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イエス・キリストの教会

2023年10月29日

使徒言行録 第16章6-10節
川崎 公平

主日礼拝

■今から二千年前くらい昔、まだ教会が生まれて間もないころのお話です。アンティオキアという町に、大きな教会がありました。たくさんの人たちが集まって、今私たちがしているように、神さまを礼拝していました。ある日、アンティオキアの教会の人たちがみんなで集まってお祈りをしていると、突然神さまの声が聞こえました。「世界中に、イエスさまのことを伝えに行きなさい。そのために、あなたがたの教会の牧師をふたり、そう、パウロとバルナバを、旅に出発させなさい」。それを聞いて、教会のみんなはびっくりしました。ええ? 世界中って、どこまで行くの?

一緒にお祈りをしていた、ひとりの人が言いました。「今なんか聞こえたけど、気のせいだよね。世界中に伝道に行きなさいって聞こえたんだけど」。するとまた別の人も言いました。「あ、それ、おれも聞いた、パウロ先生とバルナバ先生が世界中にイエスさまのことを伝えに行けって。そんなの絶対空耳だよ。だいたい、教会から牧師がふたりともいなくなっちゃったら、すごい困るし」。するとまた別の人が、「え? お前も同じこと聞いたの? じゃあ、きみは?」「うん、僕も同じこと聞いたよ。神さまの声かと思ったけど、絶対気のせいだよ」。……「いや? これって、気のせいじゃないんじゃない……?」

それで、アンティオキアの教会の人たちは遂に決心しました。「パウロ先生、バルナバ先生、どうか世界中にイエスさまのことを伝えに行ってください。わたしたちのことは心配しないで、どうか神さまのために、お出かけください」。それでパウロとバルナバは、何人かの仲間と一緒に、旅に出ました。何か月も旅行をしました。その結果、たくさんの町に新しい教会が生まれていきました。パウロとバルナバも、それが本当にうれしくて、「神さま、ありがとうございます」と言いながら、アンティオキアの教会に帰って行きました。

■それからまた次の年になって、パウロは言いました。「バルナバ先生、またふたりで一緒に旅に出ましょう。イエスさまのことを伝えに行きましょう」。するとバルナバは言いました。「よしきた。これからもよろしくな。ところで、今回もマルコを一緒に連れて行きたいんだが、どうだろう」。バルナバが一緒に連れて行きたいと言ったマルコというのは、バルナバの親戚で、とても力のある伝道者でした。けれども、パウロは言いました。「バルナバ先生、ちょっと待ってください。去年一緒に旅をしたとき、マルコは途中で帰っちゃったじゃないですか。あれはだめですよ。マルコが行くなら、わたしは行きません」。「いやいや、パウロ君、そう言わないで。マルコにもいろいろ理由があったみたいだよ。大目に見てくれないか」。「いいえ、だめです。マルコだけは絶対に許せません」。パウロもバルナバも、最後まで譲りません。「行く!」「行かない!」「連れて行く!」「絶対だめ!」 最後にはすごい大げんかになってしまって、結局、ふたりは完全に別行動をすることになってしまいました。パウロはそのあと、二度とバルナバに会うことはありませんでした。

私は思うのですが、パウロにとって、このバルナバとの大げんかは、死ぬまで忘れることのできない心の傷になったと思います。パウロにとって、バルナバは、命の恩人でした。もしバルナバがいなかったら、パウロは教会に入れてもらうこともできなかったのです。パウロという人は、もともと、教会をつぶすことだけを生きがいにしていた人でした。教会に集まる人たちを、いじめたり、殴ったり、殺したり。そんなパウロが、突然イエスさまに捕らえられて、教会の伝道者になったというときに、誰もパウロのことなんか信用しませんでした。「なんだ、あいつ、ついこの間までおれたちをいじめてたくせに、そんなやつが今さらのこのこやってきて、『ぼくもイエスさまのことを伝えたいです』とか言っちゃって、誰が信じるかよ」。けれどもバルナバだけは違いました。誰から何を言われても、バルナバだけはパウロの味方になってくれました。ところが今、結果としては、まるでパウロがバルナバを追い出したようなことになってしまいました。

アンティオキアの教会の人たちも、つらかったと思います。バルナバ先生、大好きだったのに、どうしていなくなっちゃうんだろう……。でも、いちばんつらい思いをしたのはパウロだったと思います。バルナバ先生、ごめんなさい。教会の人たちも、本当にごめんなさい。でも、どうしたらいいのか、本当に分からないんです。それでも、パウロは神さまの言葉と教会の祈りに押し出されて、二回目の伝道旅行に出発しました。

■ところが、その二回目の旅行は、どういうわけか、たいへんなことばかりが続きました。先ほど読んだ聖書の言葉の最初のところに、こう書いてありました。

さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった(6、7節)。

「パウロ先生、次はあの町に行きましょう。こっちが近道ですよ」。ところが行ってみると、途中で猛獣がうろうろしていて、どうしても通れません。「だめだ。あっちの道から行こう」。「じゃあ、先生、この山を越えると近いですよ」。と思ったら、誰かが病気になって、山道なんかとても歩けません。あっちに行き、こっちに行き、遠回りをしたり、迷子になったりしながら、いつの間にかパウロたちは、全然知らない、超ド田舎の町に行き着いてしまいました。頑張って歩いてきたけど、ここで行き止まり。向こうに見えるのは、ひたすら海だけ。ザザーッ、ザザーッ、と波の音だけが聞こえます。人なんかほとんど住んでいない。「ええ? ここ、どこ? ていうか、こんな超ド田舎に迷い込んで、おれたち何やってんの? 世界中の人にイエスさまのことを伝えるんじゃなかったの?」 みんな、心も体もボロボロです。いったい、神さまは、わたしたちをこんなところに連れて来て、どうするつもりなんだろう。もしかしたらパウロは、ふと怖くなったかもしれません。「神さまの罰が当たったのかな……」。いくらでも、身に覚えがあるのです。

ところがその夜、パウロは夢を見ました。ザザーッ、ザザーッ、と波の音だけが聞こえる、その海の向こうから、誰かが叫んでいます。「おーい、誰か助けに来てください! 海を渡って、わたしたちを助けてください!」 次の日、パウロはみんなにそのことを話しました。それで、みんなの意見がひとつになりました。海を渡ろう。海の向こうにどんな世界が待っているのか、誰も知らないけど、神さまが海を渡れとおっしゃっているに違いないんだから、そうしようじゃないか。

■こうして海を渡った先に、フィリピという大きな町がありました。そのフィリピの町でも、すばらしい出会いがありました。人数は少なかったかもしれませんが、新しい教会がフィリピの町にも生まれました。中でも、パウロの話を目を輝かせて聞くようになった、リディアという女の人が、ずっとパウロたちを自分の家に泊めてくれました。心のこもったもてなしを受けながら、何よりも、その仲間たちと一緒に神さまを礼拝して、パウロたちは本当に幸せでした。「ああ、本当に神さまはいらっしゃるんだ。あっちの道もふさがれて、こっちの道も行くなと言われて、一時はどうなることかと思ったけど……ねえ、パウロ先生、フィリピの町に来ることができて本当によかったですね」。「そうだ、そうだ。神さまが導いてくださったんだ。あのときは、アジア州で御言葉を語ることを、聖霊が禁じられたんだ。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれをお許しにならなかったんだ」。少し前にはつらいことがあったけど、みんな神さまの導きだったことが、よく分かりました。

■けれども、幸せな時間は長く続きませんでした。パウロともうひとりシラスという仲間が逮捕されて、もちろん何も悪いことをしていないのに、ふたりは牢屋に閉じ込められてしまいました。服を脱がされて、何度も鞭で打たれて、もう体中痛くてしょうがないのに、おまけに絶対に逃げられないように重い足かせをはめられて……けれども、パウロとシラスはもう迷うことはありませんでした。神さまが、海を越えて、わたしたちを導いてくださったんだ。わたしたちが今牢屋の中にいるのも、神さまの導きなんだ。

それで、ふたりは牢屋の中で讃美歌を歌いました。いくつもいくつも、知っている讃美歌を次から次へと歌い続けました。もうすっかり真夜中なのに、暗い牢屋の中に、明るい讃美歌が響き渡りました。どんな歌を歌ったんでしょう。それは分かりませんが、もしかしたら、さっき歌った讃美歌と、内容は似ていたかもしれません。

主われを愛す、主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ。

どんなときにも、イエスさまがいてくださるから。イエスさまが一緒だから。だから、わたしたちがどんなに弱くても、恐れることはない。

その牢屋の中には、他にもたくさん捕まっている人たちがいました。みんなびっくりしました。ええ? 誰? 何の歌? こんなに真っ暗な牢屋の中で、こんなに明るい歌が……。牢屋に捕まっていた人たちは、ずっとパウロたちの讃美歌に聞き入っていました。いったい、誰が歌っているんだろう。何のために歌っているんだろう。「わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」なんて歌っているみたいだけど、何のことだろう……。

そのとき、神さまは、パウロとシラスの讃美歌に答えてくださいました。突然大きな地震が起こって、牢屋の壁は壊れ、捕まっていた人たちの鎖も全部外れてしまいました。いちばんびっくりしたのは、牢屋の見張りをしていた人で、「たいへんだ、囚人たちがみんな逃げちゃう。そんなことになったら、あとでどんな責任を取らされるか。もうおしまいだ」。けれども、実際には、誰も逃げませんでした。牢屋に捕まっていたのに、その牢屋の壁が壊れて、逃げようと思えば逃げられるのに、誰も逃げなかったのです。きっと、みんなここから離れたくないと思ったのでしょう。パウロとシラスの讃美歌を、ずっと聞いていたいと思ったのでしょう。「主われを愛す、主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ」。いったいそれは、どういうことですか。

■けれども最後に、もうひとり、気の毒な人がいました。牢屋の見張りをしていた人が、「もうおしまいだ」と絶望して、自殺しようとしたというのです。けれども、パウロたちはすんでのところでそれをやめさせて、そして言いました。「イエスさまを信じなさい。だいじょうぶですよ。イエスさまがいてくださるんだから。イエスさまを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」。それで、この牢屋の見張りをしていた人も、イエスさまを信じて洗礼を受けました。

その姿を見て、パウロたちはもう一度、心から神さまを信じることができたと思います。神さまが、わたしたちをここに、この人のところに導いてくださったんだ。あのときは、「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられ」、「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」けれども、それは全部、この人に出会うためだったんだ。「神さま、ありがとうございます」。

牢屋の見張りをしていた人は、すぐにパウロとシラスを自分の家に案内して、一緒に食事をしました。その家の家族みんなが、イエスさまを信じるようになりました。そこで一緒にした食事は、どんなにおいしかっただろうかと思います。

 

イエスさま、今もあなたは、この鎌倉雪ノ下教会の主でいてくださいます。わたしたちはあなたのもの、この鎌倉雪ノ下教会もあなたのものです。ですからどうか、この教会を、あなたのご用のためにお使いください。主のみ名によって祈り願います。アーメン