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ささげよう神の喜び礼拝を

2023年10月22日

ローマの信徒への手紙 第12章1-8節
中村 慎太

主日礼拝

礼拝とは何か。そのような問いを、抱いたことはありませんか。

皆さんも、今教会に集められ、礼拝をささげている。私たちが心から慕い、そして大切にしているこの礼拝とは何か、うまく言い表すことはできますか。誰かから、「礼拝って何か」と問われたら、どう答えるでしょうか。

私自身、礼拝とは何だろうか、と考えたことは、結構若い時にもありました。自分が教会へ集っていることを、教会にまだ行ったことのない友人に話した時です。「教会って何しているの」と問われたことがあります。当然「礼拝をするんだ」と答えられそうなものです。しかし、「礼拝とは何か」と問いがさらにあったら、うまく言い表せないな、と思ったものでした。結局、聖書の話を聞いたり、讃美歌を歌ったり、など、具体的なことをいくつか話していたと思います。

あるいは、教会に友達を誘う時に、なぜ礼拝に集うのか。いくつも理由や良い点をあげようと考えたことがあります。「心が豊かになるよ」「落ち着くよ」「いろいろな人と会えるよ」「聖書のこと、キリスト教のこと知れるよ」そういった事を伝えられるかもと思ったのです。しかし、どこか足りないと感じるものでもありました。

そして、そのようになにか教会に集ってありがたいことなどは、私たちが教会に求めてしまうことでもあるかもしれません。

私たちは、時に自分の心を休めるために、礼拝に集ってしまうかもしれない。聖書の知識を増やすために、礼拝に集ってしまうことがあるかもしれない。

私たち自身のためになることは確かに礼拝で起こります。また、それが誰かを教会に招くきっかけになるのも事実です。

しかし、自分の心が落ち着くとか、聖書の知識を増やすとか、友に会うことができる、などは、実はどれも自分のためのことです。

礼拝とは、自分を喜ばすためのものではない。主なる神さまを喜ばせるためささげるものです。

今日私たちは聖書の新約から、ローマの信徒への手紙のみ言葉を聴きました。第12章、の1節からです。

そこには、礼拝という言葉がありました。この礼拝という言葉、それは旧約の礼拝を指す語ともつながる言葉です。旧約の昔から、主なる神さまにささげられている礼拝の行為と繋がって、このローマの信徒への手紙の時代もささげられていた礼拝を指す言葉となっています。この語は、聖書の他の箇所では、奉仕する、僕として仕えるとも訳せる語です。礼拝は、主なる神さまに奉仕し、お仕えし、主の喜びのために生きることを表す意味がある言葉なのです。

また、今日聴いた新約、ローマの信徒への手紙には、「喜び」という語が出てきています。第12章の1-2節の間だけでも、二カ所出ている。実はこの「喜ばれる」という語は、いつも主体は、主なる神さまとして語られる語です。主なる神さまの「心に適った」、主に「喜ばれる」ことを指す語なのです。この手紙でも礼拝は主なる神さまが喜ばれるように、という前提がもうあったのです。むしろ、神さまに喜ばれる行為そのものが礼拝とまで言えるのです。

では、私たちは自分の心を無感情にして、礼拝をささげるのだろうか。自分を押し殺して、礼拝に集うのか。

私自身、礼拝は自分の喜びではない、ということに、悩んだことがあります。幼いころから、教会学校の礼拝に集っていた。友達と会うのも嬉しかったし、その後遊ぶことも何より嬉しかった。賛美の歌をささげるのも、嬉しかった。聖書の新しい知識を得ることも、嬉しかった。

でも、自分の喜びのためだけに礼拝をささげるだけではおかしい、と教えられたら、どこか無感情に、ただ礼拝を義務のように行えばいいかのように思えたことがありました。

しかし、そうなのでしょうか。礼拝は感情を押し殺して、修行のように儀式のようにささげるのでしょうか。

決してそうではない、生き生きとささげることこそ、主なる神さまが喜ばれるのではないでしょうか。

ローマの信徒への手紙で大切な言葉が記されていると思います。

それは、「いけるいけにえ」です。

これは分かりにくい言葉かもしれません。

生贄は、旧約の時代から主なる神さまにささげられました。動物の命を取り、その犠牲を神さまにささげ、主から離れる罪を赦してもらう祈りをささげていく。しかし、それも完全な生贄にはならない。何度もささげなければならない。そして、儀式化してしまった。

