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本物の祈り

2023年8月13日

マルコによる福音書 第7章24-30節
川崎 公平

主日礼拝

■既に教会の図書委員会の方たちが宣伝をしてくださっていますが、私と、もうひとり旧約の専門の先生との共著という形で、新しい本を出すことになりました。『聖書の祈り31』という題がついています。「31」という数字はつまり、ひと月31日分の聖書の言葉と、それを説き明かす文章と、最後に短い祈りの言葉が添えられている。そういう書物です。月末には受付のカウンターで販売できると思います(本屋さんで買うよりも2割安くなりますので、ぜひ)。自分で言うのもおかしいのですが、良い本を出すことができたという感触があります。

この本の主題は、読んで字のごとく、「聖書の祈り」、聖書から祈りを学ぼうということです。この本のあとがきにも私が書いたことですが、信仰のあるなしにかかわらず、すべての人が「祈りたい」という根源的な願いを持っているものだと思います。けれども問題は、私どもはどう祈るべきかを知らないのです。信仰のあるなしにかかわらず、私どもは根源的な意味で、どう祈るべきかを知らない。だからこそ、神さまに祈りを教えていただくのです。神ご自身が、私どもの祈りを待っていてくださいます。その祈りの言葉もまた、神に教えていただくのです。それは結局、聖書から祈りを学ぶ、ということにしかならないだろうと思います。

■マルコによる福音書第7章の24節以下を読みました。非常に印象深い聖書の記事であり、ことに私どもが祈りの生活を作るというときに、たいへん多くのことを教えてくれるところだと思います。その終わり近くの29節に、「その言葉で十分である」という主イエス・キリストの言葉があります。実はこの翻訳は、必ずしも原文の直訳ではないのですが、この主イエスの発言の意図を実に的確に汲み取った、よい翻訳であると思います。このところを、さらにいろんな他の翻訳と読み比べてみると、興味深い勉強をすることができると思いますが、私がいちばん心を惹かれたのは、柳生直行という人の翻訳です。長く関東学院で教えた英文学者ですが、たったひとりで新約聖書全体を翻訳しました。これがたいへん面白いのです。柳生先生はこのところを「その言葉が聞きたかったのだ」と訳しました。これも理解の方向としては聖書協会共同訳と似ています。「その言葉で十分である」。「そう、その言葉! わたしが聞きたかったのは、まさしくその言葉なんだよ!」

私どもの祈りは、果たして、そのように主にほめていただけるものになっているでしょうか。皆さんも、信仰者として生きている以上、毎日祈りをしておられると思います。その祈りの形、祈りの態度、あるいは祈りの言葉は、人によって本当にさまざまだと思いますし、そうあるべきだろうと思います。けれども、そこで改めて問い直してみてもよいかもしれません。「その言葉で十分である」、「その言葉が聞きたかったのだ」と主イエスに言っていただけるような、そういう祈りを私どもはしているでしょうか。「祈りとは、自由なものである。型にはまった祈りなんかしたくない。俺は自分の好きなように祈るんだ」という感想もあり得るかもしれませんし、そういう考え方にももちろん真実が含まれているだろうと思いますが、祈りとは神との対話、キリストとの対話ですから、対話というのは独りよがりであってはなりません。しかし、案外私どもは、祈るときにこそ独りよがりになるかもしれません。祈りとは、基本的にひとりでするものだからです。夫婦と言えども立ち入ることのできない世界がそこにはあります。だからこそ、独りよがりになりやすいのです。私どもの独りよがりの祈りを主イエスがお聞きになって、「ええ……? そんな言葉、聞きたくないんだけどなあ……」と、主イエスをうんざりさせるような祈り、主イエスを悲しませるような態度、主イエスを失望させるような言葉しか口にしていないとしたら、こんなに悲しい話はないだろうと思います。

ここに出てくるシリア・フェニキアの女は、〈本物の祈り〉をすることができました。「あなたの、その言葉、その祈りを、わたしは聞きたかったのだ」。そうおっしゃった主イエスご自身、どんなにうれしかっただろうかと思うのです。

翻って、私どもの祈りは、「その言葉が聞きたかったのだ」と主イエスに言っていただけるような祈りになっているでしょうか。もしそうなっていないなら、それはなぜでしょうか。そのようなことを考えれば考えるほど、このマルコによる福音書の小さな記事は、きわめて多くのことを考えさせてくれると思うのです。

■話のあらすじについては、何も難しいことはなかったと思います。発端は、ひとりの女が主イエスのうわさを聞きつけて、その足元にひれ伏したというのです。「助けてください。わたしの幼い娘が汚れた霊に取りつかれて、どうしようもないのです。どうか、助けてください」。私は、幼い娘を持ったことはありませんが、幼い息子なら今も一緒に生活していますから、こういう話を読むとそれだけで心がきりきり痛むのです。そしてきっと皆さんも、この女の気持ちがよく理解できると思います。きっと同じように神に祈ったことがあると思うのです。「助けてください。わたしを助けてください。子どもを助けてください」。

ここには「ひれ伏した」と書いてあります。自分のためならひれ伏さなくても、子どものためならいくらでもひれ伏すという方は案外多いかもしれません。皆さんは、本当にひれ伏したことがあるでしょうか。ひれ伏した結果、どういうことになったでしょうか。いや、もっと簡潔に問います。ひれ伏して祈った、その皆さんの祈りは、聞かれたでしょうか、聞かれなかったでしょうか。

この聖書の記事の中で、ある意味でいちばん印象に残ってしまうことは、この女の祈りが、少なくともすぐには聞かれなかったということです。それどころか、主イエスはこの女の祈りをかなり厳しく拒絶しておられるように見えます。「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」(27節)。ある人はこの主イエスの言葉を説き明かしながら、「この言葉を聞いたとき、この女の心も肉体も粉々に砕けた」と書いています。そう書いた人自身が、自分の心を粉々に踏みつぶされるような思いを抱いたのかもしれません。

「子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」と書いてあります。ここで言う「子どもたち」というのは、ユダヤ人のこと、選ばれた神の民、イスラエルのことです。けれども26節には、「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と書いてあります。それはつまり、彼女はユダヤ人ではない。神の民ではない。そういう事情が、27節ではこう言い表されているのです。「お前はうちの子どもじゃないだろう。ただの犬だろう。だから、お前の分はないんだ」。いくら何でもひどすぎます。

いくら何でもひどすぎるのですが、だからこそ、改めて丁寧に問いを深めていかなければならないと思います。皆さんは、この聖書の言葉をどのようにお読みになるでしょうか。「ひどい。ひどすぎる。いくら何でもかわいそうだ」という読み方もあるでしょうが、それはまだ聖書を他人事として読んでいることになると思います。本当の問題は、皆さん自身です。皆さんは、特に必死にお祈りをしたというときに、こういう祈りの返事を神さまからいただいたことはあるでしょうか。「あなたは犬だから、あなたの祈りに応えるわけにはいかないんだ」。もしかしたら、長い人生の中で一度や二度は、そういう経験があるのではないでしょうか。一所懸命祈ったんです。昼夜問わず、状況が許すなら床にひれ伏して祈ったんです。それなのに、わたしの祈りはどうも無視されているようだ。わたしはこんなに苦しんでいるのに。わたしの娘がこんなにみじめな状態に落ち込んでいるのに。神よ、わたしたちが子どもではなく、犬だからですか? 犬だから、答えてくださらないのですか? そういうとき、このように祈ったことがあるでしょうか。

「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」。

「その言葉が聞きたかったのだ」と、主は言われました。皆さんは、このような祈りをしたことがあるでしょうか。

■この聖書の記事については、きっと皆さんも、いろいろと気になることがあると思います。しかし、まず何と言ってもあの27節の言葉について、予想される誤解を解いておかなければならないと思います。「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」と、こともあろうに、あのイエスさまがそうおっしゃったというのですが、この発言だけはどうしても受け入れられないという方は、決して少数ではないと思います。いくら何でもこの言い方はないだろう。だいたい「犬」とは何だ。犬とは異邦人のことだと説明しました。当時のユダヤ人のものの言い方の中に、ユダヤ人以外の異邦人を「犬」と呼ぶ、そういう差別的な表現を見つけることができるそうです。それなら、主イエスもまたそのようなユダヤ人特有の差別意識を共有なさったのでしょうか。ユダヤ人としては常識的な答えとして、「お前は犬だから、人間扱いするわけにはいかないのだ」と言われたのでしょうか。決してそうではありません。

既にこの第7章の前半に、食事の前に手を洗うか、洗わないかという問題をめぐって、ファリサイ派の人びと、律法学者たちと険しい論争をしなければならなかったという話がありました。しかもこのような対立は、マルコ福音書のほとんど最初からあらわになっていたことです。したがって、「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである」と主イエスが言われたからといって、その子どもたちと主イエスが和気あいあいと食事を楽しんでおられる姿を想像するならば、それはまったく事実に反します。むしろここで言う「子どもたち」というのは、神さまからおいしい食事をいただいたのに、その食事をちゃぶ台ごとひっくり返すようなことしかしなかったのであります。

そのような主イエスが、それでも、「まず、子どもたちに」とおっしゃったのは、実は、決して尋常なことではないのです。子どもたち、すなわちユダヤ人です。救いはユダヤ人から始まるということは、これは聖書が一貫して語っていることで、この神のご計画に揺らぐところはひとつもありません。けれどもそれは、ユダヤ人が特別に優れているとかそういう話ではまったくないのであって、ただ神が救いのご計画を、計画通りになさったというだけのことです。ところが、まずその子どもたちに十分に食べさせようと思って、神の御子イエスがおいでになったとき、その子どもたちはパンを丸ごと床に放り投げました。ですから、主イエスがここで、「まず、子どもたちに」と言われたのは、実は、絶望すれすれのところで発せられた発言であったということを、よく理解しなければなりません。

まだ触れておりませんでしたが、この段落の最初の24節に、実は大事なことが書いてあります。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方へ行かれた。ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが……」。「そこを立ち去って」というのはつまり、手を洗う洗わないということでファリサイ派と論争した、その場所から立ち去ったということです。この「立ち去った」という小さなひと言に、既に神の裁きが言い表されているのかもしれません。神ご自身に他ならないお方が、まるでご自分の子どもを見捨てるかのごとくに、遠くに立ち去ってしまわれたのです。立ち去って、「ティルスの地方へ行かれた」。ティルスという地名がピンと来なくても、文脈から分かるでしょう。ユダヤ人のいないところに退かれたのです。そして、「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられた」。まるで、主イエスが引きこもりになってしまわれたかのようです。「まず、子どもたちに十分に食べさせるべき」なのに、それなのに、あの子どもたちは、もうだめかもしれない。部屋の中に引きこもって、ここにいることを「誰にも知られたくない」、そういう場所で、絶望すれすれの祈りを続けておられた主イエスのお姿を、よく思うべきであります。

ところが、その主イエスの隠れ家を見つけ出し、そこに踏み込んで行った女が現われました。「わたしにも、パンを食べさせてください」。主イエスは深い悩みの中で……もしかしたら暗い声で、こうおっしゃったんだと思います。「わたしはね、まず子どもたちにパンを食べさせないといけないんだよ。このわたしの悩みが、お前に分かるか」。ところが、それに答えて女は申しました。「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」。その言葉を聞いた主イエスは、どんなにうれしかったかと思うのです。「その言葉で十分である。そう、その言葉! それをわたしは、聞きたかったのだ」。

■きっと皆さんも、いろんなことで、一所懸命祈ることがあるだろうと思います。ことに苦しい時。悩みの時。何と言っても、自分の大事な人が苦しんでいるとき。そして、自分が何も助けてあげられないとき、もがくように祈り続けることがあるだろうと思います。しかし、こういう言い方はそれこそひどいと思われるかもしれませんが、本当に私どもは祈っているでしょうか。私どもは、実はよく知っているのです。聞かれない祈りもあるということを。真剣に祈ったことがある人なら、そしてその祈りが真剣であればあるほど、私どもはそのことをよく知っているのです。しかもその上、そんなときに、「お前は犬だからね、子どもたちのパンをお前にやるわけにはいかないんだよ」と、もしもそんなことを言われたら、私どもはそれでも祈り続けることができるでしょうか。この女のように、ひれ伏し続けることができるでしょうか。

ところが、ここでたいへん際立っていることがあります。この女は、「お前は犬だから」と言われて、それをそのまま受け入れております。「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」。そうです、おっしゃる通り、わたしは犬です。しかもここで、「主よ」と呼んでいます。「主よ、主よ」なんて言葉は、聖書に山ほど出てきそうですが、実は案外そうでもありません。マルコによる福音書の中で、人間がイエスに向かって「主よ」と呼んでいるのは、この一箇所だけです。それだけにマルコは、心を込めてこの女の言葉を書き記したと思います。そうです、あなたはわたしの主。その主であるあなたが、小犬とおっしゃるのですから、その通りなのでしょう。子どものような扱いを受ける資格はない。権利もない。主よ、おっしゃる通りです。まさしくそこに、この女の強さがあったのではないでしょうか。私どもが何としてでも学び取らなければならない人間の強さが、ここに描かれているのではないでしょうか。

もしも私どもが、本当に主イエスから、「お前は犬だからな」と言われたりしたら、どうするでしょうか。ますます激しく祈り続けるかもしれません。怒り狂いながら、「犬とは何ですか! 人間扱いも、してくれないのですか! それでも神さまですか! 神さまは、わたしの祈りを聞く義務があるんじゃないですか!」 そう言って、むしろ祈ることなんかやめてしまうかもしれません。まさしくそこに、私どもの弱さがあるのではないでしょうか。

けれども、この女の祈りには、いらだちも怒りもありません。しかも、決してあきらめることもありません。決してあきらめることなく、主イエスの足元にひれ伏しました。そのひれ伏した姿勢をひとつも変えることなく、だからこそ、自分が実は犬でしかないということを素直に受け入れることができたし、もう一度申します、まさしくそこにこの女の強さがありました。そこに本物の祈りもまた生まれたのです。

この女は、ひれ伏したまま、こう申し上げました。「そうです、事実、わたしは犬です。子どものようにパンをいただく資格はありませんし、それで十分です。だって、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただくんですからね」。主イエスよ、あなたの恵みは、無限に豊かです。食卓からこぼれ落ちるパン屑でさえ、わたしの娘を救うには十分すぎて、そのパン屑を籠に集めようとしたら、きっと籠がいくつあっても足りませんよ。ですから、本当におっしゃる通り、子どものパンを奪って犬にやる必要なんかありませんよね。……「その言葉を聞きたかったのだ」と、主イエスは言われました。

再来週の礼拝で、この続きの31節以下を読みます。その最初のところには、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた」と書いてあります。まるでこのシリア・フェニキアの女の祈りに励まされて、「その言葉を聞きたかったのだ」、あなたのその言葉を聞いたから、わたしは立ち直ることができたよ、と言わんばかりに、主イエスはまた本来の働きの拠点に戻っていくことができました。もちろん、この女がいなかったら主イエスといえども危なかったかもしれないとか、そんな話ではありません。主イエスが私どもの祈りをどんなに喜んでくださるか、どんなに私どもの祈りを待っていてくださるかという話です。

食卓からこぼれ落ちるパン屑でも十分なほどに、神の恵みは無限に大きいのですから、だからこそ私どもの祈りにも無限の力があるのです。今私どもも心からひれ伏しながら、神の恵みをいただきたいと思います。お祈りをいたします。

 

父なる御神、私どもにも、本物の祈りを与えてください。あなたの恵みは、私どもの小さな心よりもはるかに大きいのです。「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」。あなたの恵みを、大きく、大きく追い続けたあの女のように、大きな祈りに生きることができますよううに。主のみ名によって祈り願います。アーメン