主よ、私の目にも触れてください
マルコによる福音書 第8章22-26節
川崎 公平
主日礼拝
■聖書の箇所を少しだけ変更して、マルコによる福音書第8章の14節から26節までを一気に読みました。しかし、とにかく今日の礼拝でご一緒に読みたいと願っているのは、22節以下の盲人の癒やしの記事が中心です。目の見えない人を、主イエスが癒やしてくださった、見えるようにしてくださったというのですが、これはある意味で、本当にささやかな話であるかもしれません。特に長年教会生活をしている人にとっては、こういう奇跡物語に慣れっこになってしまっているところがありますから、「なんだ、またいつもの奇跡の話か」としか読まないかもしれません。けれども私は、今朝の礼拝のためにこの聖書の記事を読めば読むほど、考えれば考えるほど、なんだか心が苦しくなっていくような思いがいたしました。主イエスがこの盲人の目を癒やされたとき、主イエスご自身、どんなに苦しい思いをしておられたかと思うからです。
目の見えない人が、見えるようになりました。そのことを考えるときに、どうしても忘れてはならないことは、その直前にこのような主イエスの言葉があったということです。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(18節)。いつまでたっても主イエスのことを理解しようとしない弟子たちに対して、主イエスはずいぶん激しい言葉遣いをしておられます。
「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17、18節)。
この主イエスの言葉の激しさは、いちいち説明するまでもなく、読めばすぐに分かると思います。ただ黙読するのではなく、実際に声に出して、音読してみると、このときの主イエスの苦しさが、ますますよく分かるかもしれません。「まだ分からないのか。なぜ悟らないのか。あなたには目があるのに、なぜ見えないのか、なぜ見ようとしないのか」。
「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた(19~21節)。
そう言われた主イエスが、舟に乗って向こう岸に渡り、そこでひとりの盲人の目を開こうとしておられるのです。そのときにも、主イエスの心の内にある祈りは同じであったに違いないのです。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。どうか、目を開いて見てほしい。
そこで起こったことは、たったひとりの盲人の目が開かれた、ただそれだけであります。ただそれだけのことと、今ここに生きるわれわれの生活と、いったい何の関係があるかと、疑わないでいただきたいのです。今度は少し先の話を先取りすることになりますが、第8章の29節には、「あなたは、メシアです」という主の一番弟子、ペトロの信仰の言葉が書いてあります。まさしくこの方こそ、神から遣わされたメシア、救い主であったのですが、そのお方がここでは、その神の子キリストの力のすべてを注ぎ込むようにして、ひとりの人の目を開いておられる。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。その主イエスの、苦しいほどの思いに、私どもの思いを寄せなければならないと思うのです。
■この福音書の記事においてひとつ気になることは、主イエスがご自分のなさった奇跡について、徹底的に隠そうとしておられることです。癒やしのわざをなさる前に、まず盲人の手を取って村の外に連れ出し、つまり人気のない所に連れて行かれました。不思議なのは最後の26節で、「イエスは、『村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された」と書いてあります。村に入らずに家に帰れなんて、いったいこの人はどこに住んでいたんだろう、と疑問を述べる人もいますが、多くの聖書学者は、単にマルコの文章の書き方が大雑把なだけだと考えます。確かに言われてみれば、完璧な言葉遣いで、完璧な論理で話されてもちっとも心に響かない言葉というものがあるだろうと思いますし、逆に言葉遣いが非常に大雑把であっても、不思議と内容が心に伝わってくる文章というものがあると思います。「村に行くな。すぐに家に帰れ」。要するに、村の人たちにぺちゃくちゃおしゃべりするな、と言われただけです。しかし、なぜでしょうか。目があっても見えないからです。耳があっても聞こえないからです。このような奇跡を目の当たりに見ても、人びとの目は決して、ご自分のことを正しく理解しない目であることをよく知っておられたのであります。
だからこそ、それだけに、このときの主イエスの苦しいほどの思いに、私どもの思いを寄せなければならないと思うのです。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。せめて、この盲人には分かってもらいたい。せめて、いちばん近くにいる弟子たちには、わたしが今、何をしているのか、何のためにこのことをしているのか、なんとか分かってもらいたい。「まだ悟らないのか」。
その関連ということにもなりますが、もうひとつこの聖書の記事で気になるところがあると思います。23節には、「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その両目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった」と書いてあります。福音書には主イエスが癒やしのわざをなさる記事がたくさん出てきますが、その中でもここでの仕草は、際立って丁寧です。「その両目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて……」。どうしてこんなに丁寧なんだろう。しかも、にもかかわらず、この盲人はただちにはっきりと見えるようにはならなかったらしいのです。「あ、人が見えます! あ、いや、違った、木のようです。あれ、でも、木が歩いていますね?」「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった」(25節)。イエスさまにしてはずいぶん手こずっておられるようだという感想もあり得るかもしれませんし、聖書の学者たちの中にも、「このイエスのダブル・アクションは、この奇跡がいかに困難であったかを示すものであろう」などと説明する人もいます。「何をばかな、イエスさまに難しいことなんかあるか」と思われる方もあるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。むしろここでは、「イエスさまにも難しいことがあったんだ」、そのことに気づくことの方がずっと大切だと思います。目があっても見えない、見ようともしない、耳があっても聞こうとしない、そういう人の目を開き、耳を開くということが、主イエスにとってもどんなに難しいことであったか。それはただちに、この私自身の話になるのです。
私どもには目があるのですから、神さまは私どもひとりひとりに目を与えてくださっているのですから、見るべきものを見なければならないと思うのです。いったい、何を見なければならないのでしょうか。主イエスは、私どもに、何を見せようとしておられるのでしょうか。そのために主イエスは私どものためにも、一度だけでなく、二度、三度では足りず、何度でも、ことにこの礼拝において、私のためにも目にその両手を置いてくださって……その仕草にも表れている、主イエスの苦悩と、悲しみと、それでも私どもの目を開こうとしてくださる主の熱情に気づかなければならないと思うのです。そのために、マルコという人は、この福音書を書いたのだと思うのです。
■マルコによる福音書を日曜日の礼拝で読み始めたのは、昨年の9月、ちょうど1年前です。最初の計画では2年くらいかかるかなと思っていましたが、もう少し長くかかりそうです。それにしても、この福音書は16章までありますから、だいたい半分くらい読み終わったと考えてよいでしょう。ただ数字の上で半分というだけでなくて、内容から言っても、この第8章の終わりのところにマルコ福音書の〈峠〉があると、多くの人が考えます。峠というのは、私も昔若い頃に学んだ表現ですが、とても分かりやすい、適切なイメージだと思います。旅をしている人が、大きな山を越えなければならない。あの峠を越えなければ先に進めない。一所懸命登り坂を登り詰めて、ようやく峠を越える、というときに、目の前に広大な景色がパーッと広がります。峠に立ちながら、今まで歩いてきた道を振り返るかもしれない。しかし何よりも、これから歩いて行く道をしっかりと確かめて、自分たちが目指すべき場所はあそこだ、ということをしっかりと確かめながら、新しい思いで山を下りていくのです。そのように、このマルコによる福音書がわれわれをどこに連れて行こうとしているのか、その目指すべき場所がはっきり見えてくるのが、この第8章の終わりのところであると言われます。目が開かれるのです。
けれどももちろん、ここで完全に目が開かれるわけではありません。なお残り半分、主イエスは弟子たちと共に、無理解な弟子たちと一緒に歩んで行かなければなりません。そういう弟子たちのために、それはつまり私どものために、主イエスがどんなに苦労しなければならないか、それがますますよく分かってくるのです。
このあと、27節以下で、それこそここが福音書の峠であると言わなければならないかもしれません、ペトロという弟子が、「あなたは、メシアです」と、信仰を言い表します。見るべきものが見えたのです。まさしくここに、福音書の中心点があると言ってもよいのですが、けれども、それで終わりではありませんでした。そのように信仰を言い表させていただいたペトロの目が、実はどんなに曇っていたかということが、すぐに明らかになります。さらに31節以下を読むと、主イエスご自身が、そのとおり、わたしは神からのメシアである。救い主である。そのわたしが救い主としてどのような道をたどるか、ということを説明するように、こう言われました。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた(31節)。
そうしたら、ペトロはすぐにこれを打ち消しました。「ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(32節)と書いてあります。人間が神を叱ったのです。「違うでしょう。あなたはメシアなんだから、ちゃんとしてくださいよ」。目があっても、見えなかったのです。そんなペトロに、主イエスは「サタン、引き下がれ」と言われました。「お前は、悪魔だ」。私どもも、しばしば悪魔的になることがあるだろうと思います。「神さま、神さまなら、ちゃんとしてくださいよ。わたしがこんなに苦しんでいるのに、みんながこんなにたいへんな思いをしているのに、何が十字架ですか。何が復活ですか。ちゃんとしてくださいよ」。まるで、そんな私どもの姿を見透かすかのように、ここで主イエスがひとりの盲人の目を開くために、一所懸命手を尽くし、言葉を尽くし、思いを尽くしておられることに、今私どもの思いを寄せなければならないと思うのです。
■「サタン、引き下がれ」とまで言われてしまったペトロですが、だからと言って、ペトロが言い表した信仰の内容、それ自体がでたらめであったというわけではありません。「あなたは、メシアです」と言い表したペトロの信仰は、それがそのまま、その後今に至るまで二千年に及ぶキリスト教会の信仰の土台となりました。「メシア」とわざわざ当時の言葉で書いていますが、私どもの言い慣れている言葉で言えば「キリスト」ということです。「イエス・キリスト」。「イエスは、キリストである」。繰り返しますが、まさしくこの瞬間、見るべきものが見えた。それは、主がペトロの目を開いてくださったのだとしか、言いようがないのです。そののち何度弟子たちの目が曇るようなことがあったとしても、その目を開いてくださるのは主イエス・キリストであり、今もいつもこのお方が共にいてくださる。今、私どもの礼拝を受けていてくださる。そのことを感謝して振り返るような思いで、マルコもまたこの福音書を書いたと思います。
第8章の14節に、こう書いてありました。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった」。パンがひとつしかない。どうしよう。そのことを巡って、また弟子たちの目の悪さが露呈していったわけですが、ある人がこの14節をこのように訳して見せました。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、ひとつのパンを除いて、舟の中には何も持ち合わせがなかった」。これは記憶するに足る名訳だと思います。もちろん言っている内容は同じなのです。「舟の中には何も持ち合わせがなかった。ひとつのパンを除いて」。そのひとつのパンというのは、もちろん実際にこのとき、弟子たちが最後のひとつのパンを見つめて、絶望していたということでもあったでしょう。けれどもまた、マルコによる福音書がここで、隠れた形でひとつのメッセージをそっと置いたと読むこともできると思います。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には何も持ち合わせがなかった。ただし、ひとつのパンを除いて」。「私は命のパンである」(ヨハネによる福音書第6章48節)と主イエスご自身が言われました。「これを食べる者は死なない」(同50節)。
あれが足りない、これが足りないと嘆き続けているのが、私どもの生活であるのかもしれません。そんな私どものために、十字架につけられ、復活なさった救い主が与えられても、「何が十字架ですか、何が復活ですか」と文句を言い続けているのが、私どもの目の悪さであるのかもしれないのです。けれども、「その弟子たちの舟の中には、本当に、何もなかった。ひとつの命のパンを除いて」。そのひとつのパンがありさえすれば、弟子たちは生きることができます。しかし、もしそのひとつのパンの意味を見出すことができなければ、私どもも死ぬのです。だからこそ、主イエスはあそこでも、そして今ここでも、「目があっても見えないのか」と言われるのです。わたしが、共にいるではないか。
「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」。「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
まだ悟らないのか。わたしが、ここにいるではないか。あなたと共に、いるではないか。そのために、今も私どものために、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、私どもの目を開こうとしてくださる主イエスのみわざを、感謝をもって受け入れたいと思います。お祈りをいたします。
私どもの主イエスよ、あなたは今も、私どもの目を開こう、耳を開こう、心を開こうと、思いを尽くしておられます。聖霊を注いで、主の思いに気づかせてください。あなたが共にいてくださるならば、私どもは生きることができます。この教会という舟の上に、何がなくても、命のパンであるイエスさまがいてくださるならば……私どもの固く閉じた目に、あなたが手を触れてくださり、どうか明るいまなざしに変えてくださいますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン