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山をも動かす祈り

2024年3月3日

マルコによる福音書 第11章20-25節
川崎 公平

主日礼拝

■「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた」(20節)。昨日までは元気よく青々と葉を茂らせていたいちじくの木が、翌朝通りがかりにふと見ると、見事に枯れていたというのです。その無残な姿は、主の弟子たちの心に深く刻まれたと思います。たいへんなショックを受けたと思うのです。それで、弟子のペトロが申しました。「先生、見てください。昨日あなたが呪われた木が」。はっきりと、「呪い」という言葉を口にしています。聖書をよく読むと、どこにも主イエスがいちじくの木を「呪った」とは書いていないのですが、ペトロはここに神の呪いを感じ取ったし、おそらくそれは正しかったのでしょう。「この木は、呪われたのだ」。そのいちじくの木の不気味な迫力は、弟子たちすべての心に深く刻まれたし、だからこそこのように福音書に書き残されているのです。この木は、いったい何だろう。なぜ、枯れてしまったんだろう。神に呪われたのだ。なぜ、呪われたんだろう。いったい、この木は何なのだろう。

マルコによる福音書は第11章以降、主イエスの地上での歩みの最後の一週間、エルサレムでの一日、一日の出来事を伝えます。それを私どもの教会では受難週と呼びます。マルコによる福音書の数え方からすると、今日読んだ20節以下は火曜日ということになります。12節の「翌日」というのが月曜日、そして今日読んだ20節の「朝早く」というところから火曜日が始まると、日付を数えていくことができるのです。そして考えてみますと、その翌々日の木曜日にはゲツセマネと呼ばれる場所で徹夜の祈りをなさり、その祈りが終わるや否や主イエスは闇討ちに遭って捕らえられ、弟子たちは皆逃げ出し、翌朝金曜日にはものすごいスピードで裁判が行われ、死刑の判決を受け、その日の午前中のうちには十字架につけられる、という、その週の火曜日の話ですから、主イエスにとっても、一日、一日が緊張の日々であったに違いありませんし、それは寝食を共にしていた弟子たちにも、十分に伝わっていただろうと思います。

そのようなエルサレムでの最後の日々、その時の主イエスの思いを端的に、象徴的に反映しているのが、このいちじくの木であります。今日は20節以下を読みましたが、本当は12節から読むべきであったかもしれません。12節には、「イエスは空腹を覚えられた」と書いてありますが、これはもう少し強く、「イエスは飢えた」と訳すべきではなかったかと、先週の礼拝でも同じことを申しました。「イエスは、飢えた」。それで、いちじくの木に近づいてみると、葉っぱだけは景気よく茂らせていたけれども、実はなかった。それで主イエスは空腹のあまり、「お前は二度と実を実らせてはならん」と言って、それで翌朝には枯れていたというのですが、マルコはこれに注を付けて、13節に「いちじくの季節ではなかったからである」と説明しています。それなら実がなっていないのは当たり前ではないか、いくら何でも理不尽だと思われるかもしれませんが、これはもちろんひとつの譬えであります。もしも今主イエスが、たとえばこの鎌倉雪ノ下教会をご覧になって、「何だこの教会は、葉っぱばっかりで、食べられそうな実はひとつもないじゃないか」と言って、「イエスは飢えた」ということになったとしたら、落ち着いて礼拝もできないかもしれません。

先ほど、イザヤ書第5章をあわせて読みました。旧約の預言者たちもしばしば、実を結ばない神の民イスラエルの姿を厳しく撃つ言葉を語りました。神であるわたしは、よいぶどう畑によいぶどうを植えたはずなのに、実ったのは酸っぱいぶどうであった。

ぶどう畑に対してすべきことで
私がしなかったことがまだあるか。
私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに
どうして酸っぱいぶどうが実ったのか。 (4節)

もし、私どもが同じことを言われたら、どうでしょうか。「あなたのこれまでの人生を観察してみたんだけどね……どうして酸っぱいぶどうしかないんだ? あなたに対してすべきことで、わたしがしなかったことが、まだあるのか」。そこでたとえば、「いやいや神さま、今はわたしの季節ではありませんから、実がないのは当然ですよ」という答えもあり得るかもしれませんが、もしもそうであるなら、きっと私どもは年がら年中、季節外れなんです。

■そうすると、どういうことになるのでしょうか。たとえば、こういう話の筋を考えることができるかもしれません。いちじくの木が枯れた。これは要するに、都エルサレムの実情である。あなたも同じように神に呪われるがよい、という話になっても不思議ではありません。ところが話は思いがけない方向に進んでいきます。「信仰を持ちなさい」と言われるのです。

「神を信じなさい。よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(22~24節)。

まるで関係のない話が始まったかのようです。枯れたいちじくの木、呪われたいちじくの木の話と、信じて祈れば山も動くというこの話は、何がどう関係あるのでしょうか。

私どもの翻訳では、「神を信じなさい」とあります。しかしこれはたいへん興味深い文章で、直訳すると「持ちなさい、神の信仰を」と書いてあります。しかし「神の信仰を持ちなさい」と言われても意味がわかりにくいですから、「神への信仰を持ちなさい」、したがって「神を信じなさい」という翻訳になったのでしょう。しかし原文の味わいにも大切なものがあると思います。「神の信仰を持ちなさい」。神さまには確信がある。その神さまの確信を分けてもらいなさい、という意味であるかもしれませんが、もうひとつの翻訳の案は、「神との信頼関係を持ちなさい」。「信仰」と訳されることも多いのは確かですが、もともとは「誠実である、忠実である」、したがって「信頼できる」、「お互いに嘘偽りがない」という意味合いの言葉です。「神との信頼関係を持ちなさい」。神とあなたとの間に、嘘偽りがあってはいけない。しかし考えてみますと、私どもが神を信じる、その意味で信仰を持つというのは、まさしくそういうことだろうと思うのです。

その神との信頼関係の中で生まれるのが〈祈り〉であります。それで23節以下には、先ほど読みましたように、少しも疑わずにこの山に向かって「海に入れ」と言えば、そう信じるなら、その通りになると言われるのですが、こういうことを言われると、かえって疑いの心が呼び起こされてしまうかもしれません。「いやいや、いくら何でも、山は動かないでしょ」。しかし考えてみますと、教会の歴史の中で誰かが祈りの力で山を海に放り込んだという話もいっさい聞きませんし、実は主イエスご自身も、どこかの山を動かすような奇跡をなさったことは一度もないのです。それならば、なぜこういうことを言われたのでしょうか。

そこで大切なことは、もう一度申します、「神を信じなさい」。主イエスは、飢え渇くような思いの中で、こう言われたのです。もう数日後には、人びとの悪意の中で十字架につけられる。そのことを思いながら、最後の思いをふりしぼるようにして、「神との信頼関係を持ちなさい」。神さまとの、嘘偽りのない信頼関係の中で、いったいどういう祈りが生まれるのでしょうか。

■以前にもどこかで紹介したことがあると思いますが、この教会で長く牧師であった加藤常昭先生の『祈りへの道』という書物があります。祈りについての、既に古典と呼んでもよいほどの価値のある書物だと思います。この書物の中に「祈りは答えられる」という題の文章があります。加藤先生がある人から、「先生、祈りをしたら必ず聴かれますか」と問われた時に、とっさに答えたことは、「神さまは自動販売機ではありませんよ」。自動販売機であれば、お金を入れてボタンを押せば、故障でもしていない限り必ず望み通りの商品が出てくるのです。あったか~いお茶を飲みたいな、と思ってボタンを押したのに、つめた~いアイスが出てきたら困るのですが、神さまは、そもそも機械ではない。そう言って、加藤先生はさらにこう書いておられます。

機械が私どもの思い通りに動くのは、私どもが自分たちの思う通りに動くように作った、いのちのないものであるからです。生きておられる神、しかも私どもよりももっと大きな、深いいのちを持っておられる神が、私どもの思う通りの答えをなさらないのはむしろ当然でしょう。

自動販売機が思い通りの商品を出してくれるのは、それがいのちのない機械だからだと言います。けれども神は、自動販売機ではない。何となくわかりますが、何かだまされたような気がするという方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。けれどもここで決定的な意味を持つのが、先ほど丁寧に説明した「神を信じなさい」という言葉です。別に冗談を言うつもりはありませんが、「自動販売機を信じなさい」と言ったって、「え、だから何?」ということにしかならないでしょう。「自動販売機との信頼関係を持ちなさい」。いやいや(笑)。そうではなくて、「あなたは、神を信じて生きるのだ」と言われるのです。

神は自動販売機ではありませんから、だからこそ、神は飢えるのです。神は私どもの神だから、だからこそ、神は私どものために苦しむのです。「神を信じなさい」。「神との信頼関係を持ちなさい」。イエスの飢えは、すなわち神ご自身の飢えであります。いったい、神は何に飢えておられたのでしょうか。私どもの信仰に、飢えておられたのではないでしょうか。「わたしを信じてほしい。本当の信頼関係の中で、わたしと一緒に生きてほしいんだ」。愛のゆえの、神の飢えであります。主イエスは、私どもの信仰を求めてそれを得ず、あるいは私どもの祈りを求めて、それを聞くことができずに飢えておられた。それが、主イエスのエルサレムでの最後の一週間であったと言わなければなりません。

「神を信じなさい。よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる」。

祈りには、疑いがあってはなりません。それはそうでしょう。疑いがあったら、信頼関係は築けないのです。その信頼関係の中で、私どもはどんなことでも祈ります。ここは声を大にして言いたいと思いますが、神さまはどんな祈りでも聞いてくださいます。人には言えないこともたくさんあるのが、本当の私どもの生活であると思うのです。けれども、神の前には、すべて注ぎ出すことができます。どんなに恥ずかしい祈りであっても、神は真面目に聞いてくださるし、だからこそ私どもも、幼子のような信頼をもって神に祈る。どんなことでも祈るのです。それが、神を信じるということでしょう。その信頼関係を、神は求めておられます。そしてしばしば、そういう私どもの生活の中に、どうしたって動かさなければならない山が立ちはだかってくることがあるだろうと思うのです。そのときこそ、神を信じて、祈るのです。

24節にはたいへん驚くべき約束が記されています。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい」。この聖書の言葉を書き写した人たちの中で(古代には印刷の技術などありませんから、すべて手で書き写しました)、「祈り求めるものはすべて、すでに得られた」というところが納得できなかったのでしょう、「祈り求めるものはすべて得られる」、あるいは「得られるであろう」と書き換えてしまいました。その気持ちもわかるのです。「神さま、こうしてください、ああしてください」。いろんなことを祈ったあとに、たとえば特に牧師のような人間は、こういうことを教えたがるのです。「しかしね、祈りが聞かれるタイミングは、神さまがお決めになることですからね。10年後、20年後、あるいはあなたが死んでから、思いもかけない形で祈りが聞かれることもありますよ」。もちろんそれも、別に間違ってはいないのです。けれどもここで主イエスが言われることは、「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい」。信頼関係というのはそういうものでしょう。困ったことがある。そういうときに、心から信頼している人のところに行って相談する。いやあ、いくら何でもこのことは、この人にも無理かな、などということはひとつも考えないで、この人にさえ洗いざらい話してしまえば、100パーセント安心間違いなし。あの人に相談したんだから、「すべて、すでに、得られた」ということにしかならないのです。しかし問題は、そういう信頼関係の中で、何を祈るのでしょうか。

■そこでさらに思いがけないことは、25節にこういう約束が続いています。

「また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。

どうも話が唐突だとお感じになるかもしれません。なぜここで急にこんな話になるか。けれどもそれは、私どもが大事なことを見落としていただけで、神からご覧になったら、別に急でも何でもないのです。まさにこれこそがいちばん動かさなければならない山であって、ところがこの祈りをしようとしないから、神を信じて祈ろうとしないから、私どもはあのいちじくのように、自ら滅びを招いているのだと思うのです。

「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」。口で言うのは簡単です。けれども現実には、こんなに難しいことはありません。主イエスはあるところで、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。私は思うのですが、そして書物の中に書いたこともあるのですが、敵を愛することよりも、敵のために祈ることの方が難しいかもしれません。愛するのは人間が相手ですから、いくらでもごまかすことができるのです。ところがこのマルコによる福音書第11章においても主がお求めになることは、「祈りなさい」、「祈りのうちに、赦してあげなさい」。私どもは神を信じて、神を信頼して祈るのですが、そこに嘘偽りがあってはなりませんし、事実相手が神である以上、ごまかしやはったりが効かないのです。そのごまかしが効かない神の前に立って、しかしだからこそ、どうしたって祈らないわけにはいかないことは、「誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」。

静かに自らを省みて思うことは、「誰かに対して何か恨みに思うことがある」、きっと誰にでもそういうことがあると思います。そのことから逃げている限りは、その人は決して祈っているとは言えないと思うのです。神を信じて、神の前に立っているとは言えないと思うのです。真実に神の前に立ったならば、「誰かに対して何か恨みに思うこと」、それを忘れることはできません。「山も動け」という思いで、赦さないわけにはいかないのです。それができないからこそ、事実人間という生き物は、何度も滅びかかっているし、今も滅びの瀬戸際にいると言わなければならないと思うのです。

主イエスご自身にとっても、地上のご生涯の最後に、このような話をしなければならなかったのは、どんなに苦しいことであったかと思うのです。「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」。主がそう言われたとき、既に主イエスは、私どもの枯木のような無残な姿を見ておられたのかもしれません。だからこそ「神を信じなさい」と、そう言われるのです。

■最初にお話ししましたように、既に火曜日の話であります。この翌々日、受難週の木曜日の夜には、主イエスはゲツセマネという場所で、こう祈られました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」。

父よ、あなたは何でもおできになる。ここでも主イエスは、はっきりそう言っておられます。主イエスご自身が、ここでも、神を信じて、少しも疑わずに、祈っておられるのです。動かさなければならない山があったからです。どんなに厳しい山が主イエスの前に立ちはだかっていたかと思います。自分の前に立ちはだかって、自分を殺す計画を立てている人びとがいる。弟子たちもまた、自分を裏切ろうとしている。恨みの山、罪の山が立ちはだかるところで、主が苦しみ悶えながらひたすら祈られたことは、「父よ、あなたは何でもおできになります」。あなたに動かせない山はありません。

この主イエスが十字架につけられたこと、そして復活されたことを記念して、この聖餐の食卓を祝います。ここで私どもが知ることは、既に山は動いたということです。「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい」。既に得られたと信じるからこそ、今私どももここで、望みをもって祈ることができるのです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。その祈りが既に聴かれているとするならば、ここに生きる教会は、決して枯れた木ではないのであって、主のお望みになる実りを豊かに実らせている、それがこの教会であると、そう信じることもできるのです。お祈りをいたします。

 

主よ、今あなたがお求めになる祈りに生き、愛に生き、赦しに生きる教会を、み前におささげすることができますように。私どもの罪のために、あなたの御子がどれほどの飢えに耐えてくださったか、悔い改めつつ、この食卓の前でそのことを思い起こさせてください。人間の恨みだけが、この世界を動かす原動力になっているかに見えるこの世界を、どうかあなたが憐れんでください。信じて祈れば、山も動くと、たいへんな約束をあなたの教会はいただいているのですから、望みをもって祈りに生き、愛に生き、赦しに生きることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン