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好都合な人

2023年7月16日

ヨハネによる福音書 第11章1-14節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

このラザロの物語のある説教を聴いて、心から離れませんでした。その説教者は言いました。ヨハネによる福音書の第11章。
「ここは山の頂き」。

主イエスが、ラザロを死から呼び起こされたこの物語は、ヨハネによる福音書の「頂きだ」と、その説教者は言いました。ちょうど山を登って来て、高みに立った。それで何が頂きかと言ったら、この第11章は全部で21章あるヨハネ福音書のちょうど真ん中だから、というのもあるけれども、だけどもそれだけではない。
ラザロの復活物語。その山の頂きは、
頂上らしく眩しい光。

それだけで思いました。そこに私どもの光がある。私どもの命の光がある。
そこで主イエスは言われました。
「私は復活であり、命である。」(11:25)
それを聴いて、生きる希望を持った人もいる。それを聴いて、死の恐れに勝つ勇気をもらった人もいる。

その主イエスが、墓の前で、大きな声で、友を呼び出されました。「ラザロ!」
「出てこい!」「ここへ!」
すると暗い墓の中から、一人の死んでいた人が出てきた。
それがヨハネ福音書の頂点。

ですけれども、
その命が輝くような頂点で、その頂きで同時に、この光が殺される、ということが決まります。今日読みましたのはその第11章の終わりのところで、いわゆる大審院の正式な判断として、「このイエスという人を死刑にする」と決定が下される、そういうところです。そうしていよいよ、この時から主イエスのご受難が始まってゆきます。

この前まで、私どもはベタニアという村におりました。想像してみていただけるとよいと思うのですが、ユダヤ特有の乾燥した、白っぽい岩は柔らかくて、掘ることができたそうです。ですから、当時のお墓は岩をくり抜いた洞穴だった。だからそんな外の明るさとはまったく対照的に、洞穴の中は真っ暗で、そしてその中に、死んだラザロは葬られました。ところが、墓の石が取り除けられて、その奥の奥まで、主イエスの大きな声が貫かれると、死んだ人が墓の奥から出てきた。眩しくて、目がつぶされそうな光の中に出て来たのです。それは、この大きな声に引きずり出されたと言ってもいい。

でもそんな白い光景がまだ鮮明に残っている、そして主イエスの声がまだ響いている、そういうところで、でも急に場所が暗くなって、静まります。

「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して」(11:47)とあります。場所はエルサレムです。ユダヤの最高指導者たちがこのことを聞いて、すぐに集められました。主イエスが、ラザロをよみがえらせた出来事は、その墓にいて、そのことを目撃した多くの人たちを信じさせましたけれども、中にはエルサレムに告げるために、走った者もいた。
そのように墓で目撃した人の中から、あたかも、暗い墓の中にもう一度舞い戻るような人がいて、その最高法院は、洞穴のような冷たいところで密かに行われました。暗さと湿気とそして死の臭いがするような、そういうところで、彼らはざわつきました。どうしたらいいだろう。

彼らは言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう。」(11:47-48)

それはこういうことでした。この男をこのまま放っておいたら大変なことになる。皆が彼を信じるようになるだろう。そうしたら彼をメシアと信じる者たちが、ローマ帝国に反抗するかもしれない。暴動を起こすかもしれない。しかしそんなことが、もしもローマの耳にでも入ったら、ローマは黙ってはいないだろう。こちらをつぶしに来て、私たちのいる神殿も、それから国民も、皆破壊されて、エルサレムの都はひとたまりもないだろう。ということでした。

当時ユダヤはローマ帝国に支配されていましたから、でも広い帝国の中では、寛大にその地方の国々の自治権が認められていました。けれどももし、それに歯向かうようなことがあったら、ローマは黙ってはいませんでした。それで彼らは恐れました。
でも不思議なことに、彼らはラザロの出来事を知っても、主イエスのしるしは認めていました。多くのしるしを彼は行っている。でも彼らは、それで、じゃあどうするか。「私たちは彼を信じるべきだ」とは言いませんでした。そうではなく、彼をどうしたらいいか。この人をどうしたらいいか。この人は、恐怖でした。

でもそんな彼らの中で、一人だけ、冷静な人がいました。その年の大祭司であったカイアファという人です。カイアファは言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(11:49-50)

一人の人が、民の代わりに死ねばいい。
ゾッとするような発言でした。
カイアファは言いました。何をぐだぐだ言っているんだ。あなたたちは、何もわかっていない。この人が、民の代わりに死ねばいいんだ。

この人を殺せば解決。簡単じゃないか。
そうやって一人の犠牲で、他が滅びないで済むなら、こんな好都合なことはないじゃないか。

それで53節になりますけれども「この日から」とあります。53節「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。大祭司がこの日、こう言ったから、最高法院というユダヤの司法の場で正式に主イエスの死刑が決まり、そして57節「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」。そうして、逮捕状が出されました。

すなわち、大祭司のこの発言で、主イエスは殺されたのです。

ですけれども、ヨハネ福音書はすぐに、それに但し書きをつけました。51節と52節です。

「これは、カイアファが自分から言ったのではない。その年の大祭司であったので預言をして、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」

福音書は言いました。これは、大祭司が自分で言ったのではない。彼はただ預言したのである。だからこれは神の言葉である。
これは神から来たのである。

そのとおりで、大祭司というのは、神の言葉を取り次ぐ人で、預言する人でした。その大祭司を、神が用いられた。なぜなら、カイアファは「その年」の大祭司であったから。と福音書は言いました。「その年の」というのは、どの年か。

大祭司は祭司の中でも一人だけと言われていて、毎年替わるわけではなかったそうです。ですからカイアファも、この20年近くずっと大祭司を続けていたようです。それなのに、彼は「その年」の大祭司であったと言われる。おそらくこうだろうと言われています。それはまさに神が「このことを行われる年の」大祭司であった。神が、そうなさる年の「その年の」彼は大祭司であった。それで彼はその言葉を語らされた。
だからこれは、神の答え。

人が決めたけれども、人の最高の権力が決めたけれども、でもほんとうはそうじゃない。神が答えを出したのだ。
山の頂きでね。

そしてその答えはNO。審判。
罪は審かれる。
でも神の答えは、この人だということでした。
この人があなたがたのために死ぬ。
あなたがたのために最も好都合な人。
山の頂きの光。

 

その光が、これから死の闇の中に入ってゆく。
死を貫いて行く。
恐ろしいほどの救いです。

 

大祭司が言ったのはほんとうでした。人間というのはほんとうに、どこで何をやっているか。たいてい自分の都合のいいほうを考えます。この最高法院も、暴動が起きたら、本当は困るのは国民ではなくてそんな問題を起こした自分たちが、ローマから権力を奪われて、追放される。そっちのほうが困るからでした。でもそんなことは、人はしょっちゅう考えます。何か周りで起こっても、頭の中では計算が早くて、いつも自分の都合のいいほうに進めているんじゃないか。そのためなら一人くらい犠牲にしてもいいんじゃないか。
そうやって、本当は、自分のためではないか。結局は、自分を守りたいだけじゃないか。

だからその代わりに。この人に
身代わりになってもらおう。

それを大祭司は、本心を隠しながらもはっきり言いました。「一人の人が民の代わりに死ぬ」、そして「国民のために死ぬ」。この「代わりに」とか、「ために」というのは、英語で言いますとForという言葉です。For。

誰々の代わりに、誰々のために。
そしてほんとうは、人間はいつも自分のために、と願っている。For me。

ある海外の教会の前に、Jesus died for you と書いてあるのを見たことがあります。Jesus died for you。
イエスはあなたのために死なれた。
でも、何か違和感がありました。こころの中ですぐに思いました。違う。For me。

教会ですから、外に向けて、For youと言っているのかもしれませんけれども、そんなことない。For me。
教会こそFor meの集まりだ。

そのことを、
でも教会は初めから言っていました。
「キリストが…私たちの罪のために死んだこと」(Iコリ15:3) 。パウロも言ってました。
「キリストが私たちのために死んでくださったことにより」(ローマ5:8)。
そのFor。
私たちの「ために」。

でもそれ以上に、羊飼いが言われたではないか。
「私は羊のために命を捨てる」(10:15)。

羊の「ために」。そのFor。
私は命を捨てる。

 

そのことを神様が、人を代表して、
大祭司に言わせてくださいました。
――― For me。

 

この審判が下されましたとき、主イエスは、エフライムというところに退かれていました。エフライムはエルサレムからは手の届かない、荒れ野に近いところで、主は、しばし休まれました。
先ほどエレミヤ書を読みましたが、神様が散り散りにされた神の民を、再びご自分のところに呼び集められる。その時、エフライムの山では見張りの者が「行こう、主のもとへ」と叫ぶ。ヨハネ福音書が付け足した、「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも」。神の子たちを一つに集めるためにも、神様が、その場所エフライムを「わたしのかけがえのない息子」と呼んで、そこから動き出される。その場所、エフライム。そこから。
そしてもうすぐ、その時が近づきます。

過越の祭りが始まろうとしていました。
ヨハネ福音書では、主イエスは「過越に屠られる小羊」とされています。その過越祭が近づく。そのエルサレムに、これから、主は入ってゆかれます。
そしてその過越の小羊を屠るのは、祭司の役目でした。

「その年の」大祭司。その務めが、このように果たされたのは、神様がなさったことなのです。
神様の「あなたがたのために」。
――― For you。

 

 

天の父なる神様、
For me。今、あなたの御前に集められたのは、その者たちです。感謝します。
主の御名により、祈ります。アーメン