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教会はあなたが共にたてていく

2023年9月17日

コリントの信徒への手紙一 第16章13-24節
中村 慎太

主日礼拝

イエス・キリストを頭とする、教会という群れは、私たち一人一人が作っていきます。そして、主なる神さまは、そんな私たち一人一人を見て、その奉仕を喜んでくださいます。

私たちは新約から、コリントの信徒への手紙一の最後の箇所を、共に聴きました。伝道者パウロたちが、コリント教会の皆に対して書いた手紙の、最後を飾る言葉たちです。

そこには、強い励ましの言葉が書かれていました。「目を覚ましていなさい。信仰にしっかりと立ちなさい。雄々しく強くありなさい。何事も愛をもって行いなさい。」

そして、続けて何が伝えられるか。ある教会の仲間たちを、重んじるようにということが伝えられます。

 「きょうだいたち、あなたがたにお願いします。知ってのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖なる者たちのために熱心に奉仕してくれました。どうか、あなたがたも、この人たちや、共に働き、労苦しているすべての人々に従ってください。ステファナ、フォルトナト、アカイコがそちらにいることを、うれしく思います。この人たちは、あなたがたの足りない分を満たしてくれました。私とあなたがたとを安心させてくれたのです。このような人たちを重んじてください。」

ここでは、ステファナ、フォルトナト、アカイコという名が出てきます。彼らはどんな人物でしょう。皆さんは、彼らのことを知っていますか。また、彼らのことが書かれていることは、この手紙においてどれほど大切なことだと思いながら読んでいましたか。

実は、私は、ここをあまり大切に読んでいませんでした。かつては、彼らの名も、覚えてさえいませんでした。ステファナの名前が、ステファノと似ているので覚えていた程度です。

今から2000年近くも昔の教会のある人の名前です。そして、彼らの情報も少ないのです。しかも、実は彼らの名前はこの手紙以外に、聖書には書き残されていないのです。

しかし、今私は、この名が記されていることをかけがえのないことだと知らされています。なぜか。教会はこの者たち、一度しか名前が残らないような者たち、そして、名前も残らないような者たちによって建てられたからです。つまりは、名前が残るかどうかは関係なく、キリスト者は皆で互いに仕えあって、教会を建て上げていく。しかも、神さまはその一人一人の名を知っていてくださる。そのことが、ここでまた、はっきり示されている、そう思ったからです。

実は、この手紙の最後、第16章には、いろいろな人の名前が出てきます。今日読んだ箇所の前の所、第16章10節以降にも名前がいくつかある。そこに出てくるのは、伝道者たちの名です。テモテとアポロについての話がある。教会の指導者、牧師といえる立場の者たちです。さらに、テモテというこの伝道者は、この手紙、コリントの信徒への手紙一とよばれるこの手紙を携えて、パウロのもとからコリントへ派遣されたと思われます。

ステファナたちも、同様にコリント教会とパウロの所とを行き来していたと考えられています。17節の言葉を深く読むと、今彼らがコリントの地にいることが書かれている。つまりかつてはパウロのもとにいたことも分かる表現です。もしかしたら、テモテと一緒にこの手紙を携えて、その結果コリントの地にいる。その前提で、この手紙の言葉が記されている可能性もあります。

しかし、パウロはテモテとステファナたちをまとめて書くことはしませんでした。テモテのことを重んじるように伝えた後、「目を覚ましていなさい。信仰にしっかりと立ちなさい。雄々しく強くありなさい。何事も愛をもって行いなさい。」と重要な励ましを伝えたうえで、ステファナたち、教会員のことを、さらに大切に、最後の方に伝えたのです。

なぜ、このような書き方だったのか。

そこにはステファナたちを守るがあったかもしれない。

残念なことに、コリント教会には、派閥争いがありました。この手紙の初めの方、第1章から、その問題をパウロたちは扱っていました。その問題がなくなるようにと祈り諭し言葉を紡いでいたのです。

ステファナは、コリント教会で伝道をした時、最初に与えられた受洗者たちでした。パウロがその受洗を執り行いました。もし、教会に派閥などがあるとしたら、「パウロ派」に属すると考えられてもおかしくないものです。

しかし、パウロはこのステファナたちを、自分に属する者、などとは決して言いません。だから、私などは、そのような派閥問題からステファナたちを守りたくて、最後の大切なところに記したのではないと思うのです。

では、なぜここでステファナたちの名が出たか。

それは、パウロがステファナたちをどう言い表したか、によって分かります。「聖なる者たちのために熱心に奉仕し」、教会の仲間の「足りない分を満たし」、教会の仲間を「安心させてくれた」と者たちだったということです。

ステファナたちの情報は少ない。しかし、彼らがどんな者たちだったかは、ここから分かるのです。教会全体のために、ステファナたちがどう仕えたか、そのことこそが、彼らがどんな者なのかを正しく表すことです。彼らの教会員としての在り方が、そこにあるのです。

私は、ここにステファナたちの名があるのは、彼らを守るためではなかったと思っています。むしろ、互いに教会が何事にも愛をもって行うために、実際に愛を行って仕えた者たちとして、彼らの名を上げたのでは、と思うのです。彼らの在り方こそが、「何事も愛をもって行いなさい」ということを思い出させるものだったのではないか、と。

教会は、そのように、一人一人のキリスト者が、仕え、奉仕することで成り立っています。

コリントの信徒への手紙一においては、そのことも大切な主題でした。第12章では、教会はキリストの体であること、一人一人はその部分であるのだ、ととてもわかりやすく伝えています。

ステファナ、フォルトナト、アカイコたち、そして、他にも無数にいるキリスト者が、コリント教会の体の一部だったのです。そして、パウロはその一人一人を重んじ、決して除外などしないようにと、伝えていた。その代表として、手紙の最後に、この3人の名前が挙げられているのです。

聖書を大切に読めば読むほど、そこに出てくる者たちの一人一人に、大切に神さまからの役割が与えられていたことを知らされます。

今日は、旧約のみことばにも聴きました。ダビデが主の神殿を建てるために備えをしたときの出来事です。ダビデ自身が、率先してささげものをしました。自分の財産を全てささげたようです。そして、神殿建設のために、多くの奉仕者が与えられていることも、ダビデははっきりと言います。

そして、民も皆ささげものをした。聖書には、民の長たちがそれをささげた様子が記されています。しかし、興味深いことに、聖書は、民が皆で、自分がささげたことを喜んでいたと伝えているのです。この「自分たち」という言葉、聖書の訳によっては、「民の長たちが」ささげたことを喜んだ、と訳すものもあります。しかし、どうでしょう。民の長たちが民のものを集めて、代表でささげたと考える方が、意味が通ると思いませんか。なぜなら、このささげものに続けて、民全体が主に賛美をささげ、ともに主に礼拝をささげたからです。

このようにして、神殿は建てられていきました。しかも、実際に神殿を建てるのは、この民の次の世代となります。ダビデ自身ではなく、その後継者ソロモンが、神殿を建てていくのです。

現在、私たちの神殿はイエスさまであり、イエスさまの体である教会です。私たちもこの歴代誌の時代のイスラエルの民と同じように、教会を建てていきます。コリント教会の者たちと同じように、教会を建て上げていきます。

王や、牧者だけが、それを成し遂げるのではないのです。王や牧者は、その仲間を励まし、率先して献身するのです。そして、民一人一人が、キリスト者一人一人が、一緒に、教会を建て上げる。しかも、将来のために。教会は、そのように、皆で礼拝をささげ、主に私たち自身をささげて、進んでいくものです。

献金のこと。

私たちは、自分が神さまにささげるものを、正しく評価することも必要です。それは、過大に評価しないということもありますが、同時に過小に評価するのもおかしいことなのです。

「わたしはこれだけのことをしている」と言って、不遜になってもおかしいのです。また同時に、「わたしにはなにもささげられるものなどありません」というのもおかしいのです。なぜなら、私たちのささげる以前に、もうたくさんの恵みを主から頂いているからです。

ダビデは、そのことをよくわかったうえで、祈りをささげていました。彼は、自分がささげたものを、正しく数えあげます。しかし、それは「これだけ多くをささげたからえらいだろう」などというためではありません。

13節から。

神さまからいただいたものから、ささげものをお返ししたのです。そして、民の皆で、主を礼拝したのです。

20節。

教会もそうです。主からいただいた恵みを思いつつ、その群れは、自らをささげ、互いに仕えていく仲間となっていきます。

コリントの手紙一の最後の最後は、こう記されていました。

「主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように。」

イエスさまの恵み、それはイエスさまが私たちにくださった、なによりも尊いもの、十字架による赦しです。本来受け取るはずもできない、神さまから離れた私たちのために、イエスさまがまず、ご自身をささげつくしてくださった。命を捨てるまでして、私たちを愛し、救おうとしてくださった。この恵みのうちに、私たちは今生かされている。そして、その主イエスによって、私たちは救われた群れなのです。その恵みを受けているなかで、私たちは神さまに自分自身をささげていく、主へと、ささげものをお返ししていくのです。それは、代表者だけに与えられた役割ではありません。皆で共に、その主から与えられた役目を果たすことができる。そして、私たちがささげるその奉仕を、神さまが喜んでくださる。互いに喜ぶことができる。

私たちは、どう神さまにささげものをしているでしょうか、献身しているでしょうか。どれだけ互いに仕えているでしょうか。

鎌倉雪ノ下教会はどうでしょう。自分はどうでしょう。中村慎太はどうでしょう。

完全にささげつくした、と言える人はいないはずです。教会も不完全です、コリント教会に問題があったのと同じように。しかし、私たちがささげたものは、すべて神さまから与えられたものであり、これまでささげたものもすべてもう神さまのものです。だから、過去のものを、勝手に評価することも、私たちには必要ありません。ただひたすら、これまでささげられたことを感謝します。そして、これからどう神さまのために、ささげられるか、神さまが命じてくださったように、互いを重んじ互いに仕えられるか、そのことを思おうではありませんか。

ステファナ、フォルトナト、アカイコの名が記されていました。聖書に名前が残ってよかった、などということはありません。むしろ、神さまこそが、彼らの奉仕を喜び知っていてくださる。ここに名の残らない、者たちが、どうやって神さまのために生きたか、神さまが全てしっていてくださる。

だからこそ、私たちも神さまにすべてをささげる礼拝の日々を、続けようではありませんか。自分の肩書も、自分を自分勝手に評価することも、他人との比較なども捨てて、ただひたすらに、神さまに礼拝をささげ、自らができる形で、神さまに献身していきましょう。その先頭に、イエスさまがいてくださることを感謝します。