウロ自身に与えられたこととして、弱さについて語ります。

5節から10節。

私自身については、弱さ以外は誇るつもりはありません。そこまでパウロは言いきります。

弱さとは何か。今日の話の始めでも問いかけました。ではパウロにとっての弱さは具体的には何だったのか。それは、分かりません。

パウロは弱さという言葉と合わせて、棘という語を用いました。

棘、抜こうと思っても簡単に抜けないものです。最終的には、自分では抜けず、誰かに、例えば医者に、頼ることもあります。

実際、パウロはその棘について、神さまに祈ります。3度も祈ります。それでも、取り去られることがないものだったのです。

ここで言われる棘、や弱さ、とは、自分では克服できないような何かなのです。

何度祈っても変えられることのないような弱さが、ここで語られています。

生まれついての能力に関して、私たちには弱さがあるかもしれません。あるいは、治すことのできない病気です。あるいは、どうしても変えられない環境や境遇。また、誰かを失い、どうやったって、埋めることのできない喪失感。

パウロにもそのような弱さがあった。目の病気か、それとも脳の病か、それとも、特にひどい迫害か。それとも、心が擦り減り、心の病だったか。

分かりません。そのように分からないことも、私たち聖書に読む者に神さまが与えてくださった導きかもしれません。

私たちにも弱さがある。パウロだけではない。

それを隠すことはないのだ。そのことを、神さまの前に、さらけ出して、その上で神さまの恵みを、受け取ろうではありませんか。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」

力、という言葉があります。聖書が伝える力とは、まず神さまの力です。訳によっては、ここに「わたしの」力という語を読み解く聖書もあります。力とは、神さまの力なのです。

私たちが弱ければ、私たちが神さまの力が占める割合が増えるのです。

喜んで、私たちの弱さを誇ろう、それをも、神さまに差し出そう、そこに神さまは恵みをくださったのだから。そこに、神さまの力が現れる。私たちが弱くても、いや、むしろ弱いからこそ、神さまの力の大きさが、ダイナミックさが、ダイナミズムがそこで現れる。

聖書の人物たちが、沢山の弱さを抱えていたけれど、神さまはそれらの人々を用いてくださった。

イエスさまの出来事を思い出します。5つのパンと2匹の魚を、イエスさまは用いてくださった。

私たちもそう。完全に強い人はいない。それでも、私たちをもちいてくださる。

私自身もそうだった。

神さまに頼ることを知る。

おごることがなくなる。

そして、群れで、励まし合って進めるようになる。

パウロがそうだった。

イエスさまがエルサレムにきてくださる。

イエスさま自身が弱さを抱えてくださる。

3回の祈りをもしても、向かわなければいけない弱さを抱えてくださった。

それに力である、復活が起こります。

私たちに来てくださった力の主に向かって賛美をささげましょう。