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信じます。信仰のない私をお助けください

2023年11月12日

マルコによる福音書 第9章8-11節
川崎 公平

主日礼拝

■「信じます。信仰のない私をお助けください」と、この父親は叫びました。きっと無数の人たちが、この父親の叫びに、自分の心を重ね合わせてきたことだろうと思います。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。私どもも、信じたいのです。助けてほしいから、そして助けは神からしか来ないことを知っているから、どうしたって信じたいのです。けれども問題は、自分の内には、もう信じる力さえ残っていないということです。少なくともここに出てくる父親には、とうの昔に信仰がなくなっていました。十分すぎるほどに苦しんだからです。苦しみ抜いた結果、何も信じることができなくなったのです。だからこそ、助けてほしいのです。そして助けは神からしか来ないから、「信じます。信仰のない私をお助けください」と言うほかないのです。

たいへん不思議な深みを持つ祈りであると思います。それがまた、今ここに立つ私どもの祈りになることを信じて、時間の許される限り、この福音書の記事を読み解いていきたいと思います。

■この聖書の記事を読みまして、何と言っても心を打たれることは、この父親の苦悩です。かわいい、かわいい息子であったに違いない。けれどもある時から、息子がまだ小さい時に、様子がおかしくなりました。ものが言えない。どうも耳が聞こえなくなっているようだ。それだけではありません。「霊がこの子を襲うと、所構わず引き倒すのです。すると、この子は泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまいます」(18節)。「霊は、イエスを見ると、すぐにその子に痙攣を起こさせた。その子は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った」(20節)。さらに、「霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました」とまで言います。

私自身、ひとりの父親として思うのですが、ここに書いてある事柄のひとつでも自分の息子の身に起こったら、果たして耐えられるだろうかと思います。この父親の苦悩は、並大抵のものではありません。しかもそれが、昨日今日の話ではないのです。私は昔、この聖書の記事に出てくる息子というのは、小さい子どもだろうと思い込んでいたことがありました。まだ小さな子どもが泡を吹いて転げ回っている姿を想像して、勝手に心を痛めていたのですが、聖書をよく読むと、それだけではありません。「いつからこうなったのか」という主イエスの質問に対して、父親は「幼い時からです」と答えていますから(21節)、今はもう幼くはないのです。もう何年も、もしかしたら10年、20年、あるいは30年、具体的な年数は分かりませんが、人間として耐えられるか耐えられないか、ぎりぎりの生活をこの親子はしていたのであります。「地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回り」、「霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました」。そのたびに、この父親は、自分も一緒に火の中、水の中に飛び込んで行ったと思います。それはどんな親でもそうすると思います。心も体も傷だらけになりながら、父親自身大声で叫びながら、「もう無理だ。息子を殺して、自分も死のう」。そう願ったことさえ、一度や二度ではなかったのではないかと思うのです。

■そしてそこで私は思うのです。この父親は、どんなに必死になって祈っただろうか。何年も、何十年も、この父親は、祈らなかったわけがないのです。ことに息子が泡を吹いたりがたがた震えて転げ回ったり、火の中、水の中に飛び込んでいく息子を必死で押さえつけながら、この父親は死に物狂いで祈り続けたと思います。一日たりとも、祈らなかった日はなかったと思います。けれどもそこで、この福音書の記事の全体を読んだ上で、改めて冷静に問わなければなりません。この父親の祈りは、本当の祈りになっていたでしょうか。「助けてください、わたしの神よ、助けてください。どうしてわたしたちをお見捨てになるのですか」。必死に祈る、この父親の心に信仰はあったでしょうか、なかったでしょうか。――「信仰のない私をお助けください」。――この福音書の記事を読む限り、この父親は、神なんか信じないで、その上で必死になって祈っていたと言わなければならないと思います。信じてもいない神に祈るというのは…・…これほど深い悲惨はないと思います。これほど深刻な孤独もないと思うのです。しかもこの父親は、信じることのできない神に祈るという、この究極の孤独の中で、何年も、あるいは何十年も祈り続けていたのではないかと、私は思うのです。

私ども自身、このようなみじめさを、よく知っているのではないでしょうか。何かがあれば、必死になって祈るのです。ところが祈りながら、いやむしろ祈れば祈るほど、自分の中には不信仰しかない。実は神なんか信じていない。そういうことが、きっと少なからずあるだろうと思うのです。「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」。「神さま、見捨てないでください、助けてください」と、祈りながら、いや、どうせ助けなんかどこからも来ないんじゃないか。だって、もう5年も10年も、結局助けなんかどこにも見つからないし。信じてもいない神に祈るというのは、しかし、これほど悲惨な、究極の孤独はほかにないのであります。

少し話が飛ぶようですが、28節以下には、後日談というか、エピローグのような短いやり取りが記録されています。弟子たちがひそかに主イエスに尋ねるのです。「すみません、今さらなんですが、ひとつ聞いていいですか。なぜわたしたちは、あの子を助けることができなかったのでしょうか」。主イエスの答えは弟子たちにたいへんな衝撃を与えるものでした。「いや、だって、お前たちは祈らなかったじゃないか」。「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」。けれどもお前たちは、ちっとも祈っていなかっただろう。いや、そんなことはないのです。弟子たちが祈らずに悪霊との対決を試みたなんて、そんなことは考えられません。絶対に祈っていたはずです。けれども主イエスのご覧になるところ、弟子たちの祈りは祈りになっていなかった。「あなたは、祈っていなかったじゃないか。祈っているポーズをしていただけで、本当の祈りをしていなかったじゃないか」。今、私どもも同じように、この主イエスの言葉の前に立たなければならないと思うのです。「あなたは、祈らなかったではないか」。たいへん厳しいことだと思います。

■けれども、この福音書の記事が鮮やかに伝えていることは……それは実に単純なことです。ここに、主イエスご自身が立っておられるということです。神なんか信じていない、その意味で不信仰な、だからこそ助けていただかなければならないこの父親の前に、神の御子ご自身が立っておられます。今、私どもも、このお方の前に立つのです。不信仰な私どもが、だからこそ助けていただかなければならない私どもが、今主イエスの前に立たせていただいているのです。そのとき、何が起こるでしょうか。そこでどうしても聴き取らなければならないのが、19節の主イエスの言葉であると思うのです。

「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子を私のところに連れて来なさい」。

最後の「その子を私のところに連れて来なさい」というのは、私どもの生活に即して言い換えれば「あなたの悩みを、わたしのところに持って来なさい」ということになるでしょう。「あなたの苦しみを、あなたの祈りを、ここに持って来なさい」。そしてそれは結局、「あなたの不信仰を、わたしのところに持ってきなさい」ということにもなるのではないでしょうか。私どもの不信仰を主イエスの足元に置くのです。そして、私どもも、この主イエスの嘆きの言葉を聞くのです。

「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。この言葉に従えば、主イエスは私どもに対して我慢しておられるということになります。きっとそうだろうと思います。私どもは、実にいろんなことで、主イエスのお心をお煩わせしていると思います。主イエスを悲しませたり、心配させたり、怒らせたり、嘆かせたり、他にもいろんな主イエスの思いを想像することができるかもしれませんが、ここで明らかになることは、私どもは主イエスに、我慢をさせてしまっている。しかもその我慢というのは、私どもの不信仰に対する我慢であったというのです。

私どもは、自分の信仰が完璧であるとは誰も思わないのです。人間なんだから、しょうがないじゃないか。むしろ多少は不信仰であった方が、よっぽど人間らしいとさえ思っているかもしれません。けれども、その私どもの不信仰に、主イエスがどんなに我慢しておられるか、そのことにちっとも気付かない、気づこうともしない。

■ところでこの「我慢」と訳されている言葉には、少し説明が必要かもしれません。「我慢」だけだと、誤解を招くかもしれない。なぜかと言うと、私どもがふつうに「我慢」という言葉を使うときには、既に愛が冷めていることが半ば前提になっているからです。「我慢」という日本語には、そういうニュアンスがあるでしょう。たとえば私が、「鎌倉雪ノ下教会の長老会には、本当に我慢しているんですよ」なんてことを言ったら、むしろ逆に、「ああ、あの牧師はもう教会を愛していないんだな」という意味にしかならないでしょう。「我慢」という言葉が出てきた時点で、既にその人のことを受け入れていないのです。けれどもここで福音書が用いている言葉はニュアンスが違っていて、「受け入れる」という意味をはっきりと持つ言葉です。伝道者パウロはこれと同じ言葉を用いて、「愛をもって互いに耐え忍びなさい」(エフェソの信徒への手紙第4章2節)と書きました。愛をもって、だからこそ受け入れるのです。当然そこには忍耐が伴う。受け入れるための忍耐です。

けれどもここで大切なことは、語学的な面から説明することもできるでしょうけれども、神が何をしてくださったか、主イエスご自身が、私どもを受け入れるために、このわたしを受け入れるために、何をしてくださったか、何に耐えてくださったか、そのことをよく考えなければならないと思うのです。

私どもは、自分自身でよくわかっておりますように、信仰がないのです。そしてよく、謙遜だか何だかよくわかりませんが、「わたしなんか本当に信仰の薄い者で」なんてことを口にしたりするのです。事実、そうなんでしょう。事実、私どもは信仰がないのでしょう。けれどもそれは、神にとって、これ以上赦せないことはないのではないでしょうか。人間同士のことを考えてみればよいのです。もし私が誰かに対して、「実はあなたのことなんか、全然信用していませんからね。あなたみたいな人を信じろったって、そりゃ無理ですよ」と、もしも私が誰かにそんなことを言ったら、言われたほうは絶対に私のことを赦さないでしょう。どんなに傷つくか。神は、私どもの不信仰に、どんなに傷ついておられるかと思うのです。傷つきながら、「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないか。どうやって、あなたのことを受け入れたらいいのか」と言いながら、「その子を私のところに連れて来なさい」。「あなたが不信仰でも何でもいいから、あなたの悩みを、ここに持って来なさい」。それでも、どんなことがあっても、私どもを受け入れようとなさるのです。

けれども聖書が明確に語ることは、私どもの不信仰が神を傷つけた、私どもの罪が神を傷つけた、その償いは、絶対にしないといけないということです。何もなしでチャラにはできない。この償いのために、私どもに代わって、主イエスご自身が傷つかなければならなかったというのです。私どもが神を信じない、神を受け入れないのであれば、神もまた、私どもを絶対にお赦しにならない。私どもを受け入れてはくださらない。当たり前の道理です。ところがその私どもの身代わりになって、主イエスご自身が神から捨てられなければなりませんでした。それが、キリストの十字架の意味です。

主イエス・キリストは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(第15章34節)と叫ばれました。言うまでもないことですが、主イエスのこの叫びの中に、不信仰が忍び込む隙はありませんでした。私どものような者とは違って、100パーセント神を信じ切って、あの詩編の祈りを叫ばれたのです。「神さま、神さまは、わたしの神さまですから、わたしをお見捨てになるなんて、あり得ませんよね?」 主イエスは今日読んだ箇所の最後のところで、「祈らなかったら、何も変わらないよ」と言われました。信仰のない祈りではだめなんです。信じて祈らないと。ところがここでは、その主イエスの信仰100パーセントの祈りが退けられるように、主イエスは十字架で死ななければなりませんでした。私どもの不信仰が、どんなに確かな主イエスの信仰によって支えられているか、どんなに確かな愛によって赦されているか、そのことに気付かされます。気づいたなら、私どもも、神を信じないわけにはいかないのであります。

■「信じます。信仰のない私をお助けください」。矛盾でも何でもありません。私どもは等しく、この父親の叫びを、自分自身の祈りにしないわけにはいかないのであります。「信仰のない私を」と申します。事実そうなのです。人前では信仰のあるふりをしたり、逆に「わたしの信仰なんて本当にだめで」と謙遜なふりをしたり、その意味でも私どもの信仰生活というのは実にでたらめなものでしかないかもしれません。けれども神の前に立つとき、「信仰のない私」であることを隠すことはできないし、そのわたしの不信仰のために、神がどんなに傷つかれたか、主の十字架の前で、私どもはこの神の痛みに触れるのです。けれども、私どもが主イエスの十字架の前で知ることは、それでも、どんなことをしてでも、神が私どもを受け入れようとしてくださったということです。その神の愛に触れたなら、私どもはどうしたって、「信じます」と言うほかないのです。思えば、あの父親も、主イエスの愛に触れたのだと思います。そこに生まれた、感謝と、また悔い改めの叫びであります。「信じます。信仰のないわたしですから、だからこそ、わたしを助けてください」。

主イエスはもちろん、この祈りに答えてくださいました。ただ願い事を聞いてやった、というレベルの話ではありません。罪人が、受け入れられたのです。私どもの話であります。そこで何が起こったかを記録しながら、マルコは27節にこう書きました。26節から続けて読んでみます。

すると、霊は叫び声を上げ、ひどく痙攣を起こさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

27節に、手を取って「起こされると」、「立ち上がった」と書いてあります。特にここを原文のギリシア語で読んでいると、どんなに鈍感な人でも気づくことがあります。ああ、主イエスのお甦りを表す言葉がふたつも出てくる。十字架につけられた主イエスを、けれども神が「起こされると」、「立ち上がった」。いずれも新約聖書が大切に用いた、復活を意味する表現です。そして主イエスが復活されたとき、それはまた、私どもの復活の約束にもなりました。この息子が手を取って起こされたように、私どももまた起き上がる。それは取りも直さず、神が私どもを受け入れてくださったということにほかなりません。神に愛された者として、神に受け入れられた者として、だからこそ今、私どもも、「信じます」と、ひとつの祈りをみ前にささげないわけには、いかないのであります。祈ります。

 

わたしたちも、あなたを信じます。信仰のない私どもですが、あなたがそんな私どもを受け入れ、死んだような私どもの手を取ってくださるのであれば、もうあなたを信じないなんてことは不可能です。今、心から悔い改めつつ、あなたに愛された者にふさわしく立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン