1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 主イエスの十字架とわたしの十字架

主イエスの十字架とわたしの十字架

2023年10月8日

マルコによる福音書 第8章31節ー第9章1節
川崎 公平

主日礼拝

「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(36、37節)。

ここで主イエスが切々と問いかけておられることは、私どもの命の尊さであります。もしも全世界を手に入れたとしても、あなた自身の命が損なわれたら、何にもならないではないか。そんなことは、私どもも分かっているつもりなのです。分かっているつもりなのですけれども、ここで大切なことは、主イエスが私どもの命のことを心配してくださっているという、そのことであると思います。「あなた、本当にだいじょうぶかい? たとえ全世界があなたのものになったって、あなたの命がだめになったらどうしようもないんだよ? だから、あなたには、もっともっと自分のことを大事にしてほしいんだ」。

この場合の命というのは、肉体の命が何年永らえるか、という話ではありません。それは誰だって少し考えればすぐに分かることだと思います。もっと深い意味での命です。永遠の命と言ってしまってもよいと思います。「人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」。「全世界をもってしても、あなたの命を買い戻すことはできない。それほどに大事なあなたの命を、あなたはきちんと生かしているか。あなたの命を損なっていないか。どうなんだ」。この主の問いかけの前に立ちながら、私どもは、不思議な感動と、しかしまた戸惑いと、恐れを覚えないわけにはいかないと思うのです。「恐れ」というのはつまり、もしも私どもが、ここで主イエスが心配しておられる通り、自分の命を損なってしまっているなら、こんなに恐ろしいことはないからです。

ここに「代価」という言葉があります。私どもに与えられた信仰の生活というのは、この「命の代価」のことを考え続ける生活のことだと思うのです。「人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」。そのことについて、私どもは教会に通っておりますと、何度でも教えられるのです。あの主イエスの十字架は、実は私どもの命を買い戻すための代価だったのだと。既に31節以下で、主はご自分の苦しみについて、死について、また復活について教え始められました。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」と書いてあります。教え始められた。そのとき始まった主の弟子たちへの教育は、今も続いています。何度教えられても、それども私どもは、いつも繰り返し、この代価のことを考え続けなければならないと思うのです。神は、どんなに大きな犠牲を払ってでも、私どもの命を買い戻したかったのです。それは取りも直さず、神がどんなに私どもの命を重んじてくださるか、ということです。そのことを学び続けるのが、私どもに与えられた生活であります。

■ただそこで、主イエスはたいへん不思議なことを言われました。「自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである」(35節)。全世界にもまさって大切なあなたの命、それを真実に生かす道はただひとつ。あなたの命を捨てなさい。34節でもこう言われました。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」。「自分の十字架を負って」というのは、十字架とはつまり死刑のための道具ですから、「自分を殺しなさい」という意味でしかありません。自分を捨てるのです。自分を殺すのです。どんなに大事なものを捨ててでも、主イエス・キリストに従うのです。そのとき初めて、あなたは本当の意味で、自分の命を生かすことができる。

この言葉の厳しさは、どうしたってごまかしようがないと思います。何とかしてこの言葉を和らげよう、この厳しさから逃げようとして、たとえば私のような者が説教をするときにも、「いや、実は、皆さんは今のままでいいんですよ。そのままで、ありのままで、実はもう自分を捨てて主イエスに従っているんですよ」と、そんな説教をしてみせたって、少なくともここにいらっしゃる皆さんは誰も説得されないだろうと思います。自分を捨てるのです。それはただ闇雲に何でもかんでも捨てればいいということではなくて、主イエスに従うのです。服従するのです。そのためなら、どんなに大事なものがあっても捨てるのです。場合によっては、本当に肉体の命だって犠牲にすることもあるかもしれません。どう読んでも、いくら何でも厳しすぎます。

目立たない言葉かもしれませんが、34節の最初のところに、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」と書いてあります。前回読みました27節から33節までのところでは、主イエスの周りには十二弟子だけがいたのでしょう。ところがここでは、改めて群衆をお集めになりました。すべての人に聞いてもらわなければならない言葉として、34節以下の言葉をお語りになりました。「自分を捨てなさい、自分の十字架を負いなさい、そしてわたしに従って来なさい」。特別に選ばれた弟子たちのために、特別に厳しいことを言われたというのではないのです。しかし考えてみれば、むしろ当たり前のことかもしれません。「自分の命を救おうと思う者は」と言われるのですが、自分の命を救いたくない人なんか世界のどこにもいませんから、いや正確に言えば、神はすべての人の命を救いたいと願っておられるのですから、およそ人間である以上は誰もが、この教えを聞かなければならないのです。自分を捨て、自分の命をも捨てて、主イエス・キリストに従うのです。

■「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」。自分の十字架です。わたしの十字架です。そしてきっと、「あなたには、あなただけの十字架があるのだ」と、そう主イエスは言われたのだと思います。その〈わたしの十字架〉とは何でしょうか。それこそ毎日、私どもが考え続けなければならないことであるかもしれません。「わたしの十字架って、何だろう」。

多くの人が注意を喚起して、こういうことを言います。「自分の十字架」と言われるのですから、ひとりひとりが「自分の十字架」を負うのです。それはひとりひとり違うのです。けれども、自分が自分なりに苦しい思いをしたら、それが自分の十字架になるのだろうか。わたしにはこういう十字架がある。わたしは職場で十字架を負っている。家族の問題で十字架を負っている。もう20年近く腰痛が治らない(←私の話です)、これは自分の十字架かな、と言ったら……うーん、それは、きっと違う、とお感じになるだろうと思います。なぜかと言うと、この「自分の十字架」とは、主イエスに従うところに生まれる十字架であって、主イエスに従うなんてことは考えたこともないけれども、とにかく自分は今苦しいんだ、つらいんだ、でも耐えなければならないんだ、という話とは何の関係もないからです。しかし逆に言えば、主イエスに従おうとするとき、そこに必ず、その人だけの十字架が与えられます。そういうものだと思います。もしかしたら、主イエスに従い抜いた結果、健康を損なうことだってあるかもしれません。むしろこう言わなければならないと思います。「わたしの十字架」というのは、わたしが勝手に選ぶことができないものです。主イエスが、「わたしに従いなさい」と招いてくださる。そしてそれに添えて、わたしが負うべき十字架もまた、主が与えてくださるのです。

■先ほど、マルコ福音書とあわせて、創世記第22章を読みました。この旧約聖書の箇所には、私の個人的な思い入れが強く反映しております。10年前のある日曜日の礼拝で、ルカによる福音書第14章の25節以下を説教しました。そこにも、似た主イエスの言葉があるのです。「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない」(27節)。しかもそれに先立ってこんなことまで言われました。「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない」(26節)。親を憎め。妻を憎め。子どもを憎め。あなた自身の命を憎め。そうでなければ、あなたはわたしの弟子ではあり得ないと言われるのです。

10年前の10月、私ども夫婦に初めての子が与えられました。ひとり息子です。その息子が初めて教会堂に来ることができた日、ちょうどたまたま、この箇所を礼拝で読むことになりました。「あなたの子どもを憎まないなら、あなたは私の弟子ではありえない」。憎むというのはいかにも強烈な表現ですが、子どものことが憎らしくなって、育児放棄して、自分の好きなことしかしないというような親だって実際にいるかもしれません。もちろん主イエスがそんな生き方をお許しになるはずはない。そうではなくて、自分を捨てて、主イエスに従うのです。その当然の帰結として、自分のいちばん大事なものであっても、これを憎むのです。それにしても、自分の子どもを憎め、というのは……いや、イエスさま、ちょっと待ってくださいよ。今日うちのかわいい赤ちゃんが、初めて教会に来るんですよ? そんな日にこんな聖書の箇所、あり得なくないですか?

その10年前の礼拝でも、創世記第22章をあわせて読みました。アブラハムと、その妻サラには、ふたりが100歳と90歳になるまで子どもがいなかった。ところがある日、突然神の声が聞こえました。「アブラハムよ、あなたの妻が子どもを産むから、その子をイサクと名付けなさい。その子が、全世界の祝福の基となるのだ」。100歳のアブラハムが、そんな神の約束を聞かされて、どんなに戸惑ったか。けれども実際にイサクが生まれて、この夫婦は自分たちの息子をどんなにかわいがったかと、私は心からそう思うのです。ところが、そのイサクがそれなりに大きくなってからでしょう、また突然神の声が聞こえました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを、焼き尽くすいけにえとして献げなさい」。それでアブラハムは、神のお示しになった場所を目指して、イサクと一緒に三日間の旅をしました。息子を焼くための薪を持って、息子を殺すための刃物を持って。いったい、三日間、アブラハムはどんな思いで旅をしたことだろうか。アブラハムにとって、子どもを憎んで神に従うということは、決して机上の空論などではない、非常に現実的な意味を持ったのであります。

そのあとの話は、先ほど聖書を読んだ通り、実際にはアブラハムはイサクを殺さずにすみます。「アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」。けれどもそれを、神がとどめられたのです。それでアブラハムとイサクは、家に帰って行きましたとさ、めでたし、めでたし、ということには絶対にならなかったと思うのです。旅の帰り道、アブラハムはイサクに向かって、いったいどんな言葉をかけることができただろうか。「なんか、この薪、重くない?」とか、そんな寒い会話ができたはずはないし、イサクだって、自分に刃物を振り上げた父親のことを、どんな思いで見上げただろうかと思うのです。

10年前の説教で、ある神学者の言葉を紹介しました。ちなみにこの神学者というのは、ボンヘッファーという、ナチス・ドイツに抵抗したことでよく知られる人です。そのボンヘッファーの言葉をここでも10年ぶりに紹介したいと思います。「山を下りるとき、再び以前と変わらないような現実が現われたかに見える。けれども、アブラハムが神から頂いたイサクは、新しい存在となっていた。すべてが新しくなったのだ。この親子の間に、キリストが割り込んで来られたのである」。なぜ突然キリストの名が出てくるのでしょうか。旧約聖書なのに、まだイエスさまの出番は早いんじゃないか。けれどもこの神学者は、自分の実存をかけるような思いで、この文章を書いたと思います。「この親子の間に、キリストが割り込んで来られたのである」。わたしと息子の間に、キリストが割り込んで来られる。わたしと、自分の命の間にさえ、キリストが割り込んで来られる。そしてここでアブラハムは、一度は愛する息子との絆を断ち切ることを求められたわけですが、その愛する息子を、もう一度、キリストの手から受け取り直したのです。そのとき「すべてが新しくなったのだ」とボンヘッファーは言います。どう新しくなったのでしょうか。さらにこう言うのです。「アブラハムはもはや、イサクを絶対化することはない。絶対なのは、神だけ!」

■しばらく前の礼拝でも紹介したことがありますが、関東学院で長く教えた柳生直行という英文学者が、たいへんユニークな新約聖書の翻訳を発表しておられます。35節に、「自分の命を救おうと思う者は、それを失う」とありましたが、ここを柳生先生はこう訳されました。「自分の生命(いのち)にしがみつく者はこれを失う」。何だか、とてもよく分かります。自分の命を救いたい、それで自分の命にしがみつくのです。私どもも、いろんなものにしがみついていると思います。家族にしがみつく。財産にしがみつく。地位や名誉にしがみつく。しかし私どもが何と言ってもしがみついているのは、自分の命であるに違いありません。それを先ほどの神学者の言い方を借りれば、「絶対化する」ということになると思います。ところが、アブラハムが神からたいへん厳しい仕方で求められたことは、息子の命にしがみつくな、これを絶対化するな。自分を捨てて、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい、ということであったのです。

このアブラハムとイサクの物語というのは、読めば読むほど不思議なものがあると私は思います。アブラハムはどんなにつらい思いをしただろうかと私どもは勝手に想像するのですが、聖書はそんなことはひとつも書かないのです。アブラハムは、ひたすらに神のご命令に従おうとします。なぜでしょうか。アブラハムは、神の愛だけにしがみつきたかったのだと思います。

それをアブラハムは、「主の山に、備えあり」と言い表しました。神が、備えてくださる。アブラハムは、その神の愛だけにしがみつきたかったのです。主イエスが今私どもに与えてくださる生活も、同じだと思うのです。自分の命にしがみつくな。それは、滅びの道でしかないのだから。「主の山に、備えあり」。その神の愛にしがみついて、あなたは、わたしに従って来なさい。

「主の山に、備えあり」と言われるのですが、それと正反対の生き方というのは、自分の手で道を切り開き、自分の力で財を築き、自分の力で家族を守り、そうやって自分の命を生かそう、自分の命を豊かにしよう、自分の命にしがみつこうとする生き方でしょう。けれども私どもは、そうやって全世界を手に入れようとして、結果いちばん大事な命を損なうという、でたらめなことをしてしまうのです。ところが、神がアブラハムに与えてくださった生活というのは、そういった〈自分の命〉を全部捨てた上で、「主の山に、備えあり」。こんなに幸せな生活は、他のどこにも見つけることができないのです。だからこそ私どもは、ひたすらに主イエス・キリストを愛し、このお方に従って行くのです。

■ここにペトロという弟子の名が出てきます。主イエスがご自分の苦しみについて教え始められたとき、これを訂正しようとしたら、「サタン、引き下がれ」と、一生忘れられないくらいの厳しいお叱りを受けてしまいました。ですからここで主イエスが改めて群衆を集めて、「自分を捨てて、わたしに従いなさい」と言われたときにも、ペトロは茫然自失、何が何だか分からなかったかもしれません。なぜ急にペトロの話を始めたかと言うと、「自分を捨て」というこの言葉が、実はペトロのもうひとつの思い出と深く結びついているからです。

この「捨てる」という言葉は、新約聖書の中では実は比較的珍しいのですが、この箇所のほかにもうひとつの場面で用いられます。のちに主イエスが捕らえられて、裁判を受けておられる様子を、ペトロは遠くから眺めていたというのですが、突然そばにいた人から、「おや、あなたもイエスの仲間だね。あなたのこと、見たことあるよ」と言われて、ペトロは大慌てで、「いや、あんな人のことは知らない」。三度繰り返して、「わたしは知らない。あんな人のことは知らない」。その「知らないと言う」という言葉が、ここでは「捨てる」と訳されているのです。ペトロよ、あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう。三度わたしを捨てるだろう。つまりペトロは、主イエスを捨てることによって、自分の命にしがみつこうとしたのです。私どもの多くが、身につまされる思いで読むところです。けれどもそこでペトロが見事に忘れていたことは、わたしは決して自分の命を救うことはできないのであって、主イエスだけがわたしの命を救ってくださる。愛してくださる。どんな犠牲だっていとわない。そのお方を、俺は捨てたんだ、三度も捨てたんだと気づいたとき、ペトロは男泣きに泣きました。

38節で、さらに主はこう言われました。「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。「神に背いた罪深いこの時代」。きっと、その通りなのでしょう。そういう世界で主イエスの弟子として生きるとき、どうしたって恥をかくことを避けることはできません。既に主が31節で明言しておられる通り、この世界は主イエスを排斥するような世界なのですから、主の弟子たちといえども、どうしたって主イエスとその言葉を恥じるようになる。そういう誘惑があるということを、主イエスはよく分かっておられたのです。

けれども、主イエスはお甦りになりました。弟子たちは、そのお甦りの主に遣わされて出て行きました。そのとき、何が起こったでしょうか。使徒言行録第5章41節にこう書いてあります。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び……」。その使徒たちの先頭に立っていたのはペトロです。主イエスと主イエスの言葉を恥じた、そんなペトロが、今は、イエスの名のために恥をかくほどの者にされたことを喜んだと言うのです。ずいぶんな変わりようです。しがみつくものが変わったのです。もうペトロたちは、自分にしがみつかない。自分の命にさえしがみつかない。ただ神の愛だけにしがみつきながら……いや、それも表現としては不正確かもしれません。神の愛が、自分たちの命をしっかりとつかんでいてくださる。

けれども、そのことを思うとき、私どもは何度でも、あの〈命の代価〉のことを考えないわけにはいきません。今ここに、わたしが生かされている。そのわたしの命のために、どんな犠牲もいとわなかった神の愛、キリストの愛を思いながら、私どもも今、自分にしがみつくことをやめて、主イエスに従って行くのです。

私どもの教会が大切にしている、ハイデルベルク信仰問答という古典的な書物があります。その冒頭にこう書いてあります。生きるときにも死ぬときにも変わることのない慰めがただひとつある、それは何かと問うて、それはわたしの体も魂も、もうわたしのものではない。わたしのすべてはキリストのものだと言います。その慰めの事実が、生涯を通して、死を越えて私どもの命を支えます。その慰めの中で、私どもは安んじて自分を捨てるのです。「わたしは、わたしの所有物ではない。わたしは、キリストのものなんだ」。今、このお方を心から愛して、そのあとに従いたいと願います。お祈りをいたします。

 

私どもは生きるときも死ぬときも、体も魂も、自分のものではありません。すべてはあなたのもの、み子キリストのものです。そのためにあなたのみ子イエスは、その尊い血潮によって、私どもの命を買い戻してくださいました。あなたが私どもの命を、そこまで尊んでくださったのですから、もう自分の命にしがみつくことがありませんように。主に従う喜びを、いつも新しく学ばせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン