ひとつだけ、あなたに足りないもの
マルコによる福音書 第10章17-22節
川崎 公平
主日礼拝
■いよいよ主イエスがエルサレムに入られ、そこで十字架につけられて殺される、その時がさし迫っていたころ、ひとりの金持ちの男が、主イエスの足元に走り寄り、ひざまずいて尋ねました。「永遠の命を受け継ぐには、どうしたらよいですか」。そうしたら主イエスはこの人に、永遠の命をいただくためのいちばん確実な方法を教えてくださいました。ひとつの言い方をすれば、こんなに幸せな話はほかにないということになりそうですが、この話の結末はこうなっています。
「彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(22節)。
なぜ、このような悲しい結末になってしまったのでしょうか。
この一連の出来事を理解するために、ひとつ大切なことがあります。21節の最初のところに、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてあります。しかしここはもう少し原文を直訳した方がよかったかもしれません。「イエスはこの人を見つめ、この人を愛し、そしてこの人に言われた」という文章です。アガペーというギリシア語を聞いたことがあるかもしれません。「愛」という意味の、特に新約聖書において大切にされるようになった言葉です。それがここにも用いられています。しかも興味深いことに、マルコによる福音書ではこの箇所以外どこにも、イエスが誰かを愛されたという表現は出てきません。もちろんほかの人を主イエスが愛しておられなかったということはないでしょうが、それにしても特別な表現なのです。「イエスは彼を見つめ、彼を愛し、そして彼に言われた」。主イエスに見つめられ、主イエスに愛された人の物語です。もちろん今私どもも、主イエスに愛された者として、今朝この物語を読むのです。この視点を忘れると、この出来事の一切がわからなくなります。この金持ちの男は、主イエスに愛されたのです。そしてそれはそのまま、私どもの物語になる、かもしれないのです。
ところがこの物語の結末は、「彼はこの言葉を聞いて顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った」というところで終わっています。「顔を曇らせ」というのはよい翻訳だと思います。「曇る」とか「暗くなる」という意味の言葉です。ただ原文には「顔」という言葉が出てくるわけではありません。「顔が曇った」と理解しても間違いではありませんが、むしろ「彼が、曇った」と読んだほうが、むしろこの物語の主旨を正しく理解することになるかもしれません。この人の、全存在が暗くなった。その暗さは、どんなに暗かったかと思うのです。そして、「悩みつつ立ち去った」。たくさんの財産を持ちながら、けれどもこの人のその後の人生は、悩みと暗闇とに支配されるものとなりました。
別にここで、何かの漫画に出て来るような悪の権化のような金持ちを想像する必要はないのです。むしろ、子どもの頃から神の戒めに忠実に生活してきたという自負があり、周りの人たちも彼のことを尊敬していたに違いありません。財産を貧しい人に与えなさいと主イエスに言われたわけですが、そんなことを言われなくたって、この人は既に当時のまじめなユダヤ人が皆そうしていたように、きっと私ども以上に施しに励んでいたと思うのです。けれども、この人は永遠の命についての確信を得ることなく、悩みと暗闇の中へと消えて行きました。
しかし、この福音書の記事を素朴に読んで、私どもはむしろこの金持ちの男に多いに同情するのではないかと思うのです。よくわかるのです。きっと自分だって、同じ条件に置かれたら、同じ結末になったに違いない。そういう私どもが、今主イエスに見つめられているのです。愛されているのです。主イエスに声をかけていただいているのです。それはいったい、何を意味するのでしょうか。
■主イエスはこの人を見つめ、この人を愛して、それゆえにこの人にこう言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい」。しかしふつうに考えて、いったい私どもの誰がこんな無理難題をクリアすることができるでしょうか。その意味で、私どもはこの男が「顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った」という、その気持ちがよくわかるのです。こんなことを言われて、顔を曇らせない人がいるでしょうか。けれどもその暗さというのは、全財産を施すのはちょっと難しいなあ、何だかんだ言ってもお金は大事だし、というレベルの悩みではないと思います。問題は、永遠の命であります。既にこのお金持ちも気づいていたのです。自分は莫大な財産を持っている。死ぬまでお金の心配をすることは、まずないだろう。でも、だから何だ。大切な人を失った経験のある人なら、容易に理解できるだろうと思うのです。たとえ世界中のお金をかき集めても、命の代わりにはならないのです。そこに、私どもの根源的な悩みがあります。死の闇であります。この金持ちの男も、そのような死の闇が自分を支配していることに気付いていたからこそ、主イエスの足もとにひざまずいて、「善い先生、永遠の命をいただくには、どうすればよいでしょうか」と尋ねたのです。
考えてみれば、本当に悲しい人間の姿だと思うのです。「善い先生、永遠の命が欲しいのです」。この悲しいほどの人間の姿を主は見つめられ、これを愛し、声をかけてくださったのです。
■このような、主イエスに愛された人の物語だということを強調してみせましたが、それにしてもいろいろな点でわかりにくい話だと思います。そのために、主イエスの愛が見えにくくなっているかもしれません。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたこの男に対して、どうも主イエスのお答えは冷たいと感じた方もあるかもしれません。
「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18節)。
何だか、問いをはぐらかしているようにも読めますが、決してそうではありません。むしろ、この18節は決定的な発言であって、「善い者は、神おひとりだけ」、そう言うことによって、主イエスはこの金持ちを、ただひとりの善い方の前に立たせようとしておられるのです。
善いお方は、ただひとり、神。したがって、永遠の命をくださるのも、神以外の何者でもない。神はあなたを愛しておられるのだから、あなたはただその神の前に立てばよい。いや、既にあなたはこのただひとりの善いお方を知っているだろう。子どもの頃から、ただひとりの善いお方の言葉を聞き、そのお方の言葉によって生かされてきただろう。そう言って19節では、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え』という戒めをあなたは知っているはずだ」と言われるのです。
■この19節の引用は、先ほども一緒に唱えた十戒の一部です。なぜここに十戒が引用されるのか、これがまたわかりにくいという印象になったかもしれません。「永遠の命が欲しいのです」とひざまずいた人に向かって、なぜ唐突に十戒の話をなさるのか。なぜそこまで話をはぐらかすのか。しかし主イエスの思いからすれば、あなたは十戒を教えられているだろう。毎週、あるいは毎日、この十戒を唱えているだろう。それで十分なんだよ。それが永遠の命なんだよ、という思いがあったに違いないのです。
「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」と、私どもも先ほど十戒を唱えました。少し話が横に逸れるようですが、十戒を唱えるというこの習慣は、不思議なものだと改めて思います。「我は汝の神」、「わたしはあなたの神だ」と言うのですが、その場合の「我は」というのは、われわれ人間のことではなく、神さまのことです。「わたしがあなたの神なのだ」という神の言葉を、私どもが口にするというのは、少し不思議な感じがするかもしれません。使徒信条や主の祈りで「我は信ず」と言ったり、「我らの罪をも赦したまえ」と言うのとは根本的に性格が違います。それだけに、十戒を唱えるというのは、神ご自身の思いを私どもの心に刻みつけるようなところがあると思います。
「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」。わたしがあなたの神だ、わたしがあなたを救う。だから、だいじょうぶだよ、と神は言われるのです。考えてみれば当然のことです。「エジプトの奴隷状態からは救い出してやったけど、永遠の命は……もうちょっと頑張ったら考えてあげるよ」というのは救いでも何でもないでしょう。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」と、この言葉を口にするたびに、私どもはそこで既に、永遠の命の確信を得ているはずなのです。
けれどもこの人は、日々十戒を唱え、なおかつ十戒に背いたことは一度もないという生活をしながら、それでも永遠の命の確信を持つことができませんでした。死に怯えつつ、主イエスの足もとに走り寄り、ひざまずいたのです。それをご覧になって、主イエスの心は愛に燃えました。「わたしがあなたの神だから。神は、必ずあなたを救うから。『神おひとりのほかに善い者は誰もいない』。だから、だいじょうぶだよ」。
説教の準備をしていてひとつ「へえ、そうか」と思ったことがあります。「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」というこのひと言を根拠にして、「イエスは神ではない」と主張する人たちがいるそうです。なるほどね、とは思いますが、とんでもない誤解です。なぜかと言うと、主イエスははっきりと「わたしに従いなさい」と言われました。あなたは子どもの頃から十戒を教えられてきただろう。事実、あなたは神と共に生きてきたし、これからもそうすべきだ。そのために、あなたはわたしに従って来なさい。わたしがあなたを救う。わたしがあなたの神だから。心からの愛を込めて、そう主イエスは言われたのです。
十戒に生きるというのは、ただ何となく清く正しく美しく、ということではありません。「神おひとりのほかに善い者は誰もいない」。その確信に立って、わたしは神以外のものを神としません、という生活を作るのです。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」。そうであれば、私どもはもう人を殺さなくてもよいのです。他人の妻を欲しがったり、他人の財産を欲しがったりする必要もないのです。嘘をついて他人を陥れたりしなくてもよいのです。神が、わたしの神でいてくださるから。……それがすなわち、永遠の命に生きることであったのです。
ところが、このお金持ちにはそれがわかりませんでした。それで主イエスは言われました。「あなたに欠けているものが一つある」。そのひとつとは何でしょうか。主イエスはこの男に、全財産を売り払って貧しい人に施せと言われました。しかし、ここはよく考えていただきたいと思いますが、もしもこの男が本当にそのように実行して、今度は誇らしく胸を張って、さあイエスさま、今度こそわたしは永遠の命をいただけますね、と言ったとしたら、おそらく主イエスはもう一度「まだひとつ足りないよ」と言われただろうと思います。そのひとつのこととは、「我は汝の神」、「わたしが、あなたの神だ」という、このひとつのことだと思うのです。
考えてみると、私どもはいつもあれが足りない、これが足りない、お金が足りない、親の愛が足りない、時代が悪い、環境が悪い、運が悪いなどと言って、嘆いてばかりいるかもしれません。けれども本当は、私どもに足りないものがあるとすれば、それはいつも、ただひとつなのです。「あなたに欠けているものが一つある」。そう言って、主イエスは十戒の言葉をも思い起こさせながら、「わたしがあなたの神だから、わたしに従いなさい」。そう言われるのです。
■このたったひとつ必要なもの、そしてただひとつ足りないもの、すなわち神の愛を見えなくしてしまうものが、この男にとっては豊かな財産であったのです。言ってみれば、財産がこの人にとってのアキレス腱になっていたということです。それを捨てて、わたしに従いなさい。
このような言葉をまるで規則のようにとらえて、われわれも財産を捨てなければならないと考えたり、でも自分には無理だ、やっぱり自分はだめだなあ、と考えたりするのはおかしなことです。ある人がはっきりと指摘していることですが、それならたとえば、国中の農家が畑を放棄したらどうなるか。それは決して主イエスに従う道ではないし、神はそんなことをお求めになってはいない。少し考えれば、誰だってすぐにわかることです。しかし他方から言えば、私どももまたひとりひとり、主イエスからさまざまなことを命じられることがあると思います。それこそ私どもにとってのアキレス腱というべきものがあると思うのです。
たとえば、十戒に「殺すな」という戒めがありました。主イエスはあるところで、誰かに対して腹を立てることは、既に人殺しをしたのと同じだと言われました。「あなたは、その怒りを捨てなさい。憎しみを捨てなさい。そして、わたしに従いなさい」と命じられる人がいたとしても不思議ではありません。そしてそれが、その人にとっては全財産を手放すよりもずっと難しい場合があるだろうと思います。全財産を捨てろとは言わない。あなたのお金は、あなたのものだ。そのあなたのお金を用いて、親の介護に専念しなさい、あなたの自由を捨てなさいと主イエスに言われて、実際にその通りにする人だっているだろうと思うのです。「あなたに欠けているものがひとつある。あなたの妻を愛しなさい。そして、わたしに従いなさい」と言われなければならない人だって、きっといると思います。「あなたに欠けているものがひとつある。あなたの夫に従いなさい。そうすることによって、わたしイエスに従いなさい」というのが、その人のアキレス腱になっていることだって、きっとあると思います。
たったひとつ欠けているもの、しかもそのひとつが足りないために、神の愛の中にまっすぐ立ち得なくなっていること、それは人によってさまざまだろうと思います。しかしきっと多くの人にとっては、やはりお金が大きな問題になるかもしれません。どうしてもこれだけは手放せない、言ってみればその人にとっての偶像とでも言うべきものが、誰にでもあるのです。神の愛とか言われても、たてまえはわかるけど、ほんねは別だ。主イエスに従いなさいと言われても、やっぱり手放せないものがある。それが偶像です。しかしあなたは、それを捨てなさい。「神おひとりのほかに善い者は誰もいない」。
主イエスが言われたことは、非常に単純です。財産があなたを救えるか。あなたの偶像が、あなたを救えるか。「神おひとりのほかに善い者は誰もいない」。あなたを救うのは、ただひとり、神。このひとりの神を信じればよい。それがすなわち、永遠の命に生きるということなのです。
そのことが分からないから、私どもはさまざまなものにしがみつくのだと思うのです。お金にしがみついたり、自分の正義感にしがみついたり、あるいは自分の自由にしがみついたり、場合によっては浮気相手にしがみつくような人だってあるかもしれない。そうやって私どもがいろんなものにしがみつきながら、結局何をしているかというと、自分を救いたいのです。ところがそういう私どもが、自分自身をもすこやかに生かすことができず、まして愛すべき隣人を正しく愛することもできていないことを、主イエスは見抜いておられるのです。だからこそ、主イエスはあの金持ちの男を見つめ、この男を愛し、そしてこの男に言われました。「わたしがあなたの神だから、わたしに従って来なさい」。そこから立ち去ったあの男は、永遠の闇の中に消えていきました。神以外、誰にも癒やすことのできない悩みの中に、立ち去って行きました。その後ろ姿を見つめながら、しかし、実は誰よりも悩んでおられたのは、主イエスご自身であったと思うのです。
■ここに、「悩みつつ立ち去った」と書いてあります。新共同訳では「悲しみながら立ち去った」と訳されました。「悩む」とか「悲しむ」とか「苦しむ」という意味の言葉です。この言葉をさらに強調させた表現が、もう一度このマルコによる福音書に出てきます。第14章の34節です。「私は死ぬほど苦しい」と、主イエスはゲツセマネと呼ばれる場所で、そう弟子たちに訴えられました。「苦しい、苦しくて死にそうだ」。そう言われた主イエスの顔は、曇ったとか暗くなったとか、そんな言葉では足りないほどのものであったと思います。そして主イエスはそのゲツセマネという場所で、徹夜の祈りをなさいました。ご自身が十字架につけられる、その前の晩になさった祈りであります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります」。あなたはわたしの神です。エジプトからイスラエルをお救いになったあなたは、わたしを助けることもおできになるはずです。ですからどうか、できることなら、この十字架の杯をわたしから取りのけてください。死にたくないのです。「しかし、私の望みではなく、御心のままに」。主はそう祈られたのです。
その意味では、敢えてこのように言うことも許されるだろうと思います。主イエスもまた、地上の命にしがみついておられたのです。自分で自分を救いたい。少なくともその誘惑を知っておられたし、その悩みを知っておられたのです。したがって、あの金持ちが顔を曇らせ、悩みつつ、それでも財産を手放すことができなかった、その姿に主イエスは誰よりも深く同情してくださったし、主イエスご自身、死ぬほど苦しい中で、けれども地上の命にしがみつくのではなく、最後までただひとりの善いお方にしがみついておられたのです。「けれども、父よ、善い方はただひとり、あなただけです。わたしの願いではなく、あなたの御心が、あなたの善い御心だけが行われますように」。
相変わらず、地上のさまざまな財産にしがみついているのが私どもであるのかもしれません。どんなに財産を積んだって、命ひとつ救えないのをわかっていながら、それでも私どもはいろんなものから手を放すことができないのです。そこに、私どもの根源的な悩みがある。死の闇がある。けれどもそんな私どもの悲しみが、どんなに深い主の苦しみによって贖われているか、そのことだけは忘れてはならないのです。
しかし今朝は、このことについてさらに延々と言葉を重ねることはないと思います。今朝はこのように、聖餐の食卓が整えられています。「私は死ぬほど苦しい」と言われたお方のお体を噛み締め、その流された血を味わいながら、私どもも共に神に対する信仰を言い表したいと願います。「神おひとりのほかに善い者は誰もいない」。そうです、あなただけがわたしの神です。私どもが今この場所に立つために、主の苦しみがあり、悩みがあったことを、心に刻み直したいと思います。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、まだ私どもには、ひとつ欠けていることがあるのでしょうか。どんなことがあっても、あなたのみ子イエスに従って行こうという熱心に、まだ欠けるところがあるのでしょうか。もしそうだとしたら、本当に申し訳ないことです。あの金持ちの男を見つめ、これを愛された主のまなざしを思いながら、今私どもはどこにも立ち去ることなく、あなたの愛の中に立ちたいと願います。神よ、あなた以外に善い方はいません。あなただけが、わたしの神、私どもの神です。その恵みを共に味わう聖餐の食卓を心より感謝し、主のみ名によって祈ります。アーメン