1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 主の名によって行って感謝して

主の名によって行って感謝して

2023年11月19日

コロサイの信徒への手紙 第3章12-17節
中村 慎太

主日礼拝

救われた者はどう変わるか、聖書から聴きました。

それは、一時だけに影響するのではない、いつも、変えられえる。

私たちもそう。救われてから、どうなるか。

問い、礼拝とは、いつささげるものでしょうか。

違う角度の質問でもいいでしょう。礼拝はささげる日を制限できるか。

このように問われたら、皆さんはなんと答えますか。

まず、思いつくのは、主の日の礼拝、主日礼拝と呼ばれるものです。つまり、今私たちが今ささげている、日曜の礼拝です。主イエスが復活なさった日曜こそ、私たちの主の日です。そして、この日こそ、私たちの安息の日であり、皆で集められて、礼拝をささげる日です。私たちの信仰の生活は、その主の日から始まります。

しかし同時に、礼拝は主の日に制限されるものでもありません。

教会によっては、週日に礼拝をささげることもあります。

さらに言えば、私たちが神さまにささげる礼拝行為は、集まってみんなでささげる礼拝からはじまり、週日も続きます。

私たちは礼拝と言われるとつい日曜の礼拝だけを考えてしまう。教会の歴史においても、主の日の礼拝を大切に整える必要があったことはある。

しかし、礼拝という言葉を吟味すると、それこそ旧約の時代から考えるだけでも、その深く多様な意味を見出すことになります。

礼拝の根底にあるものは、神さまの喜んでくださることであり、私たちがその神さまの喜びのために仕えることです。礼拝は、サービス。奉仕。神さまがまず奉仕してくださった。そして、私たちが奉仕すること。神奉仕は、日曜だけにとどまらない。礼拝とは、そのようにして私たち自身をささげる生き方とも言えることなのです。

日々聖書からみ言葉をきき、そして賛美をささげ、祈る生活も、神さまが喜ばれる、礼拝の生活なのです。

かつての私自身、実は礼拝を制限して考えていたところがあります。大学生の頃、主の日の礼拝を重んじ、主の日を聖別したいと願うがゆえに、日曜だけ信仰の歩みを重んじていたことがありました。礼拝さえ重んじていたら、あとは別だ、と。

それが、徐々に変えられていきました。

今日私たちが聴いたコロサイの信徒への手紙の言葉も、イエスさまに救われた者はどう生きるか、その礼拝の生活を伝えている言葉です。伝道者パウロが、コロサイ教会の皆に、クリスチャンとしての生き方を伝えていました。

そこにあるのは、主日礼拝はこういう式順で、とかそういう主日礼拝の規定とかではありませんでした。むしろ、主の日に皆で集まり、礼拝をささげたキリスト者の群れが、どんな信仰を心に携えながら、日々生きていくかを、確認していく言葉たちでした。

まずそこにあるのは、「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、」という言葉たちです。それは、大前提として、神さまが私たちを選び、聖別し、愛してくださったということです。イエスさまがその命をささげて十字架にお架かりになって、復活して私たちに新しい命を差し出してくださるまでしたのです。その福音を聴き、伝えられて、私たちは新しい生き方を始めている。

実は、コロサイの信徒への手紙が、その救われたという大前提を常に提示しつつ、下記進められています。第2章の各所。

そして、信仰者の生き方が伝えられています。パウロが信仰者、クリスチャンとしての生き方と心の在り方とも言えるものを伝えています。それは教会の仲間たちとの間だけのことではありません。教会にまだ集っていない者たちの前にあっても、この世の基準に従わずに生きることが伝えられています。

それなりに、すぐに自分の在り方とするのは難しく感じる事柄が書かれています。

しかし、そこにはかならず、主のことを思い出させる言葉が込められています。

まず主から選ばれ、聖別され、愛されている。

主が赦してくださったように。

愛を身に着ける。与えられた衣を纏うようにして生きる。

キリストの平和が支配する。

そして、神さまに向かって賛美をささげる。

主の名によって、あらゆる行いをする。

in。

私たちの生き方はそのように変えられたのです。

主の日に教会で礼拝をささげた後、教会の仲間は世に出ます。そして、一人一人が神さまから与えられた賜物を生かし、その召しを果たしていく。

3章の奴隷についての言葉。

キリストの僕と自らを称したパウロ。

その一つ一つを、私たちは神さまを思いつつしていくことができるのです。

私たちはそのようにして、日々礼拝をささげていく群れ。

私自身が、礼拝について、さらに吟味したきっかけは、コロナ感染症だった。

そこで礼拝、とは何かさらに改めて知らされた。

神さまと親しく生きる歩みとはどういうものか、教えられた。

イエスさまがその先にいる。

いつだって、含めて父なる神さまに祈りをささげて、すべてその父なる神さまを思いながら生きて下さっていた。

この方の後に従って、私たちも生きていく。

完全にはできない。でも私たちを愛し、救ってくださったイエスさまに、親しく向き合いながら生きていく。これこそ、インマヌエルの神としても私たちと一緒にいてくださる神さまへの応答です。

主の祝福のうちに、新しい週を進みましょう。