しかし、この旧約の生贄は、それは、ある究極の献げ物を指し示すものだったのです。

それは、イエスさまの十字架という献げものでした。

イエスさまは、父なる神さまからどうしても離れて、違うものに自分をささげてしまう人を、何とか父なる神さまのもとへ立ち帰らせようとしていくださった。父なる神さまの前に立つこともできなくなってしまうほど、罪にまみれた私たちが赦されるように、すべてをささげてくださった。差し出して、与え尽くしてくださった。ご自分の命を、贖いのいけにえとまでして、ささげてくださった。それが、十字架の出来事だったのです。

そして、イエスさまは、死を打ち破り、ご復活なさった。その復活の主によって、私たちは新しい命の希望を与えられ、その新しい命のうちに入れられて、生きるものとされた。

正しくもなく、自分で自分を罪から清めることもできない私たちが、聖とされる。今日は旧約のみ言葉も聴きました。信仰の民、イスラエルの民が、神さまに選ばれ、聖くされたこと。申命記で言われていたことが、まことになった。新しい信仰の民である教会が、イエスさまの十字架によって聖くされた群れであること。

私たちはそのように、神さまに生きるものとされた、そのことへの感謝が、礼拝の根底にある。

私たちは、動物の命を取り、その犠牲を神さまにささげる礼拝はしません。なぜなら、もうイエスさまというお方が、ささげつくしてくださったからです。そうすると、今度は私たちは、自分たちを生きるいけにえとして、その主にささげていきます。

ささげるという語がありました。ローマの信徒への手紙でも何度も使われている語です。これも、大切な意味のある語です。もとの意味は、「傍らに立つ」という意味です。だからこそ、主人の隣りに立ち、「仕える」「助ける」、という意味があります。あるいは「前に立つ」という意味もあり、主の前に立ち礼拝をささげる意味にもなります。そして、「与える」こと、さらに主に対しては「ささげる」という意味にもなる語です。

主イエスが、まず、私たちの傍らに立ってくださった、父なる神さまの前に立つことのできない私たちを救って、まず、イエスさま自身が仕え、奉げてくださった、命を与えてくださった。

私たちはそのイエスさまに従って歩みます。主なる神さまが喜ばれるように、私たちのすべてを差し出して、ささげていくのです。それこそが礼拝です。

だから私は思うのです、決して、自分を殺して、無にして礼拝をささげるだけではないのだと。確かに、私たちは自分を小さくして、自分の求めをもすべて捨て去り、主にすべて差し出します。だからこそ、それらも差し出して、ささげようではありませんか。そのうえで、私たちは主と同じ喜びを思いつつ、生き生きと、全てをささげていくのです。イエスさまに救われた者として、感謝をささげるのです。

詩編にはたくさんの賛美が歌われています。主の僕。ダビデの歌。

罪の告白も、嘆きも、訴えも、喜びもささげている。

同じく、ローマの信徒への手紙を書いたパウロも、すべてを主のためにささげた。主の僕として。時に彼自身が、かつてイエスさまを迫害していた者として、その罪を隠さずさらけ出しつつ、主に仕えていた。どんな時も、牢獄であっても賛美をささげていた。

私たちも、そのように全てを神さまにささげていく。主の僕として。

僕。奴隷とも訳されるもの。しかし、主人との信頼関係のあるものであった。

私たちと神さまとの関係も、そのような面と向かっての関係です。イエスさまがそのような関係へと導いてくださった。

誰かにひどいことをしたら、謝る。誰かに物をもらったら、感謝をささげる。愛する家族から、愛をもらったら、その愛に応えて、愛情を伝える。

礼拝はそのような時です。そして、それは日曜だけにとどまらず、私たちの生き方となっている。

イエスさまの恵みを受けたものとして、感謝をささげて、すべてをささげていきましょう。