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香りの家

2023年8月20日

ヨハネによる福音書 第12章1-11節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

主イエスというお方はいつもお独りでした。
孤独という言葉を使っていいかわかりません。
主イエスには、そのお傍にお弟子さんたちが何人もいたのです。そして信じる人たちもたくさんおりました。でも、主のそのお心をほんとうに知ることは、まだ誰にもできませんでした。

今日はナルドの香油という出来事です。
主のご受難の前兆となった出来事です。

主イエスが、いざ十字架に向かわれる時にも、主はお独りでしたけれども、でもその途上で、思いがけずに、一つの愛に出会われたのです。

一人の人が、主イエスにナルドの香油という高価な油を注ぎました。その香油は一滴だけでもとても香りのするものでしたが、でもその人が注いだ量は326グラム。多いか、少ないか。私どものコップ2杯分。でもその価値は、およそ300万円ほどでした。そんな、もしかしたらこの人の、一生分の財産であったかもしれない香油を、この人はすべて、主の御前に献げて、その足に、注がせていただきました。
その香りは、その家の中をいっぱいにして。
主イエスを送るにふさわしい、
人がなしうる最大の献げものとなったのです。

この前に、ラザロの物語がありました。
主イエスが一人の青年ラザロを、死からよみがえらされたのです。その出来事はたちまち大ニュースになって、ユダヤのエルサレムにも届きました。死んだ人がよみがえったなどということは、誰にも信じがたい奇跡であったのですけれども、世界地図で言いましたら、今のイスラエルのエルサレム、そこからわずか3キロほどしか離れていない小さなベタニアという村で、そのことは起こり、そして世界の本当に小さな一点で、命の光が放たれたのです。世界が一変するほどの私どもの「希望」がそこから放たれたのです。その光の輝きは、今は世界中に広がっています。

でもそのことがきっかけになりまして、エルサレムのユダヤの指導者たちは、密かに主イエスを殺そうと決めました。それまでしきりになされていた彼らと主イエスとの論争もパタッと止みました。そしてラザロのこの復活の奇跡も、もう論争にはなりませんでした。それよりも、ユダヤの指導者たちの関心は一つの方向に定まりました。「この人は死に価する」ということです。
もうこれ以上、この人を信じる人が増えないように、そしてこの人のことで、あらぬ疑いをかけられて外国から攻められないように、この人の命を差し出そう。

そうして主イエスを捕えるための、網が投げ込まれました。この人を見かけたら、誰でも通報するように、そういう命令が出たのです。それでそのあたりはこの話で持ちきりになりました。もうすぐ、ユダヤの大事な、過越という祭りがあるけれども、そこに集まってきた人たちも、しきりに話しました。果たしてあの人は祭りに来るだろうか。いや、そんなことはない。あの人はきっと、来ないだろう。

エルサレムで、密かに計画されていた時、
主イエスはベタニアから離れて、エフライムという、静かな、砂漠のようなところにおられました。

そのあいだのことは、父なる神様と主イエスしかご存じありません。でも、その静かな時間があったことを、聖書は伝えます。そしてまもなく、その時が迫りました。続く週は、受難週になりました。その時、
主は、エルサレムに向かって出発されました。

死刑の判決が下っていたその決定の中に、
主は進んでゆかれたのです。

そして過越祭の6日前に、主はベタニアの村に入られました。ラザロとその姉妹、マルタとマリアがいるベタニアの村です。主は「彼らを愛しておられた」(11:5)と言われた、彼らがいるこの家が、エルサレムへの入口の家となりました。

この家はとてもあたたかい家でした。あたたかい食事が主イエスのために用意されました。でもその食事はラザロに起こった、神様の大いなる業を記念するお祝いの席でした。その真ん中には、主イエスが、死者の中からよみがえらされたラザロがちょこんと座っていました。多くの人がそれを囲んで、戻られた主イエスを迎え、ラザロと一緒におられるお姿を、嬉しく見たのです。すでに、主イエスを見た者は通報せよと言われていたので、逮捕状が出ている主イエスを家にお迎えすることは、それ自体、危険なことでしたのに、そんなことは関知しない喜びが、この家にはありました。

そしてそこにはいつもの光景が広がっていました。姉のマルタは食事の世話で働いて、弟子たちも同席していました。そしてそこに、一人の人が進んできたのです。

「その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。」
「家は香油の香りでいっぱいになった。」(12:3)

この家は、この純粋な香りで、いっぱいになったのです。

でもその時、弟子のユダがマリアに言いました。

「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(12:5)

空気が無残に変わりました。ユダは、マリアがしたことを無駄遣いだと責めたのです。この分のお金があったら、いったい何人の人が、何日食い繋げると思っているのか。それはほんとうにまっとうなことでした。貧しい人をたすけることは神様の掟でしたので、それにそこにいて、これを聞いた多くの人たちの情にも強く訴えるものだったのです。マリアは多くのお金を使って、過ちを犯したのだ。

でもそのユダについて、聖書はこう言いました。

「イエスを裏切ろうとしていた。」(12:4)

すでに主を裏切ろうとしていた。もう離れようとしていた。そして彼は嘘をついていた。彼は、ほんとうは貧しい人を思っていたのではなかった。彼は会計を任されていたのに、中身をごまかして盗んでいた。

「愛なき愛」と言った人がいました。
愛に見えて、ほんとうはそうではなかった。
ユダにはもう愛はなかった。

でもそんなことは、突き詰めれば自分にも返ってきます。愛に見えて、ほんとうはそうではなかった。人の愛はどこか、おしまいには自分のことを考えてしまうようなところがあって、自分が嬉しいとか気分がいいとか、これでよかったとか、自分の気持ちのほうが大きくなってしまうのです。でも案外それで愛だと思ってしまうのです。けれどもほんとうには、その人のことを考えてはいなかった。ほんとうは自分のことを考えていた。

そんなことからしたら、マリアがしたようなこんなことは嫌で仕方がなかった。いい子ちゃんに見えてならなかった。余計なおせっかいみたいなことを言って、でもほんとうは腹が立って攻撃したくなったのかも。それに主イエスに対しても、攻撃したくなったのかも。
このあとユダは主イエスをお金に替えます。ただそのことも、主イエスはご存じなかったのでしょうか。でも、もう第6章で、すでに主は、裏切る者がいるのだと、そのことをご存じでした。それなのにそのあと、彼に会計係を任されました。主はずっと、ユダを信頼しておられました。

そして主はユダに言われました。

「この人の、するままにさせておきなさい。」(12:7)

これは私の葬りのためなのだから。

埋葬の日に、死者に塗る香油を、この人は、私のその日のために、取っておいたのだ。(12:7)

主はマリアがしたことを、「私の葬りのためにしてくれた」と受け取ってくださいました。

ユダはそれをどう聞いたのでしょう。「私の葬りのために。」それを主はユダにも言われたのかもしれません。このあと何が起こるか、私は知っていると。そして続けて言われました。

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」(12:8)

貧しい人には、これからあなたがたが、いくらでも一緒にいてあげられる。しかし私には、残りわずか。時間は長くない。
そう言われて、主は残る人たちにもほんとうの愛を促してくださったと思うのです。

愛とは何か。

愛とは、ほんとうにその人のことを思うこと。
自分のことは思わないこと。

主イエスみたいに。

マリアはたった一人だけ、主のお心を察したのかもしれません。何かを感じ取ったのかもしれません。主がこれからどこに行かれて、そして何をなさるか。そう思ったら、もうラザロにはこの香油は要らなくなった。その代わりに、この方の香油になった。そのために取っておかれたものだった。この時マリアは地べたに伏しています。全身を献げています。誰か愛する人を死に送るなんて、弟の時は泣き崩れたマリアでした。まして、主を送るなんて、崩れるしかないのに、もう自分じゃない。
この方のことだけ。

だからこの方をお止めすることは、愛ではないのです。
自ら進まれる愛。
それに応える、愛だけなのです。

主を愛するなんて、
自分にはない、なんて言えるでしょうか。こんな自分が、とか、謙遜したり、畏れることもありますけれども、この思いは、自分からなんて出て来ないで、この方から生まれてきたのです。

「純粋」とありました。香油のことです。
「純粋な」とは、ほんとうは「忠実な」と訳されるものです。油を注ぐということは、旧約聖書の昔から、神様の特別な任務にあたる人が受ける儀式でした。マリアもそれを知っていたと思われます。
その「油注がれた者」、「キリスト」
その名前をほんとうに持つ方。
その方に全てを献げて「私の主よ」、という「忠実」。
それは私どもの、一生分にあまりある
私どもの愛なのです。

主はお独りだったけれども、それを持って行ってくださいました。

詩編第23篇には、こうありました。

「私を苦しめる者の前で
あなたは私に食卓を整えられる。
私の頭に油を注ぎ
私の杯を満たされる。」(詩編23:5)

主が香油を注がれた時、主は父なる神様が私に香油を注いでくださったと思われたと思います。父なる神様が、この「忠実な」わが子に、ふさわしい食卓を整えて、そして一人の信仰者をとおして、その香りで満たしてくださいました。

この香油は一滴だけでも香りがしたのですから、その香りは長く続いたものと思われます。このあと、主がエルサレムに入られてからも、そしてその足に、釘が打たれたときも、
主を満たした、この家の香りです。

 

天の父なる神様
純粋で素直な愛をいま、お献げいたします。清めてお受けください。
主の御名により祈ります。アーメン