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人から出てくるものが人を汚す

2023年8月6日

マルコによる福音書 第7章14-23節
川崎 公平

主日礼拝

■いつも礼拝で読んでいるマルコによる福音書とあわせて、旧約聖書エレミヤ書第17章の9節以下を読みました。その最初のところに、「心は何にも増して偽り、治ることもない」と書いてあります。人間の心というのは、決して治らないのだ、というのです。この地上に存在するありとあらゆるものにまさって偽りに満ちているのは人間の心であって、しかもその人間の心が治ることは、決してない。これほど絶望的な発言は、なかなかほかに例を見ないかもしれません。

ときどき、聖書を理解しようとするときに、〈性善説〉〈性悪説〉という古い中国の思想が引き合いに出されることがあります。先にはっきりさせておきたいと思いますが、聖書の教えは性善説でも性悪説でもありません。性善説というのはつまり、人間の本質的な性格は善いものであるという考え方です。その善なる性質をきちんと伸ばしていかないといけない、そのために教育が大事だ、という考えを性善説と呼びます。ところがそれと正反対であるかのように思われる性悪説というのも、実は性善説とたいへん似ているところがあって、人間の本性は悪である。だからこそ、教育なり本人の努力なり、そういった後天的なことがとても大切なのだ、というのです。人間がよくなるために、教育がとても大事だ、あるいは本人の努力が大事だ、という点では性善説も性悪説も同じです。けれども、別に私はここで、ことさらに性善説とか性悪説とかをやっつけるつもりはないのですが、この両者に共通していることは、神はいないということです。性善説にも性悪説にも、神は不在なのです。

ところがここでエレミヤ書が語っていることは、「心は何にも増して偽り、治ることもない」。ただの性悪説ではありません。教育とか人間の努力とか、そんなことで人間の心が治ることは決してない。しかも、「誰がこれを知りえようか」と言います。この人間の心の現実に、誰も気づいていないではないか。「主である私が心を探り/思いを調べる」(10節)。そう言った上で、14節では神に向かってこう祈るのです。

主よ、私を癒やしてください。
そうすれば私は癒やされます。
私を救ってください。
そうすれば私は救われます。

もしも、神がわたしを癒やしてくださらなかったら。もしも、神がわたしを救ってくださらなかったら。もしも、神なんかいないということであるならば。もしも、そういうことであるなら、私どもには絶望しか残らないのです。

今日、8月6日という日付の日を、特別な思いで迎えておられる方は少なくないと思います。性善説とか、性悪説とか、そんなちっぽけな人間の考えを吹き飛ばしてしまうような悲惨がありました。しかもその悲惨な現実というのは、結局のところ、人間の心の現実でしかないのです。その人間の心の現実は、78年前も今も変わることはないし、預言者エレミヤが活動した2600年前ともまったく変わることはないのですから、8月6日という日付をことさらに強調する必要もないかもしれません。人間の心ほど偽りに満ちたものはない。それが治ることは絶対にない。そのことについて、私どもは、ある意味で、正しく絶望しなければならないと思うのです。絶望の中で生まれるひとすじの祈りを、ひとつに集めなければならないと思うのです。「主よ、私を癒やしてください。/そうすれば私は癒やされます。/私を救ってください。/そうすれば私は救われます」。

この預言者エレミヤの祈りが、そのまま肉体化したのが、主イエス・キリストであったと言うことができると思います。主イエスがこの地上においでになったとき、いつもこのお方の心の深いところには、あのエレミヤの祈りがあったと思います。「心は何にも増して偽り、治ることもない」。神よ、どうか、この人たちを癒やしてください。誰もこの人たちの心を治すことはできないのです。神よ、あなただけです。どうか、この人たちの心を、どうにかしてください。

■主の日の礼拝で、マルコによる福音書を読み続けています。今日は第7章14節以下を読みました。今読みましたエレミヤ書の言葉とまるで関係がないかのように思われるかもしれませんが、もちろん深い関係があると信じて、このふたつの聖書の箇所を読んだのです。この福音書の記事で問題になっていることを簡潔に言えば、人間が汚れるとはどういうことか、その汚れた人間が癒やされるために、あるいは救われるためにどうしたらよいかということだからです。ここでも主イエスは、私どものどうしようもない心を癒やすために、戦っておられます。

ところが、その戦いのきっかけになったことは、たいへん思いがけないことでした。先ほど聖書朗読をお聞きになって、どうも話が分かりにくいとお感じになったかもしれません。先々週の礼拝では同じ第7章の最初から13節までを読みましたが、今日も本当は、第7章の最初から読んだ方がよかったかもしれません。もともとのきっかけは、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしたということです。それを、エルサレムから来たファリサイ派の人びとと律法学者たちが厳しく注意したというのです。前回の説教でも申しましたが、この食事の前に手を洗う・洗わないという問題は、衛生上のことではありません。宗教的な行為です。そして、これまた前回も同じことを申しましたが、宗教的な意味で身を清めるために、手を洗ったり口をゆすいだりということは日本の神社にもありますし、おそらく万国共通のものがあるのだろうと思います。

それだけに、なぜ主イエスは食事の前に手を洗うということについて、ここまで激しく戦っておられるのか、そのことをよく考えないといけないと思います。主イエスはここで、「食事の前に手を洗うとか、洗わないとか、そんなこと、どうだっていいじゃないか」と言われたのではないのです。「食事の前に手を洗うのは、間違っている」と言われたのです。なぜでしょうか。14節以下に、このような主イエスの言葉があります。

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである」。

問題は、何が人間を汚すのか、という話です。主イエスは、「人から出て来るものが人を汚す」、つまり、汚れは人間の中から出て来るのであって、外から汚れが入ってくるわけではない、と言われたのです。もし外からのものが人間を汚すのであれば、その外からの汚れを少しでもシャットアウトしないといけないでしょう。手を洗って、うがいもして、何ならマスクもして。けれども、ここで主イエスが強力に主張しておられることは、外からのものが人間を汚すことは絶対にない。汚れは、人間の中から出て来るのだ。もし自分自身が汚れの発生源であるならば、どんなに手を洗ってもしょうがないのです。「心は何にも増して偽り、治ることもない」。「主よ、私を癒やしてください」。それができるのは、主よ、あなただけなのです。

■人間が汚れるとか汚れないとか、そんな話を聞かされても全然現実味を感じないという感想もあり得るかもしれませんが、本当はそんなことはないと思います。主イエスご自身もまた、たいへん分かりやすく、具体的に話をしてくださっています。21節以下には、私どもの「中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る」、その具体的な例を列挙して、「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒瀆、高慢、愚かさ。これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。表現としては、いかにもありきたりであるかもしれません。だがしかし、私どもの存在を汚してしまっているのは、まさにこのようなありきたりの事柄なのです。

たとえば最初のところに、「淫行、盗み、殺人」とあります。今も終わることのない戦争についてのニュースを見聞きしながら、もちろんその背後にはいろいろと難しい問題があるのでしょう。長い歴史の積み重ねがあり、国と国同士の複雑な力関係があり、けれども結局いちばん深いところには人間の〈心〉があるのであって、だからこそ、いつも戦争というのは、「淫行、盗み、殺人」と深い関わりを持つのです。いったい戦争と淫行と、何の関係があるかと考える人がいれば、それはたいへん迂闊な考え方だと思います。現実には、戦争と淫行とは切っても切れない関係があります。78年前の8月、戦争が終わったあと、占領軍が日本にやって来るというときに、日本の若い女性たちの多くが頭を丸刈りにして、つまり女であることを隠して地方に逃げたといいます。それは、日本軍の男たちが、外国に行ってどういうことをしたか、皆よく知っていたからです。

しかも、ここで主イエスが列挙しておられる12の悪徳は、何かしら私どもの毎日の生活と深く関わる事柄です。表現としてはありきたりであるかもしれません。事柄としてもありふれたものであるかもしれません。けれども私どもがいちばん悩み、苦しんでいることというのは、「姦淫」とか「貪欲」とか「悪意」とか「欺き」とか、こういういかにもありふれたことでしかないのです。本当に難しいことです。これらの悪徳を断つことは。

■ところが、ここに登場するファリサイ派の人びとは、徹底的に自らの汚れを取り除こうとしました。ファリサイ派というのが性善説であったか性悪説であったか、そんなことを問うてみてもあまり意味はないかもしれませんが、何となく似ているような気もします。出発点はどうあれ、自分で自分を善いものにしよう、自分で自分を清めようとするところは同じなのです。そのような生活の中で、食事の前に手を洗うという行為もまた大切な意味を持ちました。

しかし、ここでよく考えなければならないことがあります。そもそも、なぜ手を洗うのでしょうか。先ほどから申しておりますように、汚れは外から来ると考えて、だから手を洗ったのでしょうが、その外からの汚れって、いったい何でしょうか。ファリサイ派の見ていた具体的な汚れというのは、ばい菌の類ではありません。ウイルス対策のために手を洗ったのではないのです。そうではなくて、汚れた人びとが周りにいるから、その汚れた人びとを介して自分にも汚れが及ぶことを恐れたから、だから手を洗ったのです。その汚れた人びとというのは、当時の社会の文脈で言えば、典型的には徴税人のような人たちでしょう。徴税人というのは、言ってみれば、「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦」、これらすべての罪を公然と犯していたのが徴税人です。ファリサイ派は、そういう汚れた人との関わりを徹底的に排除しました。けれどもそのファリサイ派だって、徴税人のところに行って税金を納めたし、毎日の生活の中でお金に触れる、そのお金は、きっとどこかで徴税人が触ったに違いない。だから、手を洗ったのです。

ところが、主イエスというお方は、その徴税人たちと一緒に食事を楽しまれました。ファリサイ派をはじめ、すべてのユダヤ人が仰天したのがこのことです。どうして。あの人たちは、淫行、盗み、殺人、ありとあらゆる悪いことをやっているじゃないですか。おお~、汚らわしい! けれども、主イエスというお方は、徴税人たちと一緒に食事をなさったとき、食事の前にも、食事のあとにも、絶対に手を洗うようなことはなさいませんでした。もし、私どもの信じる救い主イエスが、徴税人と食事をしたから手を洗わなくちゃ、というようなお方であったとしたら、きっと私どもがこのように聖餐を祝うこともお許しにならなかったでしょう。今から聖餐をいただく私どもの心を、主イエスがご覧になって、「うひゃー、汚い!」と言って手を洗うようなことであったとしたら、そもそも私どもの礼拝は成り立たないのです。

しかもその上で、主イエスは私どもに言われるのです。食事の前に手を洗う必要なんかないんだよ。汚れはあなたの外にあるんじゃない、あなたの中から出て来るんだから。その汚れを、あなたはどうするつもりなのかね。

■私どもの周りにも、いろんな人がいるのであります。徴税人はおりませんが、主の祈りを祈るたびに、私どもは思い起こすのです。わたしに罪を犯す人がいる。あるいはまた、あの人のせいで、自分は罪を犯させられてしまう。子どもが。夫が。妻が。嫁が。教会の人が。そのために、悪意だの欺きだの、殺意すら生まれてくる。それで、私どもはしばしば考えるのです。「もう、いやだ」。この人間関係を断ち切って、ひとり旅でもしたらどうだろう。静かな無人島にでも行ってみたらどうだろう。あるいは修道院のようなところにこもってみて、しばらくひとりで静かなお祈りの生活をしてみたらどうだろう。そういう試みの全部が全部、間違っているとは言えないかもしれません。けれどもそこで、私どもが忘れてはならないことがあると思います。主イエスは、ただ手を洗わなくてもだいじょうぶだと言われたのではないのです。「汚れているのは、あなただ」と言われたのです。

子どもの頃、自分の影がどこまでも自分について来るのが不思議だったことがあります。自分が歩くと影も歩く。自分が止まると影も止まる。どんなに早く走っても、影はちゃんとついて来る。それと同じことです。人のせいにするな。食べ物のせいにするな。環境のせいにするな。あなた自身が汚れているから、あなたの中から、あらゆる悪いものが出て来るのではないか。その汚れを清めるためには、くり返しますが、世界中どこに逃げてもだめなのです。どんなに体中をごしごし洗っても無駄なのです。残された道は、ただひとつ、その汚れの根っこである自分自身が死ぬしかありません。そして聖書が明確に語ることは、その私どもの身代わりとして、主イエスが十字架につけられ、殺されたのだということです。

■やはり主イエスが徴税人たちと一緒に食事をしておられたときに、「なぜそんな汚らわしいことをするのか」と、ファリサイ派に詰問されたことがありました。マルコによる福音書で言えば第2章13節以下であります。そこで主イエスは答えて、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。私は昔、これは主イエスが徴税人をかばってくださった言葉であると読んでいました。けれどもあるとき、それは違うということに気づきました。明らかに、ここで主イエスは徴税人たちを裁いておられます。「この人たちは、病人なんだ。罪人なんだ。だから、わたしが来たのだ」。そしてその言葉を横で聞いていた徴税人たちも、よくわかったに違いないのです。その通りだ。われわれは、癒されなければならない病人なんだ。「心は何にも増して偽り、治ることもない」。「主よ、私を癒やしてください。/そうすれば私は癒やされます」。

徴税人というのは、考えてみればずいぶん特殊な職業なのです。その背後にはローマ帝国の支配がありました。ヨハネの黙示録が「獣の支配」とまで呼んだ、ローマの支配であります。もしそれがなかったら、そもそも徴税人なんていうやくざな職業も存在しなかったわけで、その意味では彼らは時代の犠牲者であったと言ってもよいかもしれません。当の徴税人たちだって、最初から徴税人を志していたわけではなかったかもしれません。親が悪かった。環境が悪かった。きちんとした教育を受けられなかった。いろんな不幸が重なって、いつの間にかとんでもないやくざな職業にたどり着いた人も多かったに違いありません。けれども、それでも、主イエスは決して、「あなたは悪くない、この社会が悪いんだ」という話はなさいませんでした。「悪いのは、あなただ」とおっしゃったのです。

「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。もしそのことがわかったら、私どもも、自分で自分の手を洗うことはありません。人のせいにすることもありません。ただ、罪人のわたしを招いてくださる主の前に立てばよいのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。主イエスよ、その通りです。

主よ、私を癒やしてください。
そうすれば私は癒やされます。
私を救ってください。
そうすれば私は救われます。

今、エレミヤの祈りを私どもの祈りとしつつ、主の食卓を祝いたいと思います。

 

「このわたしも、癒やされるのだ」と、確信をもってみ前に立たせてください。「このわたしが、癒やされなければならないのだ」と、砕かれ悔いる心をみ前にささげさせてください。「心は何にも増して偽り、治ることもない」とは、あまりにも厳しすぎるようですが、あなたは私どもの悲惨をよくご存じです。しかし、この病んだ世界の中に、主の食卓が用意されています。あなたのみ子イエスに愛され、招かれた罪人の祝いの食卓であります。ここであなたの癒やしのみ手に触れていただくことを、私どもの望みとさせてください。ここに世界の望みがあることを、私どもの確信とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン