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人を生かす神の言葉

2023年7月23日

マルコによる福音書 第7章1-13節
川崎 公平

主日礼拝

■マルコによる福音書を日曜日の礼拝で読み続けておりますが、それと合わせて、旧約聖書のイザヤ書第29章の13節以下を読みました。「この民は口で近づき/唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている」。痛々しいほどの、神の愛であります。そうではないでしょうか。「この民は、わたしの民なのに。それなのに、その心はわたしから遠く離れている。どうして、そんなに遠くに」。「痛々しいほどの」と申しましたのは、もう少し丁寧に言えば、私どもの信じる神は、痛みを知る神であるということです。その神の痛みを、私どもはしかし、すぐに忘れると思います。何度でも思い起こさなければなりません。「あなたがたの心は、どうしてこんなに、わたしから遠く離れているのか。どうか、戻っておいで」。そのような神の痛みの言葉、神の愛の言葉を、預言者イザヤはお預かりしなければなりませんでした。既にイザヤ書の冒頭、第1章の2節以下にこう書いてあります。

天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。
主が語られる。
私は子どもたちを育て上げ、大きくした。
しかし、彼らは私に背いた。
牛は飼い主を知っており
ろばは主人の飼い葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らない。
私の民は理解していない。

牛やろばでさえ、自分の飼い主のことを忘れることはないだろう。それなのに、私の民は。そう言いながら、なお具体的な問題に踏み込んでいるのは同じ第1章の14節です。神ご自身が、ここまで言われるのです。

あなたがたの新月祭と定めの祭りを
私の魂は憎む。
それらのものは私には重荷であり
担うのに疲れ果てた。

痛々しい、というのを通り越して、恐れを覚えないわけにはいかない神の言葉です。当時の神の民イスラエルが献げていた礼拝を指して、それはわたしにとって重荷でしかない、「私は疲れ果てた」と、神ご自身が言われるのです。もしも今、私どもの礼拝を神がご覧になって、「頼むから、もうやめてくれ、こんな礼拝は。あなたがたのしている礼拝は、わたしの重荷でしかない」と、もしもそんなことを言われたら、私どもは……いったい、どうすればよいのでしょうか。そういう神の痛々しいほどの思いが、第29章13節ではこのように言い表されていて、それを主イエス・キリストはマルコ福音書第7章で引用なさったのです。

「この民は唇で私を敬うが
その心は私から遠く離れている」。

遠く離れている者を、だから切り捨ててしまおうというのではありません。「その心は私から遠く離れている」。だからこそ、神の愛の戦いがありました。だからこそ、主イエス・キリストは私どものところにおいでになったのです。私どもの心も、きっと神から遠く離れているに違いありません。そんな私どもを、それでも、どんなことがあっても手放さないように。しかしそのために、主イエスはたいへん厳しい戦いをなさらなければなりませんでした。

■ここで主イエスが、ひとつの戦いの渦中に立っておられるということは、この福音書の記事を読めばすぐに分かると思います。ただそこで、少し戸惑った方もあるかもしれません。ファリサイ派の人びとと律法学者たちが、「イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」というのです。食事の前に手を洗うか、洗わないか。あまりにもばかばかしいというか、いったいこれがわれわれの生活と何の関係があるかと言いたくなります。しかも主イエスは、「そんなこと、どうだっていいじゃないか」とは言っておられないようです。ほとんどむきになって反論しておられるようです。手を洗うか洗わないか。なぜそんなことで、主イエスはここまで激しい戦いをなさらなければならなかったのでしょうか。

ここで問題になっている「手を洗う」というのは、衛生上の問題とか、感染対策とか、そういうこととは何の関係もありません。宗教上の問題です。しかもこの箇所を読めばすぐに分かることですが、非常に深刻な違反を意味しました。日本の神社なんかでも、正式に神さまにお参りしようと思ったら、手を洗ったり口をゆすいだり、それなりの作法があるのかもしれません。手を洗うという宗教的な所作は、万国共通のものだと思います。けれども当時のユダヤ人は、この点で徹底しておりまして、3節以下に書いてあるように、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを守り、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅の器や寝台を洗うことなど、守るべきこととして受け継いでいることがたくさんあった」。ところが、イエスよ、なぜあなたがたの弟子たちは食事の前に手を洗わないか。あなたがたはこのことによって汚れを招いた。神の前に立てなくなったんだ。しかしこのことについては、イエスよ、誰よりもあなたが責任を取らないといけないのではないか。

それに対して、主イエスは、イザヤが神からお預かりした言葉によってお答えになるのです。「この民は唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている」。あなたがたは、神の民なのに、どうしてこんなに遠く心が離れているのか。

あなたがたの新月祭と定めの祭りを
私の魂は憎む。
それらのものは私には重荷であり
担うのに疲れ果てた。

ファリサイ派が一所懸命手を洗い、自分を清めよう、あらゆる汚れから自分を守ろうという姿は、実はそれこそが、神を疲れさせるものであったに違いないのです。どうしてそんなことになってしまったのでしょうか。

■今日はさしあたり、13節までを読みました。本当は23節までを一気に読むべきであったかもしれませんが、たいへん豊かな内容を持つところですから、2回に分けて読むことにしました。ただ長すぎるから、というだけでなく、今日読んだ最後のところ、13節にひとつの中心点があると考えられるからです。

「こうして、あなたがたは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。

「これと同じようなことをたくさん行っている」というのはつまり、今話したことはほんの一例にすぎない、本当はほかにも言いたいことはたくさんあるんだけれども、あなたがたの生活全体をだめにしてしまっている根本的な問題があるのであって、それが「神の言葉を無にしている」ことだと言われるのです。神の言葉を無にしているから、だからあなたがたの生活が根本的にだめになっているんだ。この「神の言葉を無にしている」という、同じ趣旨の言葉を8節にも9節にも見出すことができます。「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。「あなたがたは、自分の言い伝えを重んじて、よくも神の戒めをないがしろにしたものだ」。神の言葉を無にしている、捨てている、ないがしろにしている。なぜそうなるかと言えば、あなたの心が神から遠く離れているからだとしか、言いようがないではないか。神は、あなたに語りたいのに、その心が遠く離れているから、言葉がひとつも通じないではないか。そう言われるのです。

しかしファリサイ派の人たちは、こんなことを言われても絶対に納得できなかったと思います。ファリサイ派以上に神の言葉を大切に、厳密に守った人たちはいなかったからです。ただ、ここでひとつ説明を加えておくと、旧約聖書の中に「食事の前に手を洗いなさい」という決まりを見つけることはできません。まさしく主イエスの言われる通り、「人間の言い伝え」なのです。けれども、そのことについても、ファリサイ派には言い分があったと思います。聖書に書いてある神の戒めだけでは、どうしても足りないのです。それに添えて、言ってみれば施行細則のような決まりがないと困るのです。

たとえば、「安息日をおぼえて、これを聖くすべし」という神の戒めがあります。しかしどうしたら安息日をきちんと休んだことになりますか。そのような疑問に答えるために、「人間の言い伝え」が整えられてきました。たとえば、エレベーターのボタンを「押す」という行為は、安息日に禁じられた労働に当たるから、今でもイスラエルでは安息日すなわち土曜日には、エレベーターは勝手にすべての階に止まることになっているそうです。もちろんお料理もだめ。でも前の日に作っておいたものを温めるのは大丈夫。それで、お鍋の温度を一定に保つための家電製品が売られているとか。そういうことの全部が全部悪いことではないかもしれません。特にわれわれ日本人は、もう少し「休む」ということについて真剣に考えた方がよいかもしれません。けれども主がここで言われることは、非常に単純です。

「この民は唇で私を敬うが
その心は私から遠く離れている」。

心が離れていたら、どんなに厳密に神の言葉を守って見せたって、何の意味もありません。「虚しく私を崇め」と7節には書いてあります。あなたがたの礼拝は虚しい。神にとって重荷でしかない。いったい、どこで間違えたのでしょうか。

■聖書通読会という、集会というか、ひとつの運動体のようなつながりがこの教会の中にありますが、最近始めたひとつの試みがあります。たとえば先週その通読会でマルコによる福音書を読み始め、読み終えました。その際に、マルコによる福音書の参考図書をいくつか紹介し、図書室に行くと、入り口にいちばん近い目立つところにその参考図書が置いてあります。もっともこの参考図書は私がひとりで選びましたから、偏りがあるかもしれません。なぜこんな話をするかというと、マルコによる福音書のすてきな説教集をひとつ紹介し忘れていたと思ったからです。キリスト品川教会の吉村和雄先生の『泉のほとりで』という、いわゆる〈一日一章〉と呼ばれる書物です。索引をうまく利用すると、マルコによる福音書のすべての箇所についての短い説教を読むことができるのですが、これが私自身の説教準備のためにもたいへん大きな助けになっています。マルコ福音書第7章1節以下について、こういう説教を書いておられます。その前半部だけ紹介します。

京都の大学病院にひとりの女の子が両親に連れられてやって来ました。もう三歳にもなるのに一言も言葉を話さないのです。いろいろな病院で調べてもらいましたが、どこも悪くないとのことで、原因がわからないのです。そこの病院の先生が診ましたが、やはり原因がわかりません。ところが、一休みしようとテレビをつけたとき、その子がテレビの歌に合わせて歌い始めたのです。驚いた先生が両親に尋ねて、初めて原因がわかったのでした。実は両親はその子が生まれて以来、ずっとテレビの前に座らせていたのです。育児がいやだったのではありません。両親とも東北地方の人で、言葉のなまりのためにずいぶんと苦労したのです。子供にはその苦労をさせたくないと思って、なまりのある自分たちの言葉より、きれいなテレビの言葉を覚えさせようとした、ということでした。医者は、テレビを消すこと、話しかけること、絵本を読んであげること、という処方を出し、その子はすぐに言葉が話せるようになりました。
言葉は記号ではありません。単なる情報の伝達手段ではないのです。言葉は心を伝えるものです。心が伝わらなかったら、言葉を聞いているとは言えないのです。その女の子はテレビの前で、誰の心も受け取りませんでした。言葉のあふれる中で、言葉を聞いていなかったのです。でもわたしたちはしばしば、言葉を聞きながら心を受け取っていないことがあります。……(以下略)

この話は、おそらくほとんど説明抜きにお分かりになるだろうと思います。ただ、ひとつ誤解のないように言い添えておくと、神は、絶対に、私どもをテレビの前に放っておくようなことはなさいません。神は愛です。神は私どもに、心の伝わらないような言葉をお語りになったことは、ただの一度もありません。神の心が、わたしの心に語りかけるような、そのような言葉しか神はお語りになりません。けれども問題は私どもです。この神の愛を私どもが忘れたとき、聖書の言葉をどんなに一所懸命読んでも、ただ文字を読んでいるだけで、その心は遠く離れている。きっと私どもも、そういうことがよくあるだろうと思います。

ファリサイ派も律法学者も、これ以上考えられないほど熱心に聖書を読みました。神の教えに従って生活しようと、1ミリの隙間も許さないほどの生活を作ろうと志しました。けれども、「その心は遠く離れている」ということであるならば……。ファリサイ派は、聖書の文字を一所懸命に追いながら、神の心を受け取ることはありませんでした。

「どうしてあなたがたの心は、こんなに遠く離れているのか。どうか、戻っておいで。神は、あなたの心に語りたいんだ」。主イエスが引用なさったイザヤ書の言葉には、神の悲しみ、そして主イエスご自身の深い悲しみが込められていると思います。私どもも、いつも問われていることだと思うのです。

■私どもに与えられた神の言葉、その中核と呼ぶべきひとつに、〈十戒〉と呼ばれる言葉があります。私どもも毎週、この言葉を礼拝の最初に唱えます。「我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり」。なぜイスラエルは、エジプトの奴隷状態から救われたのか。神の愛を受けたからです。あなたがたは、神に愛されているのだから、あなたがたは、神のものなのだから……。十戒もまた、最初から最後まで、このような〈神の心〉を受け取ったところに生まれたものでしかないのです。「主よ、わたしはあなたに愛されておりますから、わたしはあなたのものですから、だから、わたしはあなた以外のものを神とはしません。そんなことは考えられません。

その十戒の第5の戒めに、「父と母を敬え」とあります。なぜ主イエスがこの戒めだけをことさらに取り上げられたのか、その理由はよく分かりません。分かりませんけれども、よく分かるような気がします。神から心が遠く離れれば離れるほど、自分の父母からも心は遠いのです。あなたが敬うべき親を、遠ざけよう、遠ざけようとしているではないか。それはあなたの心が、神から遠く離れているからではないか。きっとそうであるに違いないと思うのです。

「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父や母を罵る者は、死刑に処せられる』と言っている。それなのに、あなたがたは言っている。『もし、誰かが父または母に向かって、「私にお求めのものは、コルバン、つまり神への供え物なのです」と言えば、その人は父や母のために、もう何もしないで済むのだ』と」(10~12節)。

ここもさすがに最低限の説明が必要でしょう。ひとつは、これは小さな子どもに対して「お母さんの言うことを聞きなさいね」という話ではないということです。十戒の「汝の父母を敬え」という教えが最初から、大人になった人たちに対して、責任を持って親の面倒を見なさい、ということであったのです。けれども、年老いた親のことが重荷になることは、悲しいことですが、どうしてもそういうことが時々起こります。特に聖書の時代の話ですから、年金とか介護制度とか老人ホームとか、そんなものはひとつもないのです。自分の時間とお金をささげて、親を支えないといけない。しかしそれはどうも、重荷だなあ……。

ところが、実にうまい抜け道が作られました。「もし、誰かが父または母に向かって、『私にお求めのものは、コルバン、つまり神への供え物なのです』と言えば、その人は父や母のために、もう何もしないで済むのだ」。お父さん、お母さん、これはもともとあなたのためのお金だったんですが、神さまに献げてしまいました。だから、あなたの面倒を見ることができません、自分で何とかしてください。……と、これだけ聞くと、あまりにもばかばかしくて、「どこがうまい抜け道だ、ひとつもうまくない」と思われるかもしれません。おそらくは、こういうことではなかったかと推測されています。どうも親と折り合いが悪いという人が、律法学者にお伺いを立てたのです。「先生、実は、父親のために使うはずのお金を、神に献げてしまいました。コルバンにしてしまいました。どうしたらよいでしょうか」。そうしたら律法学者は、「それはもちろん、神への約束の方がずっと大事だよ」と答えるに決まっているのです。

考えてみますと、こんなに神をばかにした話もないかもしれません。ここにこれだけのお金がある。本来なら、これは両親のために使うべきものだけれども、それだけは絶対にいやだ。神さまに献金した方がまだましだ。そんな献金を、神さまがお喜びになるはずがないのです。「それらのものは私には重荷であり/担うのに疲れ果てた」と言われても、何の文句も言えないでしょう。しかし、素朴に疑問に思うのですけれども、「これはコルバンですから、お父さんのためには使えません」と言って神さまに献げてしまったお金は、結局自分のものにはならないのです。親のためにも使えませんけれども、自分のためにも使えなくなるのです。そこまでして親を憎むということがあり得るというのは、考えてみれば不思議なことですが、まさしくそれが、私どもの罪の現実なのかもしれません。私どもも今、自分の親のことを思い、あるいは妻のこと、夫のこと、子どものこと、さまざまな隣人のことを思いながら、私どもに根本的に愛が欠けていることを、正直に悲しむべきだと思うのです。そんな私どものためにこそ、神の心、そのものであるような神の言葉が与えられているのです。

神は愛ですから、いつも私どものために愛を込めて、心を込めて、わたしの心に語りかけてくださいます。3年間、ひたすらテレビの前に座らされ、うつろな心で生きた女の子の姿は、もしかすると私どもの姿であるのかもしれません。けれども、神は愛ですから、私どもが心を開いて、神の心を受け取ることができるなら、私どもも生きることができます。

「この民は唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている」。どうしてそんなに離れているのか。戻っておいで。預言者の語る神の悲しみの心、神の愛の言葉を、今私どもも心で受け止めたいと思います。お祈りをいたします。

 

あなたの心からの言葉を、心から感謝いたします。あなたから遠く離れていた私どもも、今はあなたに招かれているのですから、あなたのみもとに立たせてください。私どもの罪を思います。自分の父のこと、母のこと、妻のこと、夫のこと、さまざまな隣人たちのことを思いながら、本当はひとりひとり、かけがえのない存在であるはずですが、罪深い私どもにとっては、それが邪魔でしかなくなることがあるのです。もう一度、あなたの最初の愛に帰ることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン