この幼子のように
マルコによる福音書 第10章13-26節
川崎 公平
主日礼拝
■ベツレヘムの馬小屋に、ひとりの赤ちゃんが生まれました。天使は羊飼いたちに、その赤ちゃんの誕生のことを伝えて、「これがあなたがたへのしるしである」と言いました。
「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」。
「このしるしを見なさい」と、天使は私どもにも告げてくれていると思います。私どもの住んでいるこの世界も、決して明るい場所ではありません。羊飼いたちが徹夜で羊の群れの番をしていた、その夜の暗さも相当に暗かったに違いありませんが、私どもが今生きているこの世界の暗さは、それに輪をかけて暗くなっているかもしれません。そんな私どもに、今も天使が告げてくれます。「私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる」。その喜びのしるしは、これである。「あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける」だろう。今ここにおられる皆さんも、その乳飲み子を、魂の目で見ておられるでしょう。それが、神があなたに与えてくださるしるしなのだから、それをしっかりと見なさい。――たいへん不思議な神のお告げであると思います。
「飼い葉桶」と書いてあります。つまり、家畜の餌箱です。よく考えると、そんなところに生まれたばかりの赤ちゃんが寝かされているというのは、ちょっとショッキングな情景であるかもしれません。別にこの赤ちゃんに後光が射していたわけではありません。見たこともないような立派な顔をしていらっしゃったわけでもないだろうと思います。そんな乳飲み子を天使は指差して、「このしるしを見なさい」。「これがあなたがたへのしるしである」。今も変わることなく、「すべての民に与えられる大きな喜び」が、この幼子イエスの姿の内に、〈しるし〉として表されているということは、やっぱり不思議なことだと思います。
クリスマスの礼拝をしております。飼い葉桶に寝ている赤ちゃんを指さして、「これが神だ」と教会は信じているのです。「この赤ちゃんが、わたしの救い主なのだ。この赤ちゃんが、世界の救い主なのだ」と信じるのです。何となくセンチメンタルな気持ちになって、そんなことを考えるくらいなら、できるかもしれません。けれども冷静に考えてみると、それはやっぱり、いくら何でも……こんな荒唐無稽な話を信じているわれわれは頭がおかしい、という話をしたいわけではありません。神の準備された救いの道筋は人知をはるかに越えるもので、その不思議さを改めてよく考えなければならないと思うのです。
■「この方こそ主メシアである」と書いてあります。メシアというのは、ふだん私どもが使い慣れている言葉ではキリストということですが、「救い主」と言い換えてもよいのです。そして事実、私どもは救われなければならない存在なのです。「神よ、わたしを救ってください。この悲惨から、この悩みから、この絶望から、神よ、わたしたちを救い出してください」。けれどもそういうときに、もしも本当に私どもの目の前に天使が現われて同じことを言ってくれたら、どうでしょうか。「恐れるな。私は、あなたのための大きな喜びを告げる。あなたのためにも、救い主がお生まれになった。この方が、あなたを救ってくださる」。「ええ? 本当ですか? どんなお方ですか?」「あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」。いや、でも、こんな小さな赤ちゃん、いったい何の役に立つだろうか。どうも親たちも大して立派な人たちではないようだ。あのー、神さま、もう少し立派で強そうな救い主をよこしてくださることは可能でしょうか?
ひと口に救い主と言うのですが、実際のところ、私どもはいろんな救いを求めているのです。毎日戦争のニュースを聞かされて、神さま、本当につらいです。何の罪もない子どもたちが犠牲になっています。どうか神さま、この世界を救ってください。と、いうときに、いったい誰が飼い葉桶の中に寝ている赤ちゃんに助けを求めるでしょうか。いろんなときに、いろんな局面で、私どもは神の救いを求めることがあると思います。病気になった。経済的にピンチだ。つらい、苦しい、自分はひとりぼっちだ。そういうときに、いったい誰が赤ちゃんに救いを求めるでしょうか。どうしても愛に生きることができない。どうして自分はこんなにだめなんだろう。もうこんな自分は嫌だ。何とかして自分を変えたい、というときに、いったい誰が自分の足で立つこともできない赤ん坊に救いを求めるでしょうか。
もちろんイエス・キリストというお方は、いつまでも赤ちゃんのままであったわけではありません。福音書を読みますと、このお方が大人になられてから、どんなにすばらしい奇跡をなさったか、どんなに力ある言葉を語られたか、何よりこのお方がどんなにすばらしい愛の人であったか、それを十分に学ぶことができるのですけれども、そこで間違ってはいけないことは、「あなたがたは、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。これが、あなたがたへのしるしなのだ」という天使の言葉には何の間違いもないということです。つまり、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんのイエスさまは、まだ救い主として全然不十分だけれども、大人になってめきめきと力をつけて、そこでようやく救い主としての本領を発揮された、ということではないのです。「あなたがたに与えられるしるしは、これである。この乳飲み子を見なさい。ベツレヘムの飼い葉桶に寝ている、この幼子を見なさい。これこそが、あなたがたに与えられる救いのしるしなのだ」。そしてこのイエスというお方は、誤解を恐れずに言えば、どんなときにも最後まで、幼子としての生き方を貫かれました。
■日曜日の礼拝において、マルコによる福音書を1年以上読み続けているのですが、このクリスマスの礼拝において、たまたま第10章の13節以下を読むことになりました。主イエスのところに、人びとが子どもたちを連れて来て、できればイエスさまに触れていただきたいと願ったというのですが、弟子たちはこの人びとを叱りました。こらこら、子どもが来る場所じゃないよ。先生はお忙しいんだ。さあ、帰った、帰った。そうしたら、これは福音書の中でもきわめて珍しい出来事ですが、主イエスはたいへんお怒りになったと書いてあります。「何てことをするんだ。何もわかっていないのはお前たちのほうだ。神の国は、子どものものであって、大人のものではない」。そしてこう言われました。「よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15節)。
神の国は――言い換えれば、神の救いは、ということです――大人にも子どもにも分け隔てなく開かれていますよ、とはおっしゃいませんでした。神の国は、子どものもの。神の救いも子どものもの。大人は入れないんだ。だから、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。非常に単純明快な、だからこそ大人であるわれわれを途方に暮れさせる教えだと思います。一度大人になった者は、もう二度と子どもになることはできないと思うからです。
ところで、非常に単純明快な言葉だと申しましたが、実はひとつ語学的に難しい問題があります。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ」。ところがこの文章には、文法的に言ってふたつの読み方の可能性があるのです。ひとつは、「子ども」を主語として読む読み方です。「子どもが神の国を受け入れるように、あなたも子どものようになって、神の国を受け入れなさい」。こちらのほうが常識的な解釈かもしれません。
けれどももうひとつの読み方の可能性があって、「子ども」を目的語として読むのです。「子どもを受け入れるように、神の国を受け入れなさい」。子どもを受け入れることと、神の国を受け入れることは同じだ。あなたが神の国を受け入れるかどうか、それはあなたが子どもを受け入れるかどうか、そこにかかっている。それはこの文脈で言えば、弟子たちは子どもたちを受け入れなかった。ほら、帰った、帰った、と言って子どもたちを追い払った。それを見て主イエスは激しく憤り、「いいか。神の国を受け入れることは、子どもを受け入れることと同じなんだよ」。この後者の読み方のほうが正しいかもしれません。今日は第10章を読みましたが、その前の第9章の37節にも、「子どもを受け入れなさい」という主イエスの教えがありました。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」。そこでも、子どもを受け入れることと、私イエスを受け入れることは同じだとおっしゃったのです。
そこで話はもう一度最初に戻るのです。「子どもを受け入れるように、神の国を受け入れなさい」。ところが、その「子どもを受け入れる」ということが、私どもとっていちばん難しいのです。飼い葉桶の乳飲み子を救い主として受け入れるということが、いったい私どもにとってどういうことを意味するか、よく考えてみればよいのです。戦争があれば、武力を求めるでしょう。貧しくなれば、お金を求めるでしょう。そしてそういう政治を力強く推し進めて、どんどん国を強くしてくれる、領土を広げてくれる、自分たちの生活を豊かにしてくれる、そういう力ある政治家が現われたら、私どもだってわりと簡単に「ハイル・ヒトラー」などと叫び始めるかもしれません。そしてそういうときに、私どもは絶対に、飼い葉桶に寝ている乳飲み子なんかに自分の命を預けようとは思わないのです。そういう根性を持った私どもの造っている世界が、今事実として、どんどん、暗くなっているではありませんか。
ところがそんな世界を神が顧みてくださって、この世界をどうにかして救わなければならないと神がお考えになって、そうして救いのしるしを与えてくださったのが、飼い葉桶に生まれた幼子イエスです。そこに神がともしてくださった救いの光は、あまりにも静かで、あまりにもささやかで、誰の目にも留まらないほどの小さな光でしたが、それが今なお二千年の時を越えて、私どもを慰めているのです。
■飼い葉桶にお生まれになったお方は、先ほども申しましたように、そのご生涯を通して、幼子としての生き方を貫かれました。赤ちゃんというのは、この世でいちばん弱い存在です。親に愛されて、抱っこされて、守られていなければ、生きていくことのできない存在です。まさしくそういう存在として、神の御子イエスはお生まれになりました。この世的には、いちばん貧しい場所にお生まれになったのです。お金もない、暖かい部屋もない、ヘロデのような王がこの幼子を殺そうとやって来たとしても、イエスさまには何の武装手段もなかったのですが、けれどもこの乳飲み子は神に愛されておりました。父なる神の愛だけが、幼子イエスの砦でした。それが、幼子という言葉の意味です。そしてこのお方は、そのご生涯を通して、幼子としての生き方を貫かれました。神の愛以外の何ものにも頼らない、そういう主イエスの姿を、福音書は生き生きと証してくれます。
福音書の終わりの方に、このようなエピソードがあります。このお方は十字架という方法で処刑されるのですが、その前に武器を持った大勢の人びとに取り囲まれ、逮捕されるということがありました。そのとき、主イエスのそばにいた弟子のひとりが剣を振り回して抵抗したというのですが、主イエスはそれをいさめて、「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました。剣を捨てて、どうなったのか。そのまま十字架につけられて殺されておしまいになりました。そこにも、あの天使の声が響き続けていると思います。「これが、あなたがたへのしるしである。このお方が、あなたを救うのだ」。
主イエスが十字架につけられ、最後に息を引き取られた、その間際に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたことは、わりと有名な話だと思います。この主イエスの最期については、多くの人が首をかしげました。なぜ神の御子ともあろうお方が、こんな情けない死にざまを晒したか。このような疑問は至極当然だとも言えますが、その秘密もまた、このお方が最後まで幼子であり続けたということでしかないのです。「お父さん、助けて。お父さん、見捨てないで」。その意味では、この主イエスの最後の叫びは、神のひとり子として不適当であるどころか、話はまったく逆であって、このお方がまさしく幼子だったからこそ、父なる神のひとり子だったからこそ、このような叫びが生まれたのです。「お父さん、助けて」。
そのイエスを、父なる神は死人の中から復活させられました。その事実を知って、初めて私どもは、飼い葉桶に寝ている乳飲み子の意味を理解できるのだと思います。こんなに小さな赤ちゃんが、しかもこんな餌箱の中に……けれども、この赤ちゃんは、父なる神に愛されております。守られております。神の愛だけが、幼子イエスの砦です。私どもは、違うのでしょうか。そんなことは、絶対にありません。私どもも等しく、神に愛された神の子どもです。そうであれば、このクリスマスに、もう一度神の親心を思い起こさなければならないと思います。必要なら、本当に叫んでみてもよいかもしれません。「わたしの神よ、わたしの神よ、わたしを見捨てないでください。この世界を、どうか見捨てないでください」。その叫びを、神は決して聞き逃したりしない。神は私どもの父です。ここに集められた皆さん、ひとりひとりが、神に愛された幼子にほかなりません。クリスマスというのは、この神の親心が鮮やかに現れた出来事であり、その神の愛の中で、今私どもも、幼子の心を回復させていただきたいと心から願います。お祈りをいたします。
飼い葉桶に寝ている乳飲み子イエスのお姿を、心に刻みます。そのお方が、幼子たちをひとりひとり抱き寄せて、手を置いて祝福してくださったお姿を思い、わが身の幸いを思います。救われなければならないこの世界であり、この私であることを、日々深い痛みをもって思い知らされています。けれども、どんなことがあっても、あなたは私どもの父です。あなたに愛されているこの世界であり、この私であることを、感謝をもって受け入れさせてください。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン