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偉くなることの易しさと難しさ

2023年11月26日

マルコによる福音書 第9章30-41節
川崎 公平

主日礼拝

■マルコによる福音書第9章の30節から41節まで、三つの段落を通して読みました。その三つの段落の内容はずいぶん違っていて、互いに何の関係もないように見えるかもしれません。しかし福音書を書いたマルコは、互いに何の関係もないことを、とにかく知っていることは全部書いておこう、なんていい加減な態度ではなかったと思います。したがって私どもも、今朝この三つの段落を、ひと続きの出来事として読んでいきたいと思います。

■その最初に記されるのは、〈第二回受難・復活予告〉と呼ばれるものです。私どもが用いている聖書の小見出しには「再び自分の死と復活を予告する」とあります。「再び」ということは、つまり1回目があったわけで、これを機に3回の受難予告の箇所を覚えてしまってもよいかもしれません。第8章31節、第9章31節、そして第10章も31節だったら覚えやすいのですが、第10章32節以下です。

多くの人が推測することは、おそらく実際には必ずしも3回ではなかっただろう、むしろ主イエスは絶えずこのことをお語りになったのではないか、ということです。実際の回数が3回だったか、5回か、10回か、それは確かめるすべがありませんけれども、〈3〉というのは聖書の中で象徴的な意味を持ちます。〈完全数〉などと呼ばれることもありますが、主イエスはご自分の十字架と復活について完全に予告なさった。これが完全に、神のみ旨であることを明らかになさったということです。

もうひとつ興味深いのは、その受難・復活予告に対する弟子たちの反応です。まず第1回の第8章31節以下では、ペトロが主イエスを人のいないところに呼び出して、「さっきのは何ですか。ああいうことを言われては困ります」と主イエスに注意しようとしたら、逆に「お前はサタンだ」とたいへん厳しいことを言われたと書いてあります。それに対して今日の箇所には、「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。さらに興味深いのは第10章の32節で、第3回の受難予告に先立ってこう書いてあります。

さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。……

先頭に立っておられるのはいつも主イエスです。十字架を目指して、少しもぶれることなく歩いて行かれる主のお姿を見て、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」というのですが、それと似たことを今日の箇所では、「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」というのです。

きっと、私どもも同じだと思うのです。主イエスよ、なぜあなたが殺されなければならないのですか。いったい誰が、あなたを死に渡すのですか。……きっと私どもは、生涯をかけて、そのことを問い続けるのです。しかもその問いには、いつもどこか怖さが伴うものだと思うのです。なぜかと言うと、主の十字架を問うことは、ただちに自分の罪と向き合うことにならざるを得ないからです。

もちろん、ここに出てくる弟子たちは、そこまで具体的に、自分の罪とか何とか、深いことを考えたわけではなかったでしょう。主イエスの受難予告の言葉は、ひたすら謎でしかなかったし、それだけに、主の並々ならぬ雰囲気に圧倒されるものがあったのだと思います。

問題は、むしろ私ども自身です。私どもも今、礼拝のたびに、このお方の十字架の前に立つのです。今日は聖餐を祝うわけではありませんが、いつでも私どもの礼拝堂の真ん中に置かれている聖餐のテーブルは、主の死の記念であります。「主イエスよ、なぜあなたは死ななければならなかったのですか。その理由は何ですか」。本当は怖くて尋ねられないほどの問いの前に、いつも私どもはここで立たされるのだと思います。

■この第2回の受難予告の記事に続けて、マルコはたいへん思いがけない話を書きます。まるで主イエスの十字架と復活とは何の関係もないようです。本当はいちばん関係のあることが書いてあるのですが、そのことに気付きにくいかもしれません。

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。道々、誰がいちばん偉いかと言い合っていたからである(33、34節)。

これは、よく考えると、たいへん強烈な話です。主イエスがご自分の死と復活についてはっきりとお語りになったとき、弟子たちはさっぱりその意味がわからなかっただけでなく、ただただその事柄が怖くて質問することもできなかったというのですが、そのあと弟子たちが道々何を話し合っていたかというと、「自分たちの中でいちばん偉いのは誰か」。俺が偉い、いや俺の方がもっと偉い、いやいや俺の方がもっともっと偉い、とやり合っていたというのです。「今来た道で、あなたがたが何を話していたのか、言ってごらん」。しかし彼らは答えることができませんでした。記憶にないから答えなかったのではありません。わかっているのです。こういう議論が、神の前で決してふさわしい話題でないことを。わかっていながら、それでも今なお私どもがいちばん関心を持っていることは、「誰がいちばん偉いか」、それはもっと言えば、「自分は偉いか、偉くないか」ということだと思うのです。

最初から繰り返しておりますように、これは今朝読んだ最初の段落の、主イエスの受難予告とは何の関係もないようです。事実、本当に、このふたつの段落の間には何の関係もないのかもしれません。そしてまさしく、その関係のなさが、私どもの生活の実情に即しているかもしれません。日曜日の朝、礼拝に行けば、必ず牧師がキリストの十字架の話をするのです。それを聞いて喜んだり感謝したり、悔い改めたり自分の罪の深さに打ちひしがれたり、そういう礼拝から出発する私どもの生活の中で、結局私どもがいちばん深い関心を持っていることは、「自分は偉いか、偉くないか」。偉いとか偉くないとか言われても、あまりピンとこないかもしれませんが、人に認められたいということです。悪口を言われたくないのです。軽蔑されたくないのです。たとえ噓であっても「すごいね」と言われたいのです。いちばん気になっていることです。そのことに比べたら、イエスさまが十字架につけられたとか復活されたとか、わりとどうでもいいんです、われわれ罪人にとっては。まさにそこに、人間のみじめさは極まるのではないでしょうか。国と国との戦争だって、突き詰めれば「誰がいちばん偉いか」という言い合いに尽きるのではないかと思うのです。しかもそれを、誰も解決することができないのです。

そういう私どもの罪のために、主イエスは十字架につけられたのだと思うのです。そのことをこの礼拝の場所でも何度も教えられていると思うのです。けれども私どもが自分の偉さにこだわるとき、やっぱり意味がわからなくなります。まさしくそこで、私どもはこの弟子たちと同じ場所に立ちます。主イエスの十字架と復活について、3回どころか何百回聞かされても、やっぱり意味がわからないのです。自分が偉いか偉くないか、ということの方がずっと大事だからです。「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」。そういう私どもが、それでも改めて、「主イエスよ、なぜあなたは十字架につけられたのですか」と尋ねることは、きっと怖いことであるに違いないのです。

■そこで、その次の35節以下であります。弟子たちが黙っていても、もちろん主イエスは彼らの心の内をすべてご存じです。私どもの心の内も、すべてご存じなのです。その上で、「イエスは座って、十二人を呼び寄せて言われた」と書いてあります。この「座って」というのは、教師が何かを教えるときの正式な姿勢です。今から大事なことを言うから、よく聞きなさい。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。しかしこれは、何だかわかったようなわからないような印象が残るかもしれません。いかにもありきたりな、どこかのマナー講師が「会食の時にはまず下座に座りなさい」などと言いそうなことを、主イエスがわざわざ正式に教えてくださるわけがないのです。

「すべての人の後になりなさい、すべての人に仕える者になりなさい」。そのことをなお具体的に教えるために、主イエスはひとりの小さな子どもをお呼びになり、これをぎゅっと抱き寄せて、こう言われました。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。

簡単に言えば、「子どもを受け入れなさい」という話です。けれどもこの「子ども」というものの言い方は、もしかすると、二千年前の聖書の時代と現代とではニュアンスが違うかもしれません。子どもはかわいいから、そのかわいい子どもをかわいがりなさい、という意味ではないのです。ここでの「子ども」というのは、価値がないという意味です。何の役にも立たない。何も生み出さない。その意味で「いちばん偉くない者を、受け入れなさい」という話です。

そのことを明瞭にするために、ある聖書の学者がこういう想像をしています。ここではたまたま子どもがいたから、主イエスは「子どもを受け入れなさい」と言われたのだろう。しかしもし近くに重い皮膚病の人がいたら、つまり、誰もが忌み嫌い、触れても近づいてもいけない、そういう皮膚病の人を、きっと主イエスはぎゅっと抱き寄せて、「私の名のためにこのひとりの病人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」とおっしゃっただろう。あるいは、もし近くにたまたま皆に嫌われている徴税人がいたら、その徴税人を呼び寄せ、これを抱きしめて、「私の名のためにこの徴税人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」とおっしゃっただろう。あるいはまた、たまたまそこに私のいちばん嫌いな人がいたとしたら、きっと主イエスは、私のいちばん嫌いなその人を私の前に立たせ、その人を抱き寄せながら、「私の名のためにこの人を受け入れることができるか。私イエスを受け入れるということは、そういうことだよ。そして、私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」。つまり、主イエスをお遣わしになった父なる神の思いを受け止めることになるのだ。

けれども、これがまさしく私どもにとっていちばん苦手なことなのです。繰り返しますが、主イエスは「子どもはかわいいね」なんてことを言われたのではないのです。「いちばん小さな者を受け入れなさい。いちばん偉くない人を受け入れなさい。あなたのいちばん嫌いな人を、いちばん軽蔑している人を、私の名のゆえに受け入れなさい」。それがなぜ難しいかというと、私どもがいつまでたっても「誰が偉いか。自分は偉いか」というこだわりを捨てることができないからです。

■主イエスが十字架につけられたのは、まさしくこのような私どもの罪のためでしかありませんでした。もしも主イエスが、私の好きな人だけを大事にする人であったら、きっと十字架につけられるなんてことはなかったでしょう。幸せな老後を楽しまれたに違いない。けれども、なぜ主イエスが人びとに憎まれ、十字架で殺されたかというと、重い皮膚病の人を抱きしめるようなことをされたからです。徴税人と一緒に飲み食いを楽しまれたからです。そして主イエスは、今私どものためにも、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るようにと言われるのです。「神さま、わたしに罪を犯した人がいます。わたしはすごく傷つきました。たぶん、一生その傷は癒えません。その人をわたしは赦しますから、どうか、まずわたしの罪を赦してください」。そんな祈りを教えるようなお方であったからこそ、主イエス・キリストは十字架につけられたのです。誰もこのお方を受け入れませんでした。それはすなわち、誰もキリストをお遣わしになった神を受け入れなかったということです。

ところが、それで終わりではありませんでした。主イエスはお甦りになりました。お甦りの主の前に立たされて、もうそこから逃げることができなくなって、ようやく弟子たちは悟りました。「わたしは、このお方に赦されている。愛されている。わたしは、このお方に受け入れられている」。あそこで主イエスに抱き上げられていた小さな子どもというのは、実はあれがわたしの姿だったのだ。

誰がいちばん偉いか。誰がわたしをほめてくれるか、誰がわたしを嫌っているか。何千回と十字架の話を聞かされても、性懲りもなく自分の偉さだけにこだわり続けているのが、私ども罪人のみじめさだと思うのです。時に夜も眠れなくなるほどに、このことで私どもは悩むのです。けれどもそのときに、主イエスに抱き寄せられたひとりの子どもの姿を思い起こすことができたら。「あれが、わたしだ」と気づくことができたなら、私どもは人間としてもう一度立ち上がることができます。自分を受け入れることができます。主イエスを受け入れることができます。主イエスをお遣わしになった父なる神の思いを、感謝して受け入れることができるようになるし、その感謝の中で、主イエスに同じように抱き寄せられている隣人のことをも喜んで受け入れるようになるのです。偉い自分が、偉くない隣人を受け入れてやるのではありません。偉くない自分が、でもあの人は偉いからしょうがない、受け入れざるを得ない、という話でもないのです。神に赦していただいた私が、ただ主イエスの名のゆえに、いちばん小さな者と一緒に、神の赦しのもとに立つのです。

■最後の段落、38節以下には、ヨハネという弟子が出てきます。主イエスに従う十二弟子のひとりです。しかしこれこそ、これまでの話と何の関係があるかと思われたかもしれません。このヨハネという弟子が主イエスに、おそらく少し自慢げにこんなことを言いました。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました」。具体的な状況はよくわかりませんが、言いたいことはよくわかります。主イエスのお名前を使って悪霊を追い出している人がいる。困っている人たちを助けている人がいる。ところがその人は「私たちに従わない」というのです。もしイエスが神の子キリストであるならば、それに仕えるわれわれ十二弟子は世界でいちばん偉いはずなのに、なぜこの人はわれわれの言うことを聞かないのか。けしからん!

ずいぶんむちゃくちゃな話です。いったい、「私たちに従わない」人はイエスさまの名前で善いことをしたらだめ、なんていう規則でもあるのでしょうか。客観的に見れば、こんなでたらめな話はないのですが、当のヨハネにとっては絶対に許すことができませんでした。それは、自分たちの偉さを否定されることだとしか思えなかったからです。

主イエスは、至極当然の理屈でヨハネを戒められました。「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」(39、40節)。それがどうして前の段落の話につながるかというと、ヨハネがいちばん癪に障った人を、主イエスは受け入れておられるのです。ヨハネは、この主イエスの説明に、すぐには納得できなかったと思います。なぜですか。なぜあんな人がわれわれの味方ですか。主イエスよ、なぜあなたはあんな人のことを受け入れてしまわれるのですか。

けれども、この後ほどなくして、主イエスは十字架につけられます。ヨハネをはじめとする十二人の弟子たちは、皆主イエスを裏切って逃げてしまいます。何となくイエスの名を使って悪霊を追い出していたあの人たちと、主イエスを見捨てて逃げた自分たちと、果たしてどっちが偉いのか。

■そこで最後に、41節であります。「よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。少なくとも私どもの使っている聖書の理解に従うならば、この41節はその前のヨハネと主イエスとのやり取りとの関連で語られているということになります。そうすると、どういうことになるでしょうか。このヨハネのためにも、一杯の水を飲ませてくれた人がいたとするならば、それはいったい、どういう状況の話でしょうか。

そこでもうひとつ参照しておきたい記事があります。第10章の35節以下に、それこそ第3回の受難予告のすぐあとに記されていることですが、ここにまたヨハネが出てきます。ヨハネがお兄さんのヤコブとふたりで一緒に、主イエスに願い事をしました。「あなたの最後の栄光の時、わたしたち兄弟ふたりをあなたの右と左に座らせてください」。要するに、われわれふたりを宇宙でいちばん偉くしてください、と言ったのです。このことをあとで聞いた他の十人の弟子たちは、非常に腹を立てたというのですが、目糞が鼻糞を笑っているような話です。ところが主イエスは、このヨハネたちの申し出を否定も肯定もなさらない。ただ主イエスはふたりに言われました。「わたしの右と左に座るということはね、わたしの苦しみを、あなたがたも一緒に担うということなんだよ」。事実、そうなりました。ヨハネの兄のヤコブは、十二使徒の中で最初の殉教者になりました。ヨハネも殉教はしなかったかもしれませんが、やはり迫害を受けなければなりませんでした。

そんなときに、ヨハネに一杯の水を飲ませてくれる人がいたかもしれません。その人というのは、もちろんヨハネと一緒に迫害に耐えるような立場にはないのです。キリスト者でもないかもしれないし、ただイエスの名を利用して悪霊を追い出しているような人かもしれない。昔のヨハネだったら、「なんだ、これっぽっちの水、お前なんか地獄に落ちろ」としか思わなかったかもしれない。ところが主イエスが言われることは、「よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は」、私が必ず、その人に報いる。私は、この一杯の水のゆえに、その人を最大限に重んじたいのだ。

そのことを知るときに、私どもにも、どんなに広やかな心が与えられることでしょうか。主イエスは、私どもがいちばん遠ざけたい人を受け入れておられるのです。その主イエスを受け入れるのです。ただそれだけで、人間は救われる。この世界も救われるのです。逆に言えば、この広やかな心を与えられない限り、人間は決して本当の幸いに立つこともできないのです。

■今私どもも、この弟子たちと共に、この福音書の記事の出来事のすべてを、心から感謝して受け止めたいと思います。私どもはひとりの例外もなく、神に愛された神の子どもです。だがしかし、こんな私どもを受け入れるために、神の御子イエスがどんなに小さくならなければならなかったか。主の十字架の前で、偽りの偉さを捨てて、ただ神の愛の中に共に立ちたいと願います。お祈りをいたします。

 

誰がいちばん偉いかと論じ合っていた弟子たちが主のみ前に立たされたように、今私どももみ前に立ちます。主の十字架の前に立ちながら、その意味を深く考えさせてください。小さな子どもを抱き寄せ、これを慈しんでくださった主のまなざしを思います。それが私のための主の愛であったことを思わせてください。今ここに立つ教会は、いかなる人間の偉さによって立つものでもありません。ただ主に愛され、重んじられている、この事実に根ざすこの教会であることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